※岩泉の彼女

放課後の教室に取り残されていたクラスメイトは目の淵ぎりぎりまで涙を溜めながら言った。

「浮気されてるかもしれない」

人との上手な付き合い方を心得ていた俺は顔色一つ変えずに「まさか」と言う。それでも彼女は滲んだ瞳を擦りながらなんとか首を振っていた。
女子高生の法則通り短い丈のスカートに濃いグレーの少し大きめなカーディガンを羽織っている姿は如何にも量産的。しかしそこらへんにいる女子とは違い、運動が出来て社交的でまあまあ顔も整っている俺に好意や下心は向けずにあくまでクラスメイトとして良好な関係を築いていた。
それなのに岩ちゃんからの「彼女ができた」という報告とともに現れた苗字に動揺を隠し切れず中途半端な笑顔を張りつけてお似合いだねと嘘をついた。自らが辿り着けなかった結論を目の前にして心の準備が出来ていなかった。色々取り繕う余裕もないほどに。

岩ちゃんは愚直だ。浮気なんて器用なこと出来る人間じゃない。

その言葉は口に出さず喉の奥へと飲み込んだ。
普段笑顔を絶やすことのない苗字が今にも泣きだしそうな表情を浮かべているのは新鮮な光景で、もっとその先が見たくて今すごくどきどきしている。自分の性格の悪さは嫌ってくらい感じているが他人の悲恋はどうしても面白おかしい。それが片恋の相手なら尚更。

「只でさえ全然会えないのに部活が休みの日でも何も言わないで帰っちゃうし…連絡しても音沙汰ないし…」
「じゃ、最近してないの?」
「…なにを、」
「キスとか」
「えっ…」
「キス以外のこととか」
「………して…ないよ…」
「へぇー…確かにそれは寂しいかもね」
「う、うん」

岩泉一という男は大切なことや大切な誰かよりバレーを優先する男だ。要するに不器用で無関心で無神経。優先順位のヒエラルキーが露骨すぎる結果好きじゃないと思われてしまうタイプなのだろう。岩ちゃんらしい。その一言で片付けてしまいがちだけど、高校三年生の夏、俺達にはやることが多すぎる。付き合って甘えるわけでもない、別れても泣きついてくるわけでもない、そんな男をいつまでも好きでいても時間と労力と細胞の無駄なんだからさっさと先を見据えて他の誰かに目を向けた方がいいと思う。ほら…例えば目の前にいる俺。とか。

「あのさ、聞いてもいいかな」
「なに?」
「岩ちゃんのどこが好きなの?」

興味と勢いで聞いてしまったのだが、みるみるうちに顔面が赤く染まっていく苗字の姿に一気にフラストレーションが溜まった気がした。惚気を聞いたわけではない。どういうつもりですこぶる無愛想なあの男に惚れているのかという純粋な疑問だった。「格好良いから」とか「優しいから」とか簡潔で適当な結論でもいいから苗字の口から直接聞いて岩ちゃんの大きな欠落と、それを補える俺の存在を思い知らせたかった。はずなのに、

「…ぜんぶ」

予想は見事に逸脱してしまう。
自分が選ばれなかったという思考が追いつかなくて、手に入らないものほど欲しいと思えた。苗字の愛情を奪還して掻き乱したい。苗字の特別になりたい。
そっと手を伸ばし髪の毛に触れる。驚きながらも照れ隠しでなのか、へらりと笑った苗字の反応を少し違う方向に受け止めた俺は調子に乗って耳へと指を移動させる。一回ぴくりと動いた後は麻酔でも打たれたかのように体を強張らせその可愛い顔を盛大にしかめていたが、首筋に指を這わせた途端に呼吸が小さく乱れた。

「…お、及川…くん、?」
「ん」
「なにして…」
「え、わかんないかな」
「うん…どうしてこんな、」

苗字の言葉を待たずして口を自らの唇で塞いだ。そのまま邪な感情に流されるまま喰らいついてしまおうかとも思ったがすぐに顔を離し首筋に小さく息をふっと吹きかけた。突然の出来事に息をすることも難しそうなくらい動揺している苗字を見ると最高の気持ちになれた。精神的快楽とはこういったものなのだろう。

「俺なら岩ちゃんよりもっとうまくやれるけど。どうする?」

苗字は応答をよこさない代わりに澄んだ瞳からぼろっと涙を落とした。それを指で拭っても瞬きが蠢くたびに涙が頬を伝っていく。

「嫌だと思ったら、殴っていいから」

とりわけ否定するわけでもなくそれでいて誘いに乗るわけでもない苗字を痛いくらい抱きしめても罪悪は感じない、ただすごく良い匂いがした。岩ちゃんと苗字の関係が終焉に向かうのか、それとも俺の不毛な片想いが再び終わるのか。どちらにしても、頼むからもう少しだけ理性的でいてくれ。俺。