幼い頃、隣の空き地に新しく家が建っていく様子を毎日のように窓から眺め完成を楽しみにしていた。
そして新築の家と共に姿を現したのはとても感じの良い夫婦と、見るからに生意気そうな目をした私より背の低い男の子。それが晋助だった。
子供達が同じ年齢ということもあってか、親同士はすぐに意気投合して家族ぐるみの付き合いとなり、私と晋助はまるで家族のように、そして兄弟のように長い時間共にしてきた。
小学生にもなると晋助の生意気は更に磨きがかかり、某アニメの俺のものは俺のものお前のものも俺のもの持論の立派ないじめっ子へと成長をしていくが、思春期を迎える頃になるといじめっ子だった晋助は不良へと進化を遂げる。もともと友達が少ないにも関わらず、更に誰も近寄らなくなって、その代わり怖い顔の年上の人達ばかり寄せ付けるようになってしまった。
毎日のように顔や体に傷を負ってきてはろくに消毒もせず制服の袖で傷口を擦るだけの晋助を見かねて、毎晩救急箱を持って高杉家に夜な夜なお邪魔したのは今となっては良い思い出だ。



「調子に乗ってんじゃねーぞ、ブスが」



複数の足音が遠ざかり聞こえなくなったのを確認してから体を起こす。叩きつけられたのが砂利や土の上じゃなく、冷たいコンクリートで良かった。制服についた汚れを叩き落としていると髪の毛に違和感を感じた。触れてみると、べとついた感触が指に絡む。ガムだ。細い髪の毛に絡まったそれは引っ張るだけでは到底取れそうにない。

同じ高校に進学しても二人の関係は今までと一切変わらない。しかし環境はまるで変わってしまった。
今まで嫌われ者だった晋助が一部の女子に騒がれるようになったのだ。そうなれば、あの無愛想で悪名高い彼の隣で平然としている私に、その一部の女子が黙っているはずない。すぐに標的にされ、こうして度々嫌がらせを受けていた。その嫌がらせの中で今日は一番たちが悪かったかもしれない。

さすがに髪の毛にガムがついた状態で授業を受ける気にはなれなくて、昼前にも関わらず学校を早退することにした。
こんな事ではもう晋助に「ちゃんと授業うけなさい」なんて説教できる立場じゃないな、と思いながら自宅に向かう。そして両親共働きであることに有難みを感じていた。


風呂に湯を張る。蛇口から止めどなく流れていく様子を意味も無く見続けているとあっと言う間にお湯が溜まる。
バブルバスなんて浮かれた気分でもないし、白濁した甘ったるい入浴剤も気が引けた。そこで普段使う事がなかったリラックスや癒し効果が記載された入浴剤を満遍なく振りそそぐと、その胡散臭い効能とは裏腹に透き通った青の湯は美しく、いい香りが風呂場を覆っていた。

頭に思い浮かぶのは晋助のことばかりだ。
きっと誰よりも近くでお互いの成長を見てきただろうし、見られたくない…見たくない部分も共有した。
攻撃的な彼女達は私達の関係に嫉妬しているけれど、家族でも兄弟でもない。友達でも恋人でもない。ただの「幼馴染み」でしかない。
それなのに今まで築き上げてきた関係が崩れてしまうのを恐れ、私は晋助との「幼馴染」という関係にしがみついているだけ。良くも悪くも決してそれ以上にはなれないのだ。







脱衣所で物音がした、ような気がした。母親が帰って来るにはまだ早い時間…と思いながら湯に浸かっていると急に風呂場のドアが開いて思わず声が出る。が、そのドアの前に立っていた姿に再びお世辞にも可愛くない声が出た。


「風呂入んなら玄関鍵かけとけよ、物騒だな」


晋助、ご本人登場である。


「ちょっと、何で入ってきてんの」
「鍵開いてたから」
「不法侵入してるあんたが一番物騒なんだけど?」

透き通った青い湯で私の体は丸見え間違いないので、取りあえず晋助に背中を向ける。

「何だ今更恥じらって、お前の貧相な体なんてとっくに見飽きてんだよ」
「見飽きたって…それいつの頃の話してんのよ。もーいいから早くあっち行って」
「慰めにきてやった」
「は?」
「いくら女同士でもひとりを五人で痛めつけんのはエグいな」
「……見てたの?」

思わず振り返り晋助の方に顔を上げると、奴はニヤつきながら偉そうに私を見下ろしていた。誰のせいでエグい事されてると思ってんのよ。これ以上ないほどおもいっきり不機嫌な顔で睨んでやった。

「助けた方がよかったか?」
「…別に。晋助がでてきたら余計こじれるから超迷惑」
「は、心配してやったのに迷惑とは酷ぇな」
「高みの見物決め込んでたくせに、酷いのはどっちよ」
「まぁそう恐い顔すんなって」

そう言った晋助は風呂場から出ていくどころか浴槽に近づいてくる。無防備でしかない私は再び背中を向ける事しか出来ず、ぬるい湯の中でのぼせそうなほどに全身が熱くなっていった。


「とってやるから動くなよ」


優しい手つきでまとめていた髪をほどき、ガムが絡んだ髪の毛に触れる。

「い、いいって、後で切るから」
「俺ァ髪は長い方が好きなんだよ。知ってんだろ」

…知ってる。
知ってるからこそ、ずっと髪を伸ばしてきた。
コールドスプレーで冷やして固まったガムを無理に引っ張ることなく優しく、丁寧に取り除いていった。再び晋助が髪に指を絡ませると先程の痛みを伴うひっかかりは綺麗に消えていた。

「ありがとね」
「なぁ、」
「ん?」
「いつまでこんな生ぬるい関係続けるつもりだ」

狭い空間によく響く。
言葉ひとつ間違えれば、この儚い想いを諦めることになるのではないか。そんな危機感から無理に口角をあげ不自然な笑みを作る。

「今更何言ってんの…晋助と私はこれからもずっと、」
「これからもずっと、ただの幼馴染みってか?」
「…………そうだよ」
「名前は俺を自分のものにしたくねぇのかよ」
「…でも晋助は…誰のものにもならないじゃない…いつも付き合ってないくせに、その…体だけの関係とか。そういうのばっかりだから…」
「だから?」
「だから…私はそんな簡単に終わる関係にはなりたくないの!晋助とは!」

晋助には背中を向け、壁に向かって大声で…一体私は誰に何を言っているのだろうか。
決定的な一言は言ってはいないものの、晋助は何も言い返してこない。本来湯気が立ち上るはずの空間は今にも凍り付きそうだった。

「とりあえず…のぼせそうだからいい加減出ていってよ」

半ば無理矢理にでもこの状況から抜け出そうとしたが、
それを晋助は許さない。


「俺は誰のものにもならねぇけど、名前が誰かのものになったらそれはそれで嫌だ」


……見るたび違う女を部屋に連れ込んでるくせに、そんなのおかしいよ。
その言葉が口から出ない代わりに涙がこぼれた。

「何泣いてんだ」
「…」
「泣きてぇのは無視されてる俺の方だろ」
「どうせニヤけてるくせに…」
「何でわかる?」
「女の子泣かす時は絶対笑ってんのよ、晋助は」
「へぇ、さすが俺の事よくわかってんな。次はどうやって泣かそうか考えると楽しくてよ」


「だから、名前を泣かすのは俺だけでいい」


急に体が後ろへと傾き、ぐっと引き寄せられる。その衝撃で湯が揺れ、晋助の白いシャツが青く染まる。
自分勝手で奔放なくせに、独占して離そうとしない。私の一番傍にいるのはいつだって晋助だった。
そしてこれからも、ずっとそうであって欲しい。


「俺のものになって、名前の全てを俺にくれよ」


あと、いい加減こっち向け。と付け加えられた愛の言葉によって再び涙が溢れた。振り返るとやはり晋助は憎たらしい笑みを浮かべていたが、怒りという感情ではなく、嬉しさや愛しさばかりが込み上げる。
今まで一回もしなかったことが不思議に思えるほど自然にキスをして、その瞬間から私達の幼馴染という関係は終わりを迎えた。

end.