空が赤い。程よく薄暗くなる教室に橙色の夕日が差し込み、教室の中までも空と同じ色に染まっていた。


「まだ、帰っとらんかったか」


狭い空間に引き戸が擦れる音が響いた。そして彼の声も良く響く。
その長身に似合う細身のパンツに細身のネクタイ、サスペンダー、胡散臭いサングラス。独特のスタイルに最初は違和感しか無かったはずなのに、いつしか彼を目で追うようになり、やがてそれは恋心へと変わっていく。だって毎日顔を合わせる異性なわけだし、幼稚な同級生達には到底敵うはずない大人の魅力に惚れ込んでいくのは至極当たり前のこと。
銀八先生が何人もの生徒を国語準備室に呼んではいかがわしい事をしている。なんて噂もあるくらいだから、別に私だけが特殊というわけでは無い。

「先生を待ってたの」
「…おまんはまたそうやって大人をからかう」

坂本先生は決して教師と生徒という関係を壊すような態度は取ってはくれない。他の生徒と平等に接する態度は、自分だけを特別視して欲しい気持ちが大きくなるほど、胸にぽっかりと穴が空くように虚しく、辛い。

「先生のことが好きです」
「苗字のそれは聞きあきたぜよ」
「私の事好きになってくれるまで毎日言い続けます」
「その根性は褒めてやりたいところやが、こうしてる間にも刻々と高校生活は終わりに近づいてるんじゃ。無駄にするんじゃなか」

ごつごつとした手が私の頭の上に置かれた。先生は言ってる事とやってる事が矛盾している。頭なんて撫でられたらますます惹かれるに決まってる…そのまま優しく撫でられるもんだから「先生…気持ち良い」と意味深に呟いてみると、彼は勢いよく手を引っ込めた。

「な、なんちゅう声だしちゅうちや!」
「頭撫でられると気持ちよくなりません?…あれ、先生もしかしていやらしい事考えてたりしますか?」
「ガキに興奮するほど餓えておらん」
「体の発育的にはもう大人ですよ」

私のその言葉に坂本先生の視線がやや下にずれた。あ、胸見てる。わかりやすい人だ。

「試してみます?」
「そのへんにしとき、そんな事になっちゅうおまんも儂もただじゃ済まん」
「大丈夫。だって銀八先生も生徒とえっちな事してるってみんな言ってるし」
「金時か…あやつならやっててもおかしくないのう…」
「放課後の国語準備室から苦しそうな男と女の喘ぎ声が聞こえるって」
「アッハッハ何じゃその学校の怪談のような噂は」

あ!学校の怪談と言えばさぁ、だなんて他愛のない会話もちゃんと聞いてくれて一緒に笑ってくれる。もっと、もっと一緒にいたい。二人きりの時間が欲しい。高校生活を犠牲にしても良いと思える程、私の愛情は真っ直ぐ彼に向けられている。
少しずつ日が暮れて、橙色に染まった教室も何時しか本格的に暗くなる。いよいよタイムリミットだ。

「もう部活も終わる頃やか学校も閉まるき帰るぜよ」
「先生ともっと一緒にいたい」
「土日祝日意外は毎日一緒じゃろ」
「土日祝日も夏休みも冬休みも、欲を言えば家に帰ってからも夢の中でもずっと一緒にいたいんです!」
「まっこと欲張りじゃなアッハッハ」

また笑った。ここ笑うとこじゃないのに…やっぱり本気に捉えてくれてないんだな。と心が痛む。所詮私は坂本先生の生徒でしかなく、彼の意識の範囲には到達できないのである。

「儂は生徒に手をだす事は絶対にしない」

長い廊下を歩くのは私達だけ。静かな空間に響くのは二人の足音と、坂本先生の現実的なその言葉だった。一気に目頭が熱くなって声も出ない。視界も涙でゆらゆらと揺れた。
銀八先生を好きなあの子達は自分に好意が無い事、弄ばれてる事を承知の上で抱かれ心を満たしていた。心身ともにダメージを喰らうその行為は私にしてみれば正直羨ましい。いっそ全てを汚されても良いから満たされたい。
でも私の愛する彼は決してそんな事しない、わかってる。そこも含めて全部好き。坂本先生はいつだって優しくて穢れなき綺麗な人。

「じゃけん……卒業するまで待っておれ」

私は廊下の真ん中で立ち尽くした。
足音がひとつ消え、すぐにもうひとつも聞こえなくなる。心臓の音さえも聞こえそうなくらい静かな廊下で私と坂本先生は脚を止めたまま。

「今なんて、」
「おまんが卒業まで儂を想うていられるならの話だが」
「先生…からかってます?」
「おまんが儂をからかってばっかりじゃき、仕返しぜよ」
「…先生こそ、卒業までの一年半の間に違う人の所へいっちゃったりしないですか…」
「儂の一年半とおまんの一年半のスピードを一緒にされたら困るぜよ。儂の年になると一年半なんて一週間くらいの感覚じゃき、あっとゆうまじゃ。そんな短期間で心変わりなどするわけない、苗字が変わらず毎日の様に好きと言うてくれるのならな」

いますぐ抱きしめたい、胸の中に収まりたい。そんな行き場のない感情が再び視界を歪ませた。
頬を伝う涙が顔からこぼれ落ちる前に坂本先生の指に絡み取られていく。
ずるい、これはいわゆるキープってやつですよね。そう可愛げの無い言葉は飲み込むことにした。残りの一年半は抱擁もキスも、セックスも全部おあずけだなんて健全な女子高生からしたら中々辛い。坂本先生は私で抜いてくれるのだろうか…他の子をオカズにしてたらすごい嫌だなぁ、だなんて自惚れた。
学校生活の終了を告げる最後のチャイムまで明日も明後日もその次の日も、今までと変わらず「好き」と伝え続けていくのに対して、きっと坂本先生も変わらず私の想いを軽く受け流していくんだろうね。
優しく穢れなき綺麗な人は思わせぶりな態度を取りながら、私の胸に空いていた穴を塞いでくれた。

純情は春に喘ぐ