山崎退。32歳。会社員。
同世代は次々と昇進していき、指をくわえて見ているうちにひとり取り残された俺は、年下の上司や後輩にまでタメ口どころか呼び捨てにまでされている。
同じ会社の同じフロアで働く年下の恋人のまわりには魅力的な男性ばかり。選り取り見取りなはずなのに、何の取り柄もない俺と付き合ってくれたことは未だ不思議に思う。
彼女との関係は公にしていないけれど、こんな役立たずのオッサンと付き合っているだなんて誰も疑いもしない。その証拠に最近新しいプロジェクトを一緒に立ち上げている沖田さんと彼女がデキている、だなんて噂を聞いた。確かに年齢的にも近いし、何より彼らの仕事ぶりは上司やクライアントからも絶賛されている。故に俺と一緒にいる時間より沖田さんと共にする時間の方が多いかもしれない。二人が肩を並べながら歩く姿や笑顔に「仕事だから仕方ないよね」と自問自答するかのように言い聞かせるしかなかった。


「起きて、名前ちゃん」
「んっ…」

プロジェクトを任されると彼女は俺の部屋で寝泊まりをする。理由は俺のアパートの方が会社から近いから。俺より遅く帰宅し、俺より早く仕事に向かう彼女は少しでも早く、少しでも長く身体を休めたいらしい。

「ん……あと5分…」
「それさっきも言ってたよ、ほら起きて」
「無理…眠い、疲れた…仕事休む…」

普段の彼女からは想像できない姿がここにある。朝が弱いため起こすのも一苦労で、目を覚ましたかと思うと恐ろしく不機嫌だったりするので油断ならない。

「今日の朝ご飯は和食にしてみたよ」
「……米食べたい気分だった、ありがとう」
「どういたしまして。冷めないうちに食べよう」

どんなに寝起きの悪い朝でも朝食を美味しそうに食べる表情は、会社での凛とした姿からは想像も出来ない程あどけない。年下の上司や生意気な後輩達は知らないであろう、この表情を独占している事に優越感を感じているのは、きっと彼女も知らない。


***


「おい山崎」
「は、はい何ですか」
「彼女とうまくいってんの?」
「え?えと、え?ええ?何で彼女、え?」

最近彼女と噂が絶えない沖田さん。つまり恋敵とも言えよう人からの唐突な質問に動揺を隠し切れず不自然極まりない反応をしてしまう。

「何だその反応、童貞かよ」
「どっ童貞じゃないですよ!」
「あっそ、で、いるんだろ?彼女」
「…一応いますけど」
「へぇ…」

「沖田さんは彼女、いるんですか…あの、最近噂で聞いたんですけど、#名字#さん。とか…」

俺は自分の奥底から湧き出る感情のまま禁忌とも言える事を聞いてしまう。
火の無い所には煙は立たないという言葉あるように、噂はどこまでが本当なのか、何の根拠があって彼らが「デキている」という噂に結びついたのか。
彼氏として、そして男として全く自信の無い俺が、沖田さんと張り合う事なんて出来るはずない。もし彼らの関係性があの噂と何らかの繋がりがあったとして、それを知りえるなら…少しは覚悟出来るかもしれない。彼女が帰ってくるまでに想いや感情を押し込めて、身を引く覚悟を。

「付き合ってる、って言ったらお前はどーすんの」

沖田さんを恐ろしく思う。彼は全てを見透かすような視線で俺を捕えた。

「…お二人はお似合いだと思います」
「まぁ誰が見てもそう思うよな。俺もそう思うし、」

「でもお前が思ってるより名前は他の男になびいたりする女じゃないと思うけど」

そう呟いた沖田さんは溜息をひとつ漏らした後に「死ね山崎」と一言付け加え速やかに俺の横から去って行った。
張り詰めていた緊張感が一気に解け、目頭を熱くさせる。
彼女を大切にしたいと思う半面、自分が傷つく事を恐れてしまい、一方的な嫉妬や身勝手で愛する事をあきらめてしまおうとした。
ずっと片想いをしていた。彼女がこの会社にきてから、ずっと。大した仕事も出来ないくせに「わからない事があれば何でも聞いてね」なんて先輩面したりして、あわよくばまた話せるといいな。なんて思っていた。
彼女が仕事を成功させていく一方で、俺の恋心は支配されるように彼女で埋め尽くされる。高嶺の花のような存在になっていく彼女に想いを伝えると少し驚いた表情のあとに、可愛い笑顔で宜しくお願いしますと言われお互い頬を赤く染めながら喜び、想いが繋がり合ったはずなのに、自分の自信の無さを理由にして片想いという感覚が消えてくれることはなかった。

今日も彼女の帰りは遅く、疲労感に加えいつもより機嫌が悪い。
「おかえり」の返答はなかった。多分、沖田さんから今日の事を聞かされたんだと思う。
風呂場に直行した彼女を目で追いながら胸を痛めた。

風呂から出てきた彼女はそのまま寝室へと向かう。いつもなら冷えたビールとグラスを持ってリビングのソファで寛ぐのに。やはり、

「名前ちゃん、ごめん」

俺に背を向けながらベッドの上で横になる彼女から以前返答はない。そんな姿を目の当たりにして気の利いた言葉ひとつ思い浮かばない事が更に胸が締め付けられた。

「疲れてる時にくだらない事で…嫌な思いにさせちゃってごめんね。俺、今日リビングで寝るから。おやすみ」

「…くだらなさすぎ」

相変わらず背を向けたまま小さく呟いた。

「何で私が沖田と付き合わなきゃいけないのよ」
「いや、それは社内の噂で…」
「退はそれを否定する立場なんじゃないの。彼氏として」
「ごもっともです…ごめんなさい。でも、俺と名前ちゃんの事は秘密だし…俺が否定するのも変っていうか、」
「じゃあ私は噂通り沖田の彼女になればいいわけ?」
「そ、そうじゃなくて…!」

半分、いや、それ以上に伝えたい事が上手く言えない。

「退」
「はい…」
「余計な事は考えなくていいから、さっさと昇進して早く私を養ってよ。そうすれば…朝ごはんくらい作ってあげるから」


聞こえたのにも関わらず、少し間を置いてから「え?」と聞き返した俺に「おやすみ!」と言う彼女の耳は真っ赤に染まっていた。きっと耳だけじゃない。離れていた距離を詰めてベッドに潜りこみ、しがみつくように彼女に抱きついた。
きっと疲れているだろうし寝たいというのは本音なんだと思う。それでも今日だけはわがままを聞いて欲しい。彼女の火照った耳に唇をのせる。

「30分、いや15分でも良いから、もうちょっとだけ…起きてて」

そんな遠慮がちに言ったわがままを許すように、背を向けていた彼女が向かい合うように体制を変える。想像通り頬を真っ赤に染めている彼女は、俺の腕の中で疲れきった身体を委ねた。

「明日の朝はパンにして」

甘い雰囲気のなかで朝食の指定をしてくる事とか、想像もできない彼女のエプロン姿、そういえばさっきのは逆プロポーズなのかなと気づいたこと。その全てが愛しくて、幸せが込み上げ思わず笑みが溢れた。
俺が昇進するだなんていつになるかもわからない夢の様な話だし、自分の能力値は自分が一番解っている。それでも彼女が俺の為にトースト一枚でも焼いてくれようものなら、彼女のため、そして俺自身のために身を粉にして働いて今よりもっと、もっと上手く生きていこうと思う。

こんなにも愛してくれるのなら、今度は俺からのプロポーズを受け取ってほしい。



くらげさん10万打+1周年おめでとうございます!