元々在籍していた数学教師が産休を取り、その穴を埋めるため臨時で赴任した教師が初め
まして。だなんて白々しい自己紹介を済ました後に授業が始まる。目が合えば俺は逸らさず名前だけを真っ直ぐ見ていた。

「…私じゃなくて黒板を見ようね」

教室ではなく屋上で、少し照れながら注意してくる名前の反応が堪らなく楽しい。






「遅いよ」

腕を組みこちらを睨みつける名前は俺の席に座っていた。その机の上には既にプリントが何枚か置いてあり、一気に気が重くなる。

「俺だけだから早く終わらせるとか言ってなかったか?」
「高杉くん次第だと思うけど」
「しばらく帰れねーぞ」

名前は前の席に移動し、俺も自分の席に腰掛ける。名前との距離が近い。広々とした教室に響く声がいつもより耳に残り、例えそれが理解し難い数式や定理だとしても自分だけに向けられてる事に優越感を生んだ。

「…聞いてる?」
「いや」
「ちょっと、本当に終わらないからちゃんとやってよ」
「指図すんな」
「高杉くんって私の事見下し過ぎじゃない?」
「今更かよ、俺が名前を見下してんのは今に始まった事じゃねぇよ」
「こら。先生って呼びなさい」

それも今更だ。逆に名前の事を「先生」だなんて違和感しか無い。その癖目の前でいかにも教師らしく振舞う姿が余計に集中力を欠く。名前に意識を向け過ぎている事に我ながら呆れ、シャープペンの動きが鈍いのはこの時間が長く続けばいいと思っている事を裏付けている気がして舌打ちをした。静かな教室にその音が響くと名前は俺に視線を向け「だから、私じゃなくて問題を見なさい」と注意する。

プリントの解答欄が全て埋まった頃には教室は夕日で橙色に染まっていた。大きい欠伸をひとつした後に名前は「遅いから寄り道しないで帰るんだよ」とまるで小学生を扱ような態度を取る。

「名前、」
「名前じゃなくて先生でしょ。何?」
「彼氏とか、いんの」
「えっ急になに…」

頬を染める事を期待していたが、どうやら頬ではなく耳が赤くなるタイプらしい。誤魔化すように髪を耳に掛けた時に赤く染まった耳朶が見えた。少し怒ったような口調で「どっちでもいいでしょ」なんて言う所を察すると、

「さてはいないな?」
「何でそう思うの」
「名前の態度。解りやす過ぎ」
「生意気…」

直接的に言葉には出さないが、反応からしてやはりいないのだろう。いつから、なんて事も聞き出したかったが「じゃまた明日、遅刻しないでね」と言い離れていく距離にそれは叶わなかった。
教室は再び静寂に包まれる、はずだった。戸が開く音がして再び名前が戻って来たのかと思い振り向くと、そこには担任の銀時が居た。

「補習お疲れさん、高杉クン」
「…」
「あれ、無視?」
「…何だよ」

「高杉クンさぁ、いつから数学苦手になったわけ?賢いわけじゃないけど、数学はわりと点数取れてた方だったよな?それがどうして夏休み明けから急に赤点取って補習なんて事になっちゃうかなぁ。先生不思議で仕方ないんだけど」

確かに苦手では無い。適当に授業を聞き流したとしても今まで赤点なんて取る事は無かった。今だって黒板や教科書を見る事より名前を見ている時間の方が長いが…あんな簡単な問題解けない訳無い。屋上だけではなく、違う形で名前と時間を共有したかった。
全てを見透かした銀時に何を言っても陳腐な言い訳にしか聞こえないのは解っている。それでも尚、吐き捨てるように呟いた。

「あいつの教え方が下手だから」

あいつ、と言う曖昧な言葉を交えて言うと、まぁそれは一理あるか。と銀時が片方の口の端だけ上げて笑みを浮かべた。そんな銀時の横を無言で横切ると「寄り道すんなよ」とどこかで聞いたような内容が後ろから聞こえた。どいつもこいつも子供扱いしやがって、と苛つくのはまだ俺自身大人になりきれていないからなのだろうか。
外に出ると大きく伸びた自分の影が追いかけてきた。さぁこれから何処へ行こうか、