ネリネ | ナノ



俺の脳裏のあいつはいつも寂しそうな顔をする。俺に気づいて泣きそうな壊れそうな、無理矢理な笑みを浮かべる。
そんなあいつに何もかけてやる言葉が見つからなくて、漸く選んだそれを形にしようとする瞬間、消えるあいつと始まる一日。


何度その夢を見たのかは覚えていないが、その夢を見た数だけ俺はあいつに手を伸ばせず言葉をかけることもできなかったという惨めな結果だけが増える。今隣に居さえすれば、或いはもっと近しい存在であれば成せたであろう一言の自責すら、拾ってくれる者は居ない。
あの時あいつが浮かべた笑みは、元々こうなることがわかっていてのものだったのだろうか。そもそも俺と出会ったことは偶然だったのだろうか。自らの影で密やかに生きてきたあいつが、何故光を求めて手を伸ばしてきたのか。
今はなき傍らに在った陽炎のような幻に焦がれて、また眠る。俺が奴に逢える場所は、其処でしか無いから。





あいつの居場所を作ってやりたいと思った。
人は自分が生きたという証を残してゆくものだと何処かで聞いた気がする。ならば、もう居ないあいつの証は誰が作ってやればいい。

与えられた携帯からあの男の番号を探す。少し手間取りながらも電話帳を開いて下にキーを押し続け、幾つかの施設や学校の名前の這入ったアドレスに混じった個人の名前を見つけた。厳めしい名前だと思いながらもコールをかける。いち、に、さん。きっちり三コール目で回線の繋がる音。


『もしもし……』

「俺だ」

『…ああ、白竜くんか』


電話かけられたんだね、なんていう俺を小馬鹿にした世間話は如何でもいい。


「見晴らしのいい場所は何処だ」

『え?』

「二度も言わせるな。この町で見晴らしのいい場所は何処だと訊いた」


兎に角急いた。この気持ちが揺らいで有耶無耶になる前にと。
男はそれ以上深入りをすること無く、自分が気に入っているという場所を口にした。携帯を片手に地図に殴り書くように執拗に印をつけ、手短に礼を伝え走った。電話口の男が切断音の続く向こう側で拍子抜けした後柔らかな表情をしていたことなど、俺は知らない。


外はまだ夕暮れには遠く、太陽が真上から少し傾いた程度だった。何処か湿った匂いを感じ取りながら、俺は走る。手には地図だけ。必死に走った。走って走って、角を曲がったり坂を登りながらずっと走った。内に燻る感情が夢だったんなんて、思いたくなかったから。

辿り着いた其処は庶民的で、その所為かぼんやり幼い頃を思い出させる景観をしていた。人気の無い場所にぽつりと立つ。ざわりと音を立てる木々や揺らぐ水面。ひらけた空からは光が申し分無く射し込む。何処かあの森と似ているようで、心が安らいだ。されど見渡せばもう此処はあそこでは無いと理解してしまう。だから思ってしまうのだ、いつまで此処に居たところで、あいつには逢えないのだ、と。

凪いだ風がまた湿った匂いを運んできた。すん、と鼻を鳴らした頃、ぽつりと冷たい雫が頬に落ちる。空は未だ青空、太陽も顔を出していて、天候は雨。これが天気雨というやつなのだろうか。ぱたぱたと頬に服にと染みを作る雨はあいつのようだった。笑顔の裏で泣いているような奴だったから。
冷える身体とは逆に、心はとてもあたたかく感じていた。まるであいつが傍に居るような感覚がじんわりと俺を癒す、なんて、少し詩的過ぎるか。


一頻り降った雨はさぁっとカーテンを引くように止んでいった。やがてまた顔を出す太陽に少しだけ苛立つ。雫が伝う感触すらも留めておきたくなるようなもどかしさ。俺はいつからこんなに叙情的になったのだろう。

ざり、と不意に土を踏む音を聞いた。俺じゃない誰かの足音。


「あれ、君……」


カラフルな傘から雨雫をぼたぼた落としながら。
覚えのある、耳障りなボーイソプラノが。


「白竜、だよね?」


にこりと、ゆたりと。
何処かあいつに似た間延びした声音と形容し難い笑みで、そう言った。





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