ネリネ | ナノ



暫く談笑を交わした松風は、俺に雷門に来るようにと勧めを残して去って行った。
剣城を変え、俺達を変え、サッカーの在り方をも変えた雷門。あそこでなら俺はもう一度楽しいサッカーをできるかもしれないと思う。いいだろうか、一歩を踏み出しても。ざわりと木々の揺れが俺の背中を押して肯定してくれているように感じた。


「白竜」


何処からか聞こえた気がした懐かしい声が俺の名前を呼んだ。はっとなって辺りを見回すが、誰も居ない。気の所為だろうか。否、気の所為で片づけるには、あの聞き覚えのある声は明瞭に聞こえ過ぎていた。

片付けられない胸の内の蟠りを引き摺ったまま、ゆっくりと木陰に這入る。鬱蒼とした雰囲気はあの森のようで、差し込む木漏れ日と澄んだ空気は久々に俺をあの頃へと戻してゆく。目を瞑ってしまいさえすれば、先まで感じていた場所の相違による違和感は消え去った。懐かしく、時間軸を退行させた感覚。


「ねえ白竜」


また、聞こえた。どこかひんやりとした曖昧な温度が右手に触れる。其処に居るのか、なぁ、おい。


「お前は何処に居るんだ」

「此処に居るじゃないか。それとも君は今此処で喋っている僕は僕じゃないっていうの?」

「そうじゃない。お前が居るなら、それでいい」


お前が此処に居るのなら、此処に来るのなら。俺は奔走などしなくともお前の為にしてやれることがあるんじゃないかと。


「お前はこっちには来ないのか」

「…いけないよ。僕は君の、君達の声を聞き続けることしかできない」


そんな風に言うものではないと返そうと喉元まで出かかった言葉を引っ込める。今更、どれだけの言葉も世事にしかならないのだ。
この期に及んで何も伝えられないというのか、これでは余りにも滑稽過ぎるだろう。結局俺にはこいつに何もしてやれないままなのか。
それでも、募ったままの想いを何処に吐き出すかは明白で。


「……お前に伝えたいことが沢山あるんだ。今だけの逢瀬では語りきれないほどに、沢山」

「うん」

「俺はまだお前に何も伝えられていないし返せていない」


そう吐露して、それきり俺もあいつも黙り込んだ。会いたかったと叫べばいいのか、如何してあの時手を拒んだんだと怒鳴ればいいのか、今はどうしていると尋ねればいいのか。会話を進めることに憶病になっていた。また、あの時のようになるのではないかと。


「…ねえ白竜」


優しく子供を諭すようなゆったりとした声が鼓膜に優しく響く。瞼の上から感じた重さと冷たさは間違いなくあいつの手であるとわかる。


「君は一人じゃないよ」

「それはお前もだろう」

「そう、かもね。僕は天馬や君に出逢って一人じゃなくなった。でもそれは君にも言えたことだ」

「……なあ、俺が此処に来た理由を言ったら、お前は笑うか?」


いいや、と間髪入れずに返ってきた静かな声音に、淡々と語ってゆく。あの後如何過ごしていたのかも、俺が謝りたくて、お前の存在をもう一度身近に欲しくてこうしていることも。
俺の言葉に反応も見せないまま話は終わった。これを聞いてお前は如何思った。何と滑稽だと笑うだろうか、呆れるだろうか。こいつの居た証を如何にか残したいと願ったのは俺で、しかしそれを受け入れることを今になって恐くなっているのも俺だった。


「君はやっぱり馬鹿だ」

「…だろうな、自分でもわかっているつもりだ」

「僕が言いたいのはそういうことじゃない。君はもうとっくに沢山の世界を見て選べる場所に居るんだ。手を伸ばさないのは君の方だよ、白竜。何で僕に縋り続けるんだい?謝りたいからなんて正当化した理由言っちゃってさ、本当は自分が寂しいからなんだろう?」


否定はできなかった。こいつの為になんていうのは建前なのかもしれないというのは薄々感じていたから。どれだけ綺麗事を並べたところで、結局はこいつの存在を作って安堵したいだけの俺のエゴなのかもしれないというのはわかっているつもりだった。
だが俺が自分勝手に想ってこいつの為にと言い訳したって。


「それでも俺は、お前に居てほしかった。お前が居てくれる場所を作りたかった」

「…全然変わらないよね、もう少し取り繕ってくれてもいいのにさ。一直線過ぎるよ君」

「それが俺なのだから、仕方がないだろう」


呆れたように溜め息を吐かれる。変わらない、という言葉に少し嬉しくなるのは何故だろうか。
また沈黙が訪れ、俺達の間には風が吹き抜けるだけ。ただただ時間と風の流れに任せて、二人で寄り添っていた。そして白紙にインクを落としたように、いつだって、沈黙を破るのは俺の方なのだ。


「…お前の居場所を作ってはいけないのか?俺は、お前に縋って生きてはいけないのか?」


心からの懇願、では言い過ぎだが、それに近しい感情を口にした実感はある。縛りつけるように絡まったままの小指を、俺は離せずにいる。きっと俺の抱えるものをわかっているから、こいつはそこにだけ言及しない。その優しさが嬉しくもあり、痛い。
だが今は違った。全てを知って、昔のように一線を引かなくてもいいようになって。お互いに、言わなければならない言葉はわかっているつもりだった。


「何度でも言うよ、君は一人じゃない。もっと周りを見てご覧よ、君が縋るべきは僕じゃない」

「……俺は、お前に…」

「居場所なんていいんだ。君が覚えている限り、僕は其処に生きるんだから」


するりと指が離れ、俺の胸をとんとんと撫でる。冷たくてまるで質量を感じない筈の奴の手から、じんわりと熱を感じた気がした。お前の居る場所は此処なんかでいいのか。発することなくその言葉を噛み締める俺に、いいんだ、いいんだ、と何度も繰り返す。赤子をあやすように染みわたる声音が、ゆっくりと俺の内側を溶かす。


「はっ、はくっ、……っ、はくりゅーぅ!!」


突然向こう側から聞こえてきた声に驚いて身体を揺らす。同じように驚いた拍子に被せられていたままのアイツの手が俺の目から落ちた。
暫くぶりの景色にチカチカと霞む視界の先で、帰ったはずの松風が俺の名前を叫びながら手を振っていた。その後ろからぞろぞろと、見覚えのある雷門のメンバーが現れる。


「皆に白竜が居るって言ったら、来たいって!もう夕方だけど、一緒にサッカーしようよ!!」


屈託の無い笑みが俺に向けられる。その隣の剣城は苛立ったような表情を見せるが、早く来いとだけ催促を寄越した。


どうすればいいのか躊躇った。俺もアイツも、これから先どうしていかなければいけないのかはわかっているつもりだった。立ち上がるべきか縋るべきか、少し前までの俺はわざとわからない振りをしたままでいたかった。
しかし。一歩を踏み出してもいいんだと、もう縛り縛られなくてもいいんだと、これから先のアイツの生きる場所を見つけられたんだと。変わったのは、如何やらあいつだけではないらしい。

背中が不意にとん、と押される。ざぁっと耳鳴りのように響く木の葉の擦れた音。風にそよがれるままに振り向いた先で、淡く微笑んだ君を見た。



「じゃあね。行ってらっしゃい、白竜」



それっきり、だった。一瞬で消えた、と言ってもいいのだろうか。さっきまで其処に居たように存在していたアイツの影すら無くなっていて、まるで白昼夢だったかのようだった。
それでも交わした言葉や声や、瞼越しに感じた独特の熱は確かにあったことで。間違いなく俺は、此処で、あいつと。


「はーくーりゅーうー!!」

「五月蠅いぞ天馬」

「そんなこと言ってー、剣城もそわそわしてるじゃんか」

「俺は早く練習に戻りたいだけだ」


他愛の無い会話のする方へと、覚束無いながらもゆっくり一歩を進める。また変われるだろうか、変わっていけるだろうか。それはこれから証明していけばいい。



「行ってくる…シュウ」



後ろを振り向くことなく呟いたそれは、凪いだ風に浚われて空に溶けた。
空の何処かで一番星が煌めいた。



俺は一人じゃない、それはお前もだろう、シュウ。





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