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 見知らぬ土地の何処かも判らない河原の土手で、成神は膝を抱えていた。きっと失望されただろう。次の試合ではスタメン落ちだ。……最悪、退部を言い渡されるかもしれない。そんな恐怖と不安で、成神は今にも押し潰されそうだった。影山が居なくなってからの部活で退部者が出た話は聞かないし、スタメン落ちしただとか、実力不足での強制退部なんて話はもっぱら出回らなくなった。それでも怖かった。要らないと、使えないと評されて、居場所がなくなることが。先輩たちもきっと怒ってるし、呆れてる。いいや、普段からあれだけ生意気な口を叩いていたにも関わらず、呆気なく地べたに墜ちてしまった自分なんて、もう見ていないかもしれない。見下していた先輩たちよりも下の存在になってしまった自分は、一体何処に居ればいいんだろう?

「っ、はぁ……」

 色々な感情がない交ぜになった息を吐き出してみたが、無色のそれは普通の吐息と変わらず、夕日が落ちかけてオレンジと紺で疎らになった空へと溶けていった。今頃皆はどうしているだろうか。使い物にならなくなった自分のことなんて、すっかり忘れて帰ってしまっているだろうか。恐らく探しているなんてことはない。幾ら昔と変わったからって、わざわざ後輩一人を探すために、全員の人手を使うこともないだろう。だからといって、誰か一人が何処に行ったかも判らない自分を探すためだけに、町中を駆け回っているなんてこともないはず。そんなことをする奴が居たら馬鹿だ。そうでなければよっぽど仲間意識が強いのか、或いは――。

「おいごらなるがみぃぃいいい!!」

 ――或いは、とんだ捻くれたお人よしぐらいのものだ。

 がらがらの声で叫ばれた自分の名前に重たい頭をあげて振り向くと、ジャージ姿の辺見がぜぇはぁと、試合中よりも息を切らせながら走ってきていた。だんだんとこちらに近づいてくるその形相は、遠目からでも判るぐらい、普段茶化したときに返ってくるそれとは比べ物にならないほど歪んでいた。

「っんの……っ、てめぇ……っ!!」

 疲労よりも怒りの勝った顔で、辺見はずんずんと成神に近づいてくる。十メートル、五メートル、一メートル。辺見は確実に成神との距離を詰める。立ち上がって逃げることもできたはずなのに、成神の身体は頑なに動かなかった。まるで地面に縫い付けられたように、ぱちぱちと瞬きだけはできる両目で、迫りくる辺見を見ているだけだった。
 辺見と成神の距離が、バスの座席一人分よりも狭くなる。辺見は見下ろした成神を見て、更に眉間に皺を寄せて、腕を振り上げた。殴られる、と成神は咄嗟に身を竦めるが、その後、いつになっても衝撃は来なかった。恐る恐る顔を上げると、やはり辺見は怒ったような表情で自分を見下ろしていたが、その瞳に怒りとは違う感情を滲ませて、こちらを睨んでいた。せんぱい、と小さく呟いた成神に、辺見は振り上げた手の行き先に迷い、結局自身の頭を掻いて、どかりと彼の隣に座り込んだ。何度か深呼吸をして息を整える辺見は、まだ少し肩で息をしていた。一体どれだけ走り回ったんだろうか。成神は信じられないものを見る目で彼を見た。

「……なんで、此処に居るんすか」
「……馬鹿が一人、帰り道から迷子になってたんでな」
「はは、馬鹿はそっちでしょ。わざわざ追っかけてくるなんて」

 力なく笑った成神を、辺見は冷めた目でじっと見つめていた。いつもと違う感情の読めない双眸が怖くて、成神はヘッドフォンをぎゅっと耳に押し当てた。場違いなほどアップテンポな音楽が。少しは慰めてくれるかと思っていたけれど、どこか責められているようで却って落ち着かない。沈んだ目をした成神に、辺見は言葉を選ぶことなく、直球を投げた。

「お前、調子悪いだろ」
「っ……はは、流石センパイだ、何でもお見通しってやつですか」
「多分他の奴等は知らねぇよ。俺が知ってんのは、お前とマンツーマンで相手したからだっつうの」
「……そっすね。多分、スランプってやつなんじゃないですか。最近、上手くボールも蹴れないし、今日みたいな大事にならないだけで、ミスみたいなのはずっとしてたし。……そんなだから、なんかもう、サッカー面倒になっちゃったなぁ、って」

 そう言った成神は、自分の中の何かがぱきん、と傷つくような音を聞いた気がした。言ってはいけないようなことを、よりにもよって自分の口から吐き出してしまい、今更になって取り消すこともできず、膝に顔を埋める。隣の辺見の表情は見えないが、けっと吐き出された悪態は呆れられているように感じた。

「一回や二回の失敗でうじうじしてんな面倒くせぇ。誰にだってそういうときぐらいあるっつうの」
「……なんで、そんなに構ってくるんすか」
「お前がうちのチームのメンバーだからだよ。それ以外に理由なんざねぇ。お前が抜けると一から作戦を組み立てなおさなきゃいけなくなる。佐久間も源田も頑張ってくれてっけど、あんまし負担になることは増やしたくないってのが本音だ。だから、歯車のお前に居なくなられちゃ面倒なんだよ」
「っ、捨て置けばいいだろ俺のことなんか! 帝国はそういうところだったでしょ!? わざわざ一個人に干渉して、気にかけるなんて、少なくとも俺の知ってる帝国じゃ、そんなことなかった!!」

 激昂した。今までの辺見から、もっと言えば先輩から、そんなことを言われたことがなかったからだ。
 一年の自分がスタメン入りしていることを快く思わない先輩の方が多いのは知っていた。けれど、帝国は強者が全てだったから、強く出てくる奴は少なかったし、そんな妬みは黙殺してきた。一軍の先輩たちも、表では戦力として自分をカウントしているのだろうが、裏ではきっと生意気な存在だと思っているはずだ。自分のようなでき過ぎる若輩者が目上の人間に囲まれれば、嫌でもそうなるだろうと、ジュニアクラブのときからずっと思っていた。だから必要以上に深入りすることはせず、適当に流して、最低限合わせて、そうやって過ごしてきた。好きなサッカーができれば、それでよかった。なのに、今はボールを蹴ることも、触ることもしんどくて堪らない。大好きなものが、大嫌いなものに変わろうとしていた。

「できなくなることが怖いなんて、アンタにはわからないよ!!」
「……お前、俺が躓いたことないとでも思ってるのかよ」

 静かな口調の中に明らかな怒りを感じて、成神はひくりと息を飲んだ。キレる辺見は見慣れていたが、淡々と怒る彼は、初めて見た。

「俺だって、できなくてへこんだことぐらいある。燻って八つ当たったこともある。……一年の頃、そんなだった俺を笑った先輩と、取っ組み合いのいざこざまで発展したことがあってよ。あのときは、できない自分にイラついてたし、それを指摘してくる奴にも、気にかけてくれる奴にも腹が立って噛み付いた。だけどまぁ、そんなことしてもちっとも上手くなるわけねぇんだよな。そんでイライラが溜まって、結局俺は部活を無断で休んだ。無断欠席なんざ、あの頃のサッカー部でやらかしたら、降格か、最悪強制退部だってあり得た話だ。そんときの俺は、そんなこと微塵も考えちゃいなかったがな。……でもな、好きなもん食って、死ぬほど寝て、やりたいゲーム夜中までやって、また好きなもん食って、寝てって繰り返してもな、すっきりしねぇんだよ。なんか抜け落ちたみたいに空っぽでよ。気持ち悪ぃなって思ったら、視界にサッカーボールが入ってきた。んで、何となく納得したんだわ、サッカーやってないからだって。そっからはもう転がる勢いよ。ひたすらボール蹴って、鬱憤晴らすみたいに追い掛け回して。気づいたら、朝から夜までぶっ通しでボール蹴ってた」

 辺見は、一年前のことを思い出しながら、誰に聞かせるというよりは、自分の記憶を整理するように喋っていた。もうどうにもならないんじゃないかと、そう思っていたのはあのときの自分だけで、今思えば単純なスランプの輪に陥っていただけだ。できなくて、苛々して、虚無になって、鬱憤を晴らして。そんなプロセスを経て、自分は抱えていた、もやもやとした気持ちと向き合ったのだろう。

「次の日、学校に行って、部活に顔出した。無断欠席のこと、鬼道さんに頭下げて許してもらったよ。ちょっと気にかけたこと言われた気がしたけど、何て言われたかはもう覚えてねぇ。んでまぁ、不思議なことに、それまでできなかったことが、ひょいとできるようになっててよ。そりゃもう驚いたわ。何の練習したわけでもねぇし、誰かのアドバイス通りに改善したわけでもねぇ。少しだけ気ィ抜いて、普通にやったら、できてた」
「……」
「そんなもんなんだよ。できないことはな、ずっとそのままじゃねぇんだよ。何かの拍子で、できないことができるようになるかもしれないし、逆だってある。ちょっと躓いたぐらいでぴーぴー喚くんじゃねぇ。そのことばっか考えてっから、ちっとも解決なんかしやしねぇんだろうが。いっぺん全部忘れてみろ。んで、思い出した頃、ちょっぴりでもやる気が残ってたんなら、またやりゃいい。まぁ、こんだけやってきて、今更簡単に切り離せるわけもねぇんだけどな」

 きっと成神も、自分が居た輪と同じ中に居る。自分に自信がなくなって、好きなものを嫌いになりそうで、そんな自分が嫌で、俯くしかないのだろう。そんな成神に、「頑張れ」なんて無責任な言葉をかけて無理矢理立たせるようなことは、辺見にはできない。根拠のない言葉で引っ張り上げる力は、辺見にはない。けれど、隣に居てやって、少しばかり立ち直り方を教えて、どうなるのかを見ていてやるぐらいなら、できるかもしれない。責任を持つというのは、こういうことでいいのだろうか。

「……辺見センパイ、単純に慰めるとか、そういうことはできないんすか。俺、結構どん底なんすけど」
「そういうことができる人間じゃねぇんだよ、俺は」
「でも、もうちょっと、やさしい言葉とか、あるでしょ」
「お前、慰めてもらいたくてこんなことしてんのか。誰かに肯定してもらいたくて、うちに居んのか」
「っ、んなわけ、ないでしょ……っ」
「それならいい。“大丈夫”、“お前ならできる”、“うちにはお前が必要だ”……。そういう言葉を求めてんなら、端から帝国に拘って居座る必要なんざねぇ。鬼道さんが居なくなったって、影山が居なくなったって、帝国の根本的な精神は変わらねぇ。弱肉強食、勝った奴だけが日の目を浴びる。それは今もこの先も一緒だろうよ」

 厳しいようだが、それが現実だ。強くなければ、帝国学園サッカー部の部員で居ることは適わない。一軍も二軍も、そのことを判っているから、必死になる。それで壊れてしまう者も居るし、努力が叶って昇格する者も居る。此処は既に、プロの世界となんら変わりないシビアな世界なのだ。影山という存在が居た故に、帝国は殊更強者に拘った世界だったように思う。辺見は別に、それが悪いことだとは思わない。弱い奴がちょろちょろとしていても邪魔なだけだし、どうせチームを組むなら強い奴の方が楽だ。それが気心の知れた奴なら、尚のこといいというだけで。影山が居た頃を否定するつもりもない。彼の行ってきた不正は兎も角、彼の指導で得た強さは間違いなく本物であることを、知っているから。
 ずっとずっと、辺見の中にある帝国のサッカーは変わらない。少しだけ変化はあったけれど、根っこの部分はそのままだ。それはきっと、自分以外もそうだろう。だが、昔と変わったこともある。だから、それだけは教えてやってもいいと思った。

「けどな、別に、自分だけで立ち直らなくたっていいんだよ」
「せんぱい……」
「下ばっか見てんな。できないならできるようになりゃいい、怖いなら怖いって叫べばいい。俺と違って、うちの奴等はどいつもこいつもお人よしだからな。後輩の泣き言ぐらい、嫌な顔しても付き合ってくれるだろうよ」

 こつん、と成神の頭を拳でやさしく小突く。そんな辺見は、成神からしたら、サッカー部で一番の馬鹿な人で、一番のお人よしに見えた。



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