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「成神、お前今日はもう下がれ」

 死刑宣告のように告げられた無機質な一言に、背筋がさぁーっと冷えていくのを感じた。

 あのキラースライド不発事件から一週間が経ったが、あのとき感じた違和感は徐々に大きくなり、遂に昨日の練習では普通のドリブルすら失敗するという失態を犯してしまった。幸い今まで不調らしい不調を見せたことはなかったので、この一件は注意力散漫ということで片付けられ事なきを得たが、成神は内心酷く焦っていた。翌日の練習試合に出されないなんてことがあっては、自分の矜持に関わる。結局その日、満足に眠ることはできなかった。

 やや寝不足気味のまま、練習試合のためにバスで移動する。簡単なミーティングにもなかなか集中できずに、隣の洞面に何度か心配された。会場に着いて、スターティングメンバーが佐久間の口から発表される。DF陣の中に自分の名前があって、成神は縛っていた紐を解いたときのような、弛緩した安堵を覚えた。大丈夫だ、必殺技がなくたって自分は強い。昨日のドリブルだってたまたまだ。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせるようにヘッドフォンの音量を上げて、成神はフィールドの白線を跨いだ。

 そこからの試合展開はいつも通りだった。圧倒する帝国と、それを足りない技量で追いかける相手。点差はすでに五点を超えていた。流石に鬼道が居た頃のような圧倒的な差というものはなかったが、無失点を守り、断続的に追加点を入れているだけでも十分過ぎる試合運びだ。現に源田は気を張ってはいるものの、やや暇そうにピッチを眺めているほどである。
 その分MFやDFの仕事が増えるのは必然であり、成神もせっせと無失点記録を守るために、相手のFWへ牽制をかけていた。ありがたいことにこちらがマークにつくとすぐにパスを出すおかげで、技を使ったり無理に突っ込む必要はないまま、前半終了二分前を迎えたそのとき、転機が訪れた。急にFWがパス回しを止めたのだ。パスを回すとばかり思ってマンツーマンの守備に傾倒していたDF陣は、突然の動きの変わりように少なからず動揺した。成神の前に相手のFWが突っ込んでくる。無論パスを出す様子はない。味方DFは他の相手FWのマークについていて、すぐにこちらへ加勢に来られる状況ではない。自分しか、これを止められない。そう思った成神の手に力が入った。できるか、否か。そして、やるしかないと腹を括った成神は、相手の足元目掛けてスライディングをかました。

「キラー……っ!?」

 しかし、やはりというべきか技は不発で、どころか大きくミスをした成神を嘲笑うように、相手は成神を飛び越えて、一直線にゴールへと向かっていった。あ、と情けない声を零したときには、相手のFWがシュートモーションに入っているところだった。振り抜かれる足、放たれる必殺技。

「パワー、シールドッ!」

 だからといって、帝国が――源田が、それを甘んじて良しとするはずがない。先までピッチを眺めていた姿はそこにはなく、剣呑な目つきでボールを睨んでいた。相対するように必殺技の名前を叫ぶと、現れたシールドと打たれたボールの間で、じりじりと鬩ぎ合いが続く。
 数秒か、数十秒か。感覚としては刹那だったかもしれない。源田がひとつ雄叫びを上げると、シールドがさらに強固さを増し、遂にボールを弾いた。てんてん、とライン外にボールが転がるのと、前半終了を告げるホイッスルの音が響いたのは、ほぼ同時だった。ふぅ、と息を吐いたのは誰だっただろうか。疎らにベンチに戻っていく選手たちの中、漸く立ち上がった成神は、どこか呆然とした表情で、ピッチを振り返っていた。

 そして、ベンチ。スクイズボトルを傾けながら後半の指示を出し終えた佐久間が、それと、と前置きをしたうえで、冒頭の言葉を放った。ざわ、と一瞬揺れた帝国イレブンであったが、佐久間の目が「これは冗談ではない」と冷ややかに伝えていて、当の本人以外、誰も抗議の声を挙げる者は居なかった。

「なっ……! 俺、まだやれますって……!」
「……あの局面を、一人で止められなくてか」
「っ、それ、は……」

それまで黙っていた辺見の指摘は、致命的だった。思わぬところから殴られて、成神は動揺する。決定的な失態を晒した自覚はあった。源田が居たからよかったものの、もしコースが悪かったりしたらと思うと、ぞっとする。無失点に拘り、それに気をとられて変なミスをすることは、他の部員たちもたまにあることだ。それぐらいなら笑って誤魔化したっていい。今の帝国は、その記録にしがみ付くつもりはない。しかし、彼らの緊張から来るそれと、今回の成神のそれは、比べるまでもなく理由が違っていた。何か言いたそうに口をぱくぱくとさせる成神に、佐久間は至って冷静に、先輩ではなくキャプテンとしての言葉を紡ぐ。

「確かに源田は強い。セーブ率は全国でもトップクラスだ。おかげで俺たちは安心して、自分のポジションに集中していられる。だが、源田が居ることがミスをしていい理由にはならない。わかるな?」
「…………っ、はい……」
「そういうことだ、成神は下げる。代わりに大楠を入れる。いけるか?」
「了解!」

 これ以上、抗議をしても無駄だった。キャプテンに言われた言葉は本当のことで、起きてしまった現実だ。後半開始五分前だと、審判の声がする。「以上、後半も気を抜くなよ」という佐久間の声で、各々はボトルやタオルをベンチに放って、持ち場に戻ってゆく。
 項垂れる成神の横を、控えの大楠が通り過ぎる。何と声をかけようか迷った大楠だが、こういうときには何を言われても響かないことは判っていたので、最終的に「身体冷やすなよ」とだけ告げて、フィールドへ走っていった。のろのろとベンチに腰掛けた成神は、試合を見ることもなく、タオルを頭から被って、ただただ下を向いていた。





 結局、試合は無事というか当たり前というか、帝国の勝利で終わった。あのあと失点することなく、更に追加点をあげて、勝ちを確実なものにした。
 負けたチームの選手と握手を交わし、がやがやと勝利の喜びに浮かれながらバスへと戻る最中、辺見は成神の姿が見えないことに気づいた。てっきり最後尾をついてきているとばかり思っていたのだが、振り返っても待てども、その姿を認めることはできなかった。

「おい洞面、成神知らねぇか」
「オレも探してるんだけど、どっかいっちゃったぽいんですよねー」
「……そうか」

 同じようにきょろきょろと辺りを見回す洞面にも声をかけてみたが、やはり行方は知らないようだった。そうこうしていると、バスの方から「早く乗れ!」と佐久間の声が飛んでくる。洞面は少し迷ったようだったが、キャプテンの指示ということもあって、足早にバスへと向かっていった。
 辺見はというと、その場に立ち尽くしていた。その目はどこか遠くを見ていた。周りの音が少しだけ遠くに聞こえて、世界に自分ひとりだけのような気分になる。「責任を持てよ」と、佐久間の声が脳内を巡る。あいつの不調を知っているのは誰だ、声をかけてやれるのは誰だ、手を伸ばしてやれるのは、誰だ。
 自問を繰り返して、漸くその答えが出たとき、辺見はその場から走り出していた。

「おい辺見!」
「今日は戻ったって即解散だろ! 俺は自分で帰る!」
「……っ、そうかよ!」

 急にバスとは反対方向に走り出した辺見に、何だなんだと既に乗り込んだ者たちがざわつき始める。辺見の返答を受けた佐久間は、何かを考えるように小さく唸ったあと、「行くぞ」と言ってバスに引っ込んだ。

「辺見の奴、いいのか?」
「ああ。確かに、これから帝国に帰ったところで何をするわけでもないし、試合の総括をするのは明日だ。後々自分で試合後のストレッチをやるんなら、個別帰宅でも問題ないだろ」

 咲山からの問いにそう返して、佐久間はバスの座席に座った。隣の源田が、あたたかい視線で窓の向こうを見ている。

「上手くやるといいな」
「集団行動の規則を破ってまで追いかけてんだから、上手くやってもらわなくちゃ困る」

 ふん、と鼻を鳴らしながらも窓の先――辺見の走っていった方向を見つめる佐久間の心情を何となく理解している源田は、素直じゃないなと心中でぼやいて、苦笑した。ブロロ、とバスのエンジンがかかって、帝国イレブンは会場を後にする。遠くなって、もう姿も見えない辺見は、きっと全速力で走っているのだろう。そんな彼を想像した佐久間は、その背中を笑うことができなかった。これは、自分でも源田でも、きっと鬼道でも駄目なことだと、判っていたから。
 自分たちではどうにもならないことをどうにかしてくれるのを願って、佐久間はいじらしげにぽつりと呟いた。

「頑張れよ、辺見先輩」



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