txt | ナノ


 ナバタ倉庫、B8。此処は数あるナバタの名を冠する倉庫の中でも、殊更辺鄙な立地に存在していた。昼間は静かで、夜はもっと静かになる。人通りは皆無、車両が通れる道幅もなし、そのくせ水と電気は通っているので線を引っ張れば拝借可能という、まさに不良の溜まり場としてうってつけの場所だ。
 そんな倉庫の中、大きなライトがぼうぼうと灯る中で、辺見は焦燥と恐怖の汗を全身から噴き出させていた。朝、登校中に突然羽交い絞めにされ、薬のようなものを嗅がされて意識を失ったところまでは覚えている。次に目を開ければ其処は学園ではなく、知らない場所だった。動こうとして、徐に四肢が自由にならないことに気づく。もぞりと動いた先に辛うじて見えた、足を縛る太いロープ。捕まえられた、と認識するのに、そう時間はかからなかっただろう。くそ、とぼやいたところで、不意にカツカツとコンクリートを叩く革靴の音がした。芋虫のような状態でぐっと力を入れてそちらを見れば、にやにやとした得体の知れない笑みを引っ提げた成人男性が居た。様々な感情がない交ぜになったが、努めて冷静に、何だよこれ、と呟くと、男は浮かべた笑みを一層濃くして、言った。「君に、面白いものを見せてあげる」。

 それから男はどこかへ電話をかけ始めた。誘拐、両親への身代金要求、そんな言葉が頭を過ぎったが、しかし男が自分へ言い放ったのは「相手はキミのお友達の咲山クンだよ」という、予想だにしていない一言だった。耳に当てられた携帯電話、その向こうで、咲山が息を飲んだ音がする。どういうことだ、と問い詰めても、返ってくる言葉はない。おい、と再度怒鳴ろうとして、携帯電話が耳から離れた。その後は話がとんとん拍子に進んでいるのか、男はニコニコと嘘くさい笑みで応対していた。男の言葉を以って、辺見は自分の立場を瞬時に理解した。自分は、咲山を誘き寄せるための人質だ。

 電話から暫くして、咲山はやって来た。手には野球用のバット。肩で息をしていて、お前サッカー部の練習中だってそんな姿見せたことないじゃねぇか、と思ったのは内緒だ。そしてその手に握られた、凡そサッカーとは無縁の代物に、この場の雰囲気も相俟って、普段自身の内側を見せようとしない咲山が隠しているものの一端を知ってしまった気がした。
 「咲山クン、また此処に来ることになるなんて思ってなかったでしょ?」男のその言葉に、咲山は遠目からでも判るほど気を立たせていた。電話で“ナバタ”と此処の場所らしき単語を喋ってはいたが、この様子からするに、此処のことは以前から知っていたのだろう。こんな奴等と咲山が顔見知りである事実は、辺見の胸をざわつかせた。「そいつは関係ねぇだろ」「君がさっさと来てくれればよかっただけなのに、責任転嫁はずるいなぁ」「……何が目的だ」言いたいことを飲み込んでそう発した咲山に、男は一瞬すん、と黙った。纏う空気が冷ややかになったことは、辺見にも感じられた。「……あはは、目的なんてさぁ、決まってるじゃんね」カツカツと咲山に近づく男。「……テメェへの報復だよ、反射一打ッ!!」瞬間、口火を切ったように、男の膝が咲山のどてっ腹を貫いた。

 そこからはもう男と、男の仲間であろうチンピラたちの独壇場だった。仲間の数人が無抵抗の咲山を羽交い絞めにし、そこに男が拳や蹴りを入れていく。最初よりも威力が弱く見えるのは気のせいではないかもしれない。きっと、咲山を痛めつけるのが目的なのだ。一発で倒れては面白くないといったところだろうか。楽しむための暴力が存在することは知っているし覚えもある。だが、たかが一介の中学生をここまで痛めつけ、嬲る理由がどこにあるというのか。自分が連れてこられた理由が餌や人質であるという理解が確かなら、この光景を自分に見せて反応を楽しむという意味合いも含まれているのか。そうだとすれば、巻き込まれたこの一連の行為は、悪趣味どころの話では済まない。これの何が面白いんだ、目の前に広がる光景に、辺見はただただ震え、咲山の名前を零すばかりだった。

「ッ、咲山ァ!!」
「アッハハ! ほーら咲山クン、オトモダチが見てるんだからさぁ、もうちょっとヤる気見せてよ!!」
「ぐ、ァ……ッ!!」

 何度目になるかも判らない、態と指の凸部分がめり込むよう握り込まれた拳が、咲山の鳩尾に捻じ込まれる。上手く内臓を外しているようで、肋骨と気管の辺りを殴られた咲山は、痛みと苦しさに嗚咽を漏らした。トレードマークのようなものだったマスクはとっくに引き剥がされて、普段あまり見ることのない口元からは、血と唾液の混じり合った粘液がでろりと伝っている。満身創痍で息をしているにも関わらず、一向にやり返してくる気配のない咲山に、男は徐々に苛立ちを募らせているようだった。

「抵抗してくれてもいいんじゃない? あ、羽交い絞めにされてちゃそれも無理か」

 離してやれ、と男が指示すると、咲山を捕まえていたチンピラたちが乱雑に腕を解放した。どさりとその場に蹲った咲山に、辺見はおいっ! と叫ぶが、縛られた足では駆け寄ることもできず、ただただその場で歯を食い縛り、その光景から目を逸らすしかなかった。へたり込んだ咲山の前髪を、男が引っ張るように掴んで持ち上げる。顔面へは一発牽制で入れたきりなので、跡は頬についた拳のものがひとつだけだった。妙に小奇麗なままの顔が気に食わなかったのか、はたまた意思の死んでいない瞳に苛立ったのか、男は舌打ちをして、左頬に拳を入れると、前髪を掴んでいた手を後頭部に持ち変え、そのまま咲山の頭をコンクリートにごりっと押し付けた。

「ッ……!!」
「キミさぁ、何のために此処に来たの? オレとヤり合うんじゃないの? 何で抵抗しないのさ。あ、もしかしてこいつ等使ってルール違反したから? 嫌だなぁ、オレがサシでヤろうって言ったのは最初だけだよ。あそこでオーケーくれてれば、オトモダチも巻き込まなくて済んだかもしれないのにさぁ」
「……っ、嘘吐け!」

 搾り出すような声で辺見は吠えた。その場の人間の視線が、一斉に自分に向けられる。今にも失禁しそうなほど襲い掛かってくる恐怖を、無理矢理飲み下す。

「一対一なんてお前等がやるわけねぇだろ! 俺のことだって、人数使って拉致ったじゃねぇか……! いいから、そいつ離せよ……っ!!」
「お、何、友人クンこいつのこと庇ってるの? いやぁいいね友情! 咲山クン、いいオトモダチ居るじゃん!」
「ぎ、ァ……ッ」
「こんだけ庇ってくれてるのにさぁ! キミってばいつまで素知らぬ顔してるつもりなのかねぇ!!」
「咲山っ! ……っ、おい咲山ァ!」

 ぐり、とコンクリートに縫い付けられた咲山の頭に圧力がかけられる。叩きつけらているわけではないが、ダメージが皆無とは思えなかった。滲むような苦悶の声に、辺見は震えていた。咲山がここまでされる理由が判らない辺見からすれば、目の前に広がるそれはリンチ以外の何物でもない。判らないことだらけだし、判ったと思えば胸糞が悪くなることばかりで頭がおかしくなりそうだ。ただ確信を持って言えるのは、このままでは咲山は死んでしまうかもしれないということと、咲山の反応に飽きた彼等が次に自分に手をかけてくる可能性がないとは言いきれないということだけだ。口封じをされないとも限らない。手足さえ、せめて足だけでも自由なら、逃げるなり何なりできただろう。しかし脚力があることを警戒されたのか、特に足は厳重にロープが巻かれていて、とても自力で逃げ出せる状況ではない。仮にそれがどうにかなりさえすれば、自分ひとりだけならとも思ったが、咲山を残していけるほど薄情者ではない。少なくとも、同じ学校で、同じチームで、切磋琢磨しながらサッカーをする咲山は、辺見の中ではもう、とっくに仲間であり友人なのだ。
 一向にやり返す気配のない咲山に痺れを切らせたのか、男は仲間に一声命じて、鉄パイプを持ってこさせた。数度空でぶんぶんと振り回し、手応えを確かめた男は、咲山の身体が動かないよう、足で背中を踏んづけた。咲山からはもう嗚咽すら漏れない。くつくつと、男の、仲間たちの嘲笑が倉庫に響く。男がゆっくりと腕を振り被った。狙いはどこだろうか。どこにしたって、あの硬度で殴られては拳や蹴りの比ではない。足など狙われては、サッカーを続けられるかすら。

「残念だよ、反射一打。もうちょっと遊べると思ったのになぁ」

 皮肉るような男の声。その様子を、辺見は見ているしかできない。叫び過ぎて喉は痛いし、顔面は涙とも鼻水ともつかない液体でぐしゃぐしゃだ。無力さに嘆くしかいできないでいる。誰か、誰でも、こうなりゃ神様でも仏様でも、今このときをどうにかしてくれるんだったら何でもいい。頼む。助けてくれ。この状況を打開してくれる存在が現れることを、この際奇跡でも何でも起きてくれと、普段テストぐらいでしか祈らない、どこの誰とも定まっていない大雑把な神に、きつく閉じた目蓋の裏で、辺見は祈った。

 ボゴン!! 突然、入り口の閉まりきったシャッターを叩く音がした。叩くというよりも、殴りつけたというか、ともすればぶち抜いてこようとするような勢いの音だった。小石が当たったり鳥がつついた程度では決して響かない轟音に、鉄パイプを振り被った男も、その様子をにたにたと見守っていたチンピラたちも、辺見も、咲山も、その場の誰もが、動きを止めて音の発信源へと顔を向けた。ボゴン! という音はその後も何度か続いた。その回数に比例するように、鉄製のシャッターが雑な円形にひしゃげていく。まるでボールを使って壁打ちをしているようだった。ボゴン、ボゴンとシャッターを殴りつける何か。そんな音が数度響いたところで、音が一旦止んだ。それから何か、喋り声が聞こえた気がする。シャッターに阻まれくぐもったそれは、人が発したのかそれ以外の生物の鳴き声なのか判別がつきにくい。そしてその声すらも止み、静かになったと感じた瞬間、今までシャッターにぶつかっていたのであろう何かが、勢いよく撃ち込まれてきた。ボゴン! ガシャン!! 先程よりも桁違いに威力の強い衝撃が加えられ、その一撃でシャッターが内側に大きく凹み、崩れた。正確には、止めのような一発により、それまでの衝撃で弱っていたシャッターが耐え切れなくなり外れるように壊れた、と言った方がいいかもしれない。人力ではまず成せない荒業に、チンピラたちはこぞって息を飲んだ。ぶち抜かれて吹き抜けとなった四角いシャッターの形に、外の夜色が嵌め込まれる。そしてその入り口に、奇妙な影が幾つかあった。
 人間だった。パーティー用のものと思われるマスクを身につけてはいるが、首より下の構造からして、恐らくあれは人間でいいはずだ。馬やら大仏やらウサギやら豚やらペンギンやらツタンカーメンやら、統一性が一切合財見えない被り物をしてはいるが、間違いなく人間である。というかそうであってほしい。その珍妙な集団たちは、方向性の違う私服を纏い、各々木刀からキッチンのおたままで、これまた珍妙な装備を手にしていた。得体の知れない集団に、チンピラたちをはじめとする内部の者たちは、揃って開口したまま、目を逸らせずに居た。恐怖と困惑が綯い交ぜになっていて、誰も彼もが暫く放心状態だった。

「な、何だテメェ等!?」

 と、幸か不幸か、正気を取り戻し(てしまっ)たチンピラの一人がそう叫んだ刹那、被り物集団が一斉に動き出した。合図も目配せもない、まるでその一声をスタートにすることを予め決めていたかのような統率の取れ具合だった。被り物たちは手にした獲物を振り回し、驚くほどスマートな手際で不良たちに襲い掛かっていった。ひっ、と、誰かの悲鳴が漏れる。そこからはもう地獄絵図だった。木刀を持った大仏にひっ叩かれ、豚の持つおたまから渾身の一撃を食らい、戦車の如く突っ込んでくる馬に轢かれ、ペンギンに華麗な蹴りを入れられ。わけの判らない存在たちからの攻撃に、チンピラたちは心底怯えていた。何せそれだけの行為を働いておきながら、被り物集団は一言も言語を喋らないのだ。無言で行われる殺戮に近しい行為。たまに被り物の内側から漏れ出る吐息が、同じ(推定)人間のものであるとは信じたくなくなるほどの恐怖を掻き立てる。体裁も何も捨ててすぐにでも逃げ出したいと思う者が少なからず居る一方で、こんな珍妙な乱入者に良いようにされるとは何事かと逆に奮起する者も居た。咲山や人質の辺見のことなど忘れ、彼等は鉄パイプや角材などその場に用意していた武器を手に取り、被り物集団へと向かっていく。それらをどういうわけか器用にすいすいと避けながら応戦する、大仏やら豚やら馬やらペンギンやら。まるで化け物vs人間のB級映画でも観せられているのかと、すっかり監視の目もなくなり一人取り残された辺見があんぐりと口を開いていると、不意に背後から何かが近寄ってくる気配を感じた。たまらず振り返ると、ウサギとツタンカーメンの被り物をしたガタイのいい人間(であると信じたい)が二人立っていて、辺見は思わず甲高い悲鳴を上げそうになった。

「待て待て、俺たちだ」

 ひょっ、と声を上げかかった辺見に、ツタンカーメンが口元に指を持っていく。静かにしろという意だろう。黙らないと殺される、と反射的に感じた辺見は寸でのところで自身の悲鳴を飲み込み、そして、聞こえた弁明の声に目を剥いた。二人組がそっと被り物を持ち上げる。よくよく見知った顔が、辺見を見てどこか安堵の表情を浮かべていた。

「源田……寺門……」
「咲山はもう助けたから大丈夫だ。怪我は酷いが、息はある」
「なくちゃ困るだろうが」
「それもそうだったな」

 突っ込まれた源田は苦笑する。そんな源田に背負われた咲山はぐったりとしていたが、何とか意識はあるようで、虚ろに揺らいだ瞳がゆっくりと辺見を映した。

「……わる、かったな、まきこんで」
「……っ、ばか、やろ……今言うことじゃねぇ……!」

 途切れ途切れに紡がれた、今まで貰ったことのない素直な言葉に、辺見は沸き上がる諸々をぐっと抑え込んでそう返した。寺門が持参したカッターナイフにより、手足のロープが切断される。相当きつく縛られていたせいか、少し痺れが残っていた。ぐるっと手首を回して感覚を戻していた辺見だったが、ふと視線を上げた先、ツタンカーメンの被り物を被り直した源田の背後に、チンピラの一人が角材を持って振り被っている姿を認め、今度こそ大声で叫んだ。

「っ、源田!!」
「、問題ない!」

 辺見の声に、ほぼ同タイミングで気配を察知した源田が、左手で咲山の身体を支え、右手に装備していたスポーツチャンバラ用のソフト剣を勢い良く振り下ろした。チンピラの角材よりも早く抜かれた縦一閃。中学生の、ましてやソフト剣といえど、GKの腕力で振り抜かれたその一撃は、チンピラの脳天を的確に叩き、防御もできずダイレクトに攻撃を受けたチンピラは、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。

「仲間を抱えているんだ。悪いが、加減なんてできると思わないでくれ」
「さっさと行くぞ。走れるか辺見」
「あ、ああ、多分……」
「……俺だ。咲山も辺見も回収した。これから引き揚げる。手筈通りに動いてくれ」

 辺見の回答を聞くや否や、携帯でどこかに連絡をした寺門は、手短にやりとりを済ませると、こちらもウサギの被り物を嵌め直した。周囲を見渡すと、既にチンピラの徒党は壊滅状態で、そこかしこに平均三人一組の山がこさえられていた。その中でほぼ無傷の状態で佇む被り物集団の恐ろしいことといったらない。これで被り物に返り血でもついていようものなら完全にB級グロスプラッタ映画だ。しかしこの場に源田と寺門が居るということは、あの被り物の中身は間違いなく他のサッカー部の面々だろう。よく見れば大野なんてとても判り易かった。何故彼等がこんなことをしているのか。只でさえ混乱している辺見の脳内が、更に混沌と化していく。やがて辺見は思考を止めた。決して放棄したわけではない。自分のない頭で真面目に考えるより、全部終わってから説明を受けた方が要らぬ労力を使わずに済むと判断したからだ。尤も、いちから説明をされたところで理解できるとも限らないのだが、兎角辺見はこれ以上考えることをやめて、寺門たちに続いて逃げることにした。

「……っ、はぁ、ふざけんなよ……っ」

 と、転がったチンピラたちの中から、ゆらりと立ち上がる影があった。リーダー格の男だった。辺見が見ている限りで保っていた冷静さや茶化した態度はない。怒りで狂った目は、周囲の光景を見渡して、さらにその色を濃くした。ぞわりと背筋を撫でる悪寒。殺気とは、こういうものを言うのだろうか。

「テメェ等生かして帰さねぇ!! 此処で全員潰す!!」

 そう豪語した男は、手にした鉄パイプで力いっぱいコンクリートを叩いた。ガン! と脳にまで響く鈍音に眩暈がする。あとは逃げれば終わりだというのに、しかしこの男がそれを許してくれない。このままでは一人か二人、最悪全員がやられる。源田たちもこの展開は想定外のようで、焦りが生じていた。逃げられなくはない、しかし犠牲は出る可能性が高い。外部からの救助も、このタイミングでは期待できない。完璧であるはずの作戦に、小さな、しかし致命的な綻びが生まれてしまった。
 冷や汗を掻きながら、どうするべきかを思案していた源田の背中から、不意にするりと重さがなくなった。え、と振り向いた先に、背負っていた存在はなく。ずるずると、傷だらけの身体を引き摺って、自分たちを庇うように前に立つのは。

「、さき、やま……」
「……これは、俺の問題だ。俺がカタをつける」

 言って、一歩を踏み出す。少しずつ、少しずつ、咲山が男との距離を詰めていく。気迫にか、決意にか、被り物たちは咲山を引き止めることができず、数歩後ろに引いた。やがて、一定の距離を開けて男と退治した咲山は、ゆっくりと臨戦体勢をとる。

「っ、ははははは! ここでサシの勝負かぁ! いいよやろうやろう! でもさぁ、獲物ぐらい持ってきたらどう? いいよ? 待っててあげるからさぁ!」
「……いらねぇよ、んなもん」
「……あはは、年上からの忠告ぐらい、ちゃんと聞いて、おけ、よ……ッ!!」

 吐き捨てるように言って、飛び出す男。振り被られた鉄パイプが咲山の頭を狙う。ごくりと誰もが息を飲んだ。応援も歓声も悲鳴もない、正真正銘の一騎打ち。脳天目掛けて降ろされた一撃が当たる刹那、咲山はゆらりと身体を傾がせた。故意にか、身体が持たなかったのかは判らない。しかしその揺らぎで、咲山は相手の一打を避けた。併せて、身体が捻られる。そして。

「、らぁッ!!」

 掛け声と共に、咲山渾身の右ストレートが、男の顔面に決まった。覚束ない手つき、踏ん張りきれていない体勢ながらも、下手な小細工がない分、勢いと威力を以って男の左鼻と頬の辺りに打たれたそれは、全体重を乗せられていることもあり、めりめりと骨と骨の間にめり込んでいった。避けも軽減もできずに全力の一撃を食らった男は、ぐ、とくぐもった声を零し、そのまま吹っ飛ばされ、コンクリートの地面に身体を擲った。口から血を流し、ぴくぴくと痙攣する姿に、咲山を脅していたときの狂気や威厳は欠片も見えない。すっかり小物と化してしまった男に、咲山は冷ややかな――しかしどこか憐憫を思わせる視線を向けたあと、一度瞳を閉じて、彼に背を向けた。身体を向けた先で目を開けると、そこには被り物を外した集団――サッカー部の同輩たちが、様々な表情で立って、自分を見ていた。何か、言うべきだろうか。マスクのなくなった口元は、小さくもごりと動かすだけですぐに悟られてしまいそうだ。何を言うべきなのか。謝罪? 感謝? 何となく、何を言うのも正解ではない気がして、咲山は言葉を詰まらせていた。そんな咲山の背中を、誰かがばしんと叩いた。横を見れば、いつも自分を誘う、オールバックの、額が眩しい男。

「帰っぞ」

 そう、一言。その言葉に、今まで咲山を取り巻いていた何かが、燃え尽くされ、身体から剥がれ、やがて灰になっていくような解放感を覚えた。背中を押されるがまま、輪に加わって、苦笑のような安堵の笑みに包まれながら、倉庫を後にしていく。バットを置いてきていることなど、すっかり忘れていた。隠れた目に溜まった涙は、きっと乾燥したからで。傷だらけでしんどいはずの身体は、やけに軽くて。
 そしてそれきり、咲山は喧嘩の道を歩むことをぱたりとやめた。


×