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 入部から三ヶ月。前回の電話から一ヶ月が経ったが、その間にも数度連絡はあった。やんわりとしたふざけた口調の中に薄っすら垣間見える怒りと殺意は、いなす度にちらちらと片鱗を見せてくる。最初はタイマンでの勝負を提案してきていた相手だが、一向に首を縦に振らない咲山にイラついたのか、いつしか「このまま受けないと複数対一でリンチをするぞ」という脅しをするようになった。そう言われたところで咲山の返答は変わることはなく、話はいつまでも平行線のままだった。先週かかってきた電話では、飄々とした口調が若干崩れ「何が起きても知らねぇぞ」と間際に呟いて電話を切られた。何をするつもりなのかは知らないが、今咲山が向き合わなくてはならないのはサッカーだ。つい二週間前、念願のジャッジスルーを会得するに至った咲山を祝うように本人の意思を半ば無視して開かれたファミレスでのおめでとう会は、いつもより騒がしかったが、存外悪くはないと思ってしまった。しかしそれと同時に、「お前は此処に居ちゃいけないんだよ」という誰のものか判らない声が脳内を掠めて、こんなことをしてもらう資格も、此処に居ていい資格もないのだと、ぼんやり感じてしまう。冷や水をかけられて、急に現実に引き戻されるような気分になってばかりだ。それでも、サッカーがやりたい気持ちは捨てられない。そして、手招く彼等を完全に切り離すこともできなくて。どう生きればいいか、何処に立てばいいのか、咲山はずっと悩んでいた。

 ふらふらと部室の扉をくぐる。朝練がある日は大体、頭が起ききらないうちに学園に着いていることが多い。この生活も三ヶ月になるのだから、そろそろ慣れないとまずい。くあ、とマスクの内側で欠伸をしながらロッカールームに行くと、既に着替えを終えたり途中の部員たちが居た。先の大量退部で上級生がほぼ居ない状態なので、気兼ねなく室内を使い込んでいた。

「おはよう咲山」
「……おう」

 ユニフォーム姿の源田に挨拶を返して、宛がわれたロッカーに鞄を放り込んで着替えを始める。ふと部室を見渡せば、何か足りないような気がした。人数と顔ぶれを見て気づく、辺見の姿が見当たらない。一緒に登校することはないし、部室に来るのも大体最後の方である彼が、時間までまだ余裕のある現状で不在なのはおかしなことではないのだが、何故か今日に限っては妙に引っかかってしまった。同時に、何か悪寒のようなものがそろりと背筋を這った気がして、無意識のうちに舌打ちをしていた。顰め面で居たことも相俟って、隣のロッカーを閉じた万丈に心配されたが、適当に流した。
 練習場に集まると、キャプテンの鬼道が点呼を取る。最後まで呼び終えたが、慌てた様子で辺見がやってくることもない。鬼道も欠けに気づいたようで、「辺見はどうした」と零した。

「あれ、マジで辺見居ないな。休み?」
「この様子だと、誰にも遅刻や欠席の連絡はしていないようですね……」
「鬼道にも連絡は来ていないんだろう?」
「少なくとも、携帯には電話もメールも着信はない。ふむ、無断欠席ということであれば少し考える必要があるな……」
「体調不良で連絡ができないだけかもしれない。決め付けるのは早計じゃないか?」
「そりゃそうだけどよ……」

 途端にざわざわとし出す部員たち。その様子を一歩外から見ている咲山は、何か違和感のようなものがずっと頭の中を巡っていた。部活を休むことはおかしくないし、連絡を忘れていたり、最悪それすらできないほどまいっている可能性だってある。しかし、そんな普遍な理由でこの件を片付けてしまうことを、本能が拒んでいた。理由は判らない。ただ言えるのは、嫌な予感がするということだけだ。だが根拠も中身もない、直感にすら至らないそれを話すことは憚られたので、咲山は話の動向を見守るだけに留めていた。このまま辺見一人に時間を割き続けるわけにもいかないので、やや消化不良気味ではあるもののとりあえず辺見の不在は体調不良ということで片付けられ、一同は練習を始めることになった。普段何だかんだとペアを組もうとしてくる存在が居ないことに、寂しさのようなものが覆い被さろうとする感覚を無視しながら、咲山は一人でウォーミングアップを進めた。結局、その日の朝練に辺見が顔を出すことはなかった。



 今は五限目の授業中だが、咲山は廊下の隅、踊り場が見える位置の手すりに寄りかかり、ぼうっとしていた。授業は自主休講した。教師の声やノートを叩く音を聞く気にはなれず、かといってサボったところで何かすることがあるわけでもなく、ただただぼんやりと時間が過ぎてゆく。辺見はこの時間になっても現れることはなかった。仮に体調不良だとしても、授業の始まったこの時間どころか午後になっても尚、誰にも何の一報もないというのは、規律を重んじる帝国学園の生徒としては些か不合格気味だ。自分なら、少なくともキャプテンである鬼道とクラスの担任には連絡を入れるだろう。ここまで考えて、朝方過ぎった違和感が、ざわりと身体をまた撫でる。何となく、原因が体調不良であるとは思えなかった。嫌な予感、妙な胸騒ぎ。その答えが出ない苛立ちで、咲山は盛大に舌打ちをした。
 と、不意に携帯が鳴った。画面を見れば、番号は見たくもない例の人物。出なくてもいいそれを律儀にとってしまうのは、あのとき嘲笑われたことを思い出すから。反論することもできないというのに。

「…………」
『あ、こんにちはー反射一打クーン』

 ノイズ混じりの耳障りな声がごうごうと響いてくる。いつもと違って、声が反響してくるような気がした。場所が違うのだろうか。

「……何の用だ」
『しらばっくれちゃってもう。オレがキミに連絡する理由なんていつもひとつじゃん? ツラ貸せよ』
「断る」
『まぁそう言うと思ったよね』

 いつもと変わらないやりとり。けらけらと笑った相手だったが、不意にすん、と、電話越しの空気が変わったような気がした。

『サシも駄目、複数も駄目、じゃあ何なら飲んでもらえるかなって、オレちょっと考えたんだよね。んで、ちょっと探ってわかったんだけどさ、キミ、今部活でサッカーやってるんだって?』
「……だったらどうした」
『いやぁ別に? バット振り回してたキミが、足でボール蹴るなんてって思っただけだよ。野球部じゃないんだなーって。キミのスイング、学生にしては随分いいモンだって、下の奴が言ってたんでね』
「御託はいい、何が言いた……」
『っ、おい、誰に電話してんだよてめぇ等……!?』
「っ、!?」

 電話口から聞こえてきた、その場に居ることなどあり得ない人物の狼狽した声に、咲山は目を見開いた。五月蝿いぐらいに話しかけられていたから判る、その声は確かに辺見のものだった。何故其処に、そいつ等と一緒に居る。予想外の出来事に、携帯を持つ手が震え、力が強まる。今日一日感じていた嫌な予感の正体を突きつけられて、脳がぐらぐらと揺れた。

『はいはい、ちょっと静かにしてようね。…………反射一打、テメェも焼きが回ったな。まさかオトモダチ作って、のうのうと学校生活エンジョイしてるなんてよ。ま、それが仇になったってこった』
「っ、どういうことだ、何でそいつが……っ!」
『おっ、やーっと乗り気になってくれた感じ? いやぁ、ちょっと危ない橋渡った甲斐があったかなぁ、はは!』
「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇ!!」
『そんなに怒るなよ。キミがさっさと話に乗ってくれれば、オレだってこんな手段取らなかったんだからさぁ。恨むなら愚図やってた自分を恨みなよね』
「クソが……っ!」
『おい、誰と喋ってんだよ! 何で俺を……っ!』
『うーん、釣り餌とはいえ少しは乞うてもらおうかな? はいどうぞ、相手はキミのお友達の咲山クンだよ』
『は……? っ、おい咲山、聞こえてんのかてめぇ! 何だよこれ、どういうことだよ! 俺もお前も、何に巻き込まれてんだよ!?』

 眩暈がした。耳に入ってくる辺見の困惑と怒りに返す言葉もなく、ただただ怒鳴る音が通り過ぎていく。ぐっと携帯を握り締めたところで、辺見の声が遠のいた。

『オレ、犬は好きじゃないんだよね。吠えてばかりで五月蝿いし、躾するのも楽じゃないっていうかさぁ』
「……っ!」
『わかったなら、早く着てよ』
「……例の、ナバタんとこか」
『そーそー。待ってるね』

 ぷつっと切られた通話。それきりツー、ツー、と話中音が流れる携帯を乱暴に閉じた咲山は、廊下の壁を殴った。ダンッ! とコンクリートを叩く音が反響する。赤くなった手を労わることもなく、咲山は走り出した。一度家に帰らなくてはいけない。相対するのに、必要なものがあった。授業も何も放り投げて、廊下を駆ける。すぐに辺見がどうこうされることはないだろうが、時間が経てば経つだけ、危険性は増す。あの様子では、きっと辺見は大人しくしていないだろう。相手のあの口調からして、苛立った奴が辺見に対して何をしでかすか判らない。今だって、一発殴られたりしているかもしれない。最悪を想像して、咲山は「くそ……っ!」と吐き捨てた。
 丁度チャイムが鳴る。五限目の授業が終えたらしい。疎らに廊下に溢れ出す生徒たちを掻き分ける暇もなく、ぶつかりそうになりながらも駆けて行く。

「…………」

 そんな自分の姿を見ている誰かが居たことに気づかないまま、咲山は走る。何のために、どんな感情で駆けているのか、理由は混ざりきっていた。



 五限目の授業を終え、鬼道と源田は次の授業を行う教室へと向かっていた。今日は二人のとっている殆どの科目が一緒の日なので、自然と行動を共にしている。先程の授業の話をぽつりぽつりとしながら廊下を進んでいると、不意に隣を通り過ぎる影があった。その横顔に見覚えのあった源田は、びゅんとすり抜け様に起きた風を受けながら振り返る。鶯色の、襟足の跳ねた髪。間違いない、咲山だった。

「咲山か?」
「ああ」

 どうやら鬼道も視認できたらしい。移動の多い休み時間だからか、人波を掻き分けるように、或いは無理矢理道を作って走っていく咲山の姿は、よく目立っていた。

「何かあったんだろうか。見る限り身ひとつのようだったが」
「体調不良……というわけでもなさそうだな」
「あの様子だと、荷物すら放る程の急用でもできたというところか……?」

 もう午後とはいえ、授業はこのあとも残っているし、放課後の部活もある。荷物も持たず一目散に此処を飛び出していくとなると、何か急を要する案件ができたと考えるのが自然だろう。あまりに急ぎであるならば、誰かに言伝を残すこともしていないかもしれない。おかしいと思える点も、それらしい理由をつけようとすればつけられる程度のものなので、特別怪しむこともない。
 しかし鬼道と源田は、訝しんだ表情を納得させることはなかった。最近の咲山の動向に、違和感があったからだ。この一ヶ月程、殊更部員たちと距離を置いているような印象があった。練習に支障を来たしてはいないので、鬼道としてはやや協調性に欠ける点ありという程度の認識だったのだが、源田からすると、どうしても不思議でならなかった。一歩退いてはいたものの、反省会や食事を共にする回数は増えていたし、声をかけても突っ撥ねられることは少なくなっていた。しかし最近になってまた、入部した頃のような取っ付き難さというか、改めて自分を囲うように線を引き直したような、そんな空気の再来を感じていた。少し仲良くなれただろうか、と思った矢先のことなので、その後退の理由がどうしても判らない。丁度二人で落ち着いて部活関係の話をする機会ができたとき、源田がぼそりと「最近咲山の様子が変わった」と零したことで、鬼道も事を把握するに至った。仲良しグループではないぞ、という忠告はしたものの、どうにも源田はそれだけではないと言いたげで、その様子を気がかりに感じた鬼道は、咲山の身辺調査を行うことにした。
 まず、周囲の人間関係を洗ってみる。いち中学生の数年前の経歴程度であれば、総帥が作ったサッカー部員たちの情報をまとめたデータベースから簡単に引っ張り出すことができた。咲山修二、過去の目立ったサッカー経歴はなし。市内の公立小学校を卒業後、一般受験にて帝国学園へ入学。ほぼ未経験者であること以外、特筆すべき点が見当たらず、一度画面から目を離した鬼道だったが、少し画面をスクロールすると、備考欄にとある記載を見つけた。その一文を見た鬼道は、それまでの咲山の態度や言動の根本にあるものの正体を知ったような気がした。恐らく、源田の言う咲山の最近の様子の変化の原因はこれに関する何かによって来ているものであろうことも、何となく推測できた。データベースを閉じた鬼道は、飲み込んだ情報を整理しながら逡巡する。この情報を共有すべきか、否か。悩んだ結果、鬼道は口を噤むことにした。この情報を流布することで、チームワークに乱れが生じる可能性がないとは言い切れなかったからだ。たとえそれが事実だったとしても、実力でこの部に居るのは確かなことだし、みすみす戦力を追い出すような真似はしたくない。部に支障がないならそれでいい。個ではなく全体を見て、鬼道は、キャプテンとして最善を選んだつもりでいた。
 走り抜けていく咲山の姿を思い出す。ちらりと垣間見えた右目は焦燥の色をしており、いつもはあまり感情を見せない彼から、怒りのオーラが出ているような気さえした。誰かに対する怒りと、自分に対する怒り。ふと、あのとき見た一文を思い出した鬼道は、懸念であれと思いながらも、繋がるはずのないそれと今の咲山の行動の間に線を引こうとしてしまう。

「……まさか」
「思い当たる節があるのか?」
「……いや、思い過ごしならいいんだが」
「っ、鬼道さん!」

 頭を振る鬼道の正面から、切羽詰った声がした。万丈と大野だった。ばたばたと忙しなく此方に駆けてきた二人は少しだけ息を整えると、慌てたような表情のまま、声を荒げる。

「今、咲山通りませんでしたか!?」
「つい今しがたすれ違ったぞ? 何か用でもあったのか?」
「用っていうか、ちょっと、咲山のことで話しといた方がいい件があるっていうか……」
「簡潔に話せ」
「あいつ、どっかに呼び出されたっぽいぜ」
「例の場所、とか言ってたんですよ……」

 その言葉を聞いた鬼道は、自分が得ている咲山のデータとその言葉を符合させ、やがてひとつの可能性に辿り着いてしまった。仮説ではあるものの、引いた線に、見て見ぬふりをできなくなった。

「……源田、次の授業は音楽だったか」
「ん? ……ああ。確か、洋楽映画の鑑賞だったかと思うが」
「ふむ、特に授業が進むものではないということか。万丈、大野。可能な限りの人数でいい、一軍の一年生を部室のミーティングルームに集めてくれ。俺からの緊急招集ということにすれば、授業も休めるだろう。俺から総帥に説明をして、欠席は問題ないよう手筈をしておく。頼むぞ」
「わ、わかりました……っ!」
「了解だ!」

 ひと息吐いたかと思えば今度は別件で借り出されることになった二人だったが、鬼道からの直接の指示ということもあり、すぐに踵を返して、他の一年生たちが居るであろう教室に向かっていく。その背中を見送った鬼道は、行き先を部室へと変更した。ばさりと赤いマントがはためく。

「おい鬼道、どういうことだ……?」
「……少し、予感がしてな」

 鬼道の言う「予感」があまり芳しくないものであることは、何となく察せられた。最近の咲山の動向と、何かしら関係があるのだろう。最悪だけは避けてほしいとざわつく胸中で願いながら、源田はマントを翻した鬼道の後を追った。





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