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 二ヶ月が経った。相も変わらず練習はきついし、勉強との両立は頭が痛くなる。つい先日、「ジャッジスルーを覚えてみないか」という鬼道からの提案を受けた。舞い上がるような気持ちは抑えたものの、「やります」と答えたときの自分の声は、少し跳ねていたかもしれない。キラースライドよりもやや難易度が高く、審判の目を欺く必要のあるそれは、その放ち方で問題がないかどうかを第三者から多角的に確認してもらう必要がある。それ故、手隙の部員をつけての練習が増えた。咲山の場合、MFということで互いに覚える必要がある辺見と組まされることが多く、何てこったと思わないときがないわけではない。しかし一応は経験者、アドバイスは鬼道程ではないにしろマシな部類なので、聞く耳だけは持つようにしてやっていた。たまに鼻にかけたような嫌味を飛ばしてくるのだけは頂けないが。思わず右ストレートを腹に決めそうになったのは一度や二度の話ではない。
 そしてそんな生活を続けるうちに、少しだけ、部員たちとの距離間が変わった。はじめは馴れ合うつもりはないと突っ撥ねていたのだが、必要性のあるバディからはじまり、他の部員たちが何だかんだと構ってくるのをあしらっているうちに、いつの間にか帰りに食事に付き合うようになっていた。あまりにしつこい誘いに「ファミレスなら行ってもいい」とうっかりぼやいたとき、一番戸惑ったのは他でもない咲山自身だった。今自分は何を口走った、と目を丸くしているうちに、あれよあれよとメンバーが増え、最終的に片手以上の人数で行く羽目になっていたのには、驚きを通り越して焦りすら感じた。しかし行ってしまえば特にどうということはなく、思っていたよりも静かで悪くはないと感じたので、それから咲山はたまに集まりに顔を出すようになった。

 今回は多数決でファミレスになった(大体がファストフードかこちらかの二択だ)。頼んだ一番安いプレーンパスタを啜りながら、時たま振られる好きな選手の話を適当にあしらいながら、今日の練習のここがどうだったとかあれをああしたいという会話に適当に相槌を打ちながら、その間ずっと、咲山の片隅には「どうしてこんなところに居るんだろうか」という気持ちがあった。それは毎回この集まりに参加する度に思うことなのだが、しかし参加したことを後悔しているのかと言えばそればかりでないような気がしてしまい、じゃあそれ以外に何を感じているのかと問われるとよく判らなくて、咲山はもやもやとした気持ちのまま、ウーロン茶のお代わりを取りに席を立った。

「今日のやつ、結構いい感じだったじゃねぇか」

 ドリンクバーのボタンを押していると、隣にやってきた辺見がそう言った。同じようにお代わりを取りに来たらしい。何故かコップをふたつ持っていたが、「佐久間の野郎」などとぼやいていたので、恐らく席を立つついでに取ってこいと押し付けられたのだろう。咲山にとっては至極どうでもいいことだが。

「ただあの角度だとファールに見えちまうかもしれねぇから、も少し浅めにしてやってもいいかもしれねぇな」
「……そうか」
「まぁそれで勢い殺してもしょうがねぇけどよ。そこは練習してこうぜ」
「……おう」

 どぽどぽと注ぎ終えたコップを手に、咲山は静かに席に戻る。辺見が遅いとごちる佐久間、チキンを頬張る源田、次の小テストの話をする寺門や五条たち。帝国学園は厳しくて恐ろしいところだと聞いていた。今でもその認識に変わりはない。確かに此処は厳しいが、しかし僅かではあるが同じ部活のメンバーたちと交流するうちに、そんな中でも暖かな存在や時間というものは存在しているのだということを知った。フィールドの中の彼等のことも、一歩外に出た彼等のことも、知ってしまった。最初は遠ざけていた輪。ふとしたことで身を投じてしまったが、思っていたよりも悪くなかった。そのせいで、そんな此処を、彼等のことを、咲山は少しずつ懐に入れようとしていた。自ら手を伸ばして求めたいとは思わないが、伸ばされた手を気紛れに取るぐらいはしてもいいかもしれないと、そんな風に思い始めていた。

 会計を終えて店を出る。ぞろぞろと軍服めいた制服を着て歩く集団はやや目立つ。顔がいい者も居るから余計だ。そんな集団から二、三歩退いた後ろを、咲山は歩く。まだ、あの輪に完全に加わる気にはなれなかった。何となく、あそこは眩しい。
 ふと、ぶぶぶ、とポケットの携帯が震えた。皆からもう一歩離れて画面を見ると、十一桁の見知らぬ携帯番号が羅列されていた。いつぞやのことを思い出す。しかしあのときとは番号が違っていたため、咲山は一度視線を上げ、前方の彼等が此方を気にしていないことを確認してから、通話ボタンを押して、耳に当てた。

『どーも、反射一打(カウンターノック)の咲山クン』

 聞き慣れない声だった。ノイズ音のせいだろうか。特徴のあるようでない、平坦な声音。ただひとつ言えるのは、異名とも呼ぶべき二つ名で咲山を呼ぶのは、遍く不良関係者であるということだけだ。

「……誰だ、テメェ」
『誰でもいいじゃん。……あーそうだな、強いて言うなら、前にうちに乗り込んできてくれたことがあったなぁ』
「あ?」
『覚えてないって? いやぁ咲山クン、キミ潰した相手は覚えないってクチ? じゃあこう言ったらわかる? ……“B8ナバタ倉庫”』
「…………」

 咲山は特別記憶力がいいわけではない。先日かかって来た電話は相手が特徴的な声で自分の名前を呼んでいたこともあり、偶然記憶の隅から引っ張り出せただけだ。そもそも基本的に、誰と喧嘩をしたとか何処のチームを潰したとか、そういった箔のようなものは、咲山からすればどうでもいいことである。咲山の行動理由は、喧嘩を売られたから買う、ただそれだけなのだ。そこに打算や複雑なプロセスはない。投げられたボールを打ち返すように、咲山にとっては単純な反射行為だった。反射であるから、自ら行うことはなく、襲い掛かってきた相手を捻り潰し、そのためにいちいち伸した相手を覚えることなどしもしない。しかし、相手が零したワードを拾った咲山は、ある限りの記憶から繋がるものを引き摺りだして、漸くひとつ合点のいくものを思い出した。一時期どうにもむしゃくしゃしていたときがあり、売られる喧嘩は大小問わず片っ端から買い込んで叩き潰すような徘徊をしていたことがあった。そのとき、とある下っ端が売ってきた因縁を買って、そいつのアジトに乗り込んだことがある。確かそのアジトにされていた倉庫の名前だ。あのときはトップに近しい何人かを潰したものの、さらに上の存在は潰せず、されどそれ以外は全て伸したため、チームはそのまま自然消滅したとばかり思っていたのだが。

『思い出してくれた? いやぁ、あんときは下のもんがお世話になったね。おかげであのチーム潰れることになっちゃってさ、結果的にオレの評価もダダ下がりしちゃったのよね。ほーんと、参った参った』

 けらけらとまるで世間話をするような口調だが、節々から感じ取れる苛立ちのような殺意が耳を撫でる。相手は確実に、自分に対して怒りを抱いていた。

「……で、用件は何なんだよ。どいつもこいつもケー番抑えやがって」
『へぇ、随分出回ってるんだね。番号変えることをおすすめするよ。……で、本題なんだけど。ちょっとツラ貸してよ』
「……」
『オレとしてはさ、年下のガキにシマ荒らされるわ評判落とされるわで散々な目に遭ったのよ。一発ぶん殴らせろってのは正当な意見だし、理屈は通ってると思わない?』
「…………」
『ルールはサシでタイマン。そこはほら、オレもプライドがあるからね。たかだかガキ一人相手に複数で行ったら大人気ないでしょ? 獲物は持ってきていいからサ』
「断る」

 自分でも驚くほど即答していた。無論ルールもなく思いきり暴れたい気持ちはあったが、今はそんなことよりも、早く必殺技を習得したい気持ちの方が大きかった。それ以外にも何か理由があるような気がしたが、自問自答している余裕はない。端的に拒否の意を示すと、相手は僅かに間を置いたあと、「あははははっ!」と声を上げて笑った。微かだった殺気が牙を見せる。

『ふーん。咲山クンってばお忙しいってワケだ。何、ヘーボンに学校生活送ってるの? 部活でお友達と楽しくやってるって?』
「……関係ねぇだろ」
『ふふっ、咲山クンさぁ、自分がどういう人間か理解した方がいいんじゃないかな。警察沙汰になってないだけで、キミ、相当ヤンチャしてきてるでしょ? 今もこうして因縁つけられるような人間なんだよ、キミは』
「……」
『そんな奴がさ、ふっつーに青春送ってる集団に混じって仲良しこよしなんて、できるわけねぇだろ』

 心の奥底にナイフが宛がわれたような、ひやりとした感覚が全身を包んだ。自分が彼等へ一線を引いていた理由を、明確にされてしまった気がした。馴れ合いたくない、技術があればつるむ必要はない。そんなのは詭弁だった。あの輪に加わる資格を自分が持ち合わせていないことなど、とっくのとうに知っていた。互いを高め合い、サッカーというスポーツに全霊を賭ける彼等の純粋さは、高潔さは、自分にはないものだ。少なくとも、必殺技を用いて相手に暴力を仕掛けたいなどという理由でサッカー部に入部した者は、自分以外には居ないだろう。そんな後ろ暗さと、自分の過去が、前を向き続ける彼等と並ぶことを拒む。あの中の誰とも、スタート地点が違う。

「……テメェの報復受けるために、わざわざ顔出してやる理由はねぇってだけだ」
『そうかいそうかい、そういうことにしておいてあげるよ。ま、今日は挨拶ってだけだから。勿論、前向きに検討しておいてくれると嬉しいけどね』
「うるせぇ」
『あはは、じゃあまたそのうち電話するよ。そのときまた答えを聞かせてくれてもいいし、気が変わったならこの番号に電話してきてくれても……』
「二度は言わねぇぞ」
『…………またね、咲山クン』

 ノイズ混じりに耳の輪郭をなぞるようなぞわりとした声音を残して、相手は電話を切った。電源ボタンを押し、着信履歴に残った十一桁の番号を消去しようとして、少しだけ躊躇いを覚えてしまった。「自分がどういう人間か理解した方がいいんじゃないかな」、「そんな奴がさ、ふっつーに青春送ってる集団に混じって仲良しこよしなんて、できるわけねぇだろ」。その言葉がひたすらに脳内を反芻する。そんなの、判っている。けれど、やりたいことがあった。そのために我武者羅になった数年がある。無駄にはしたくない。そして今、チャンスを掴みかけている。今いざこざを起こせば、必殺技の習得どころか最悪退部になってしまう。それだけは避けたかった。もう、バレないように喧嘩をすることも難しいだろう。サッカーと喧嘩、双方を天秤にかけた咲山は、前者を取ることにした。たとえ動機が不純だとしても、やりたいことが真っ当でなくとも、自分はそのために此処に来たのだから。
 夜は、まだ長い。



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