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 唖然、驚愕、そして畏怖。人工芝のフィールドに死屍累々と横たわる上級生たち。ずん、とボールを足に収めて不敵に嗤うのは、ドレッドヘアーとゴーグル、はためく赤いマントが特徴的な、自分と同じ新入生だった。

 レクリエーションのような授業を終え、咲山は入部届を手に放課後の廊下をのろのろと歩いていた。向かう先は勿論サッカー部だ。この日のために、自分は慣れない勉強を死ぬ気で頑張った。帝国学園のサッカー部はとても厳しいところだと聞いているが、それならそれで挑戦し甲斐がある。何でもいい、兎に角あの必殺技を覚えて、スタメンに入って試合に出る。技を出す機会さえ掴み取れるのなら、どんな境遇にだって耐えてやる。例え理不尽な扱いを受けるかもしれなくても、先輩たちから疎まれるかもしれなくても、目指す場所がある咲山にとって、そんなことは瑣末だった。それに、牙を剥かれたなら爪を立てればいいだけの話だ。反逆の仕方は嫌というほど知っている。同輩だろうが上級生だろうが、喧嘩を売られたら買うだけ。その心づもりで、咲山はサッカー部の門を叩いた。

 自己紹介もそこそこに、入部テストを兼ねた実力試しを行うことになった。本来こういうものは監督やコーチが実力の均等性を図るために数日かけてチーム分けをした上で行われるとばかり思っていたので、入部届を出したその日に即行う――加えて、対戦カードが上級生対新入生であることは、咲山の予想外であった。しかし「実力があれば一軍からのスタートもある」というキャプテンらしき上級生の言葉に、ぶるりと震える。ここで結果を出せば、目標までの道のりが最短になる。手に掻いた汗を握り潰すように拳を固めた。俺は勝つ。勝って、此処で夢を叶える。
 かくして始まった上級生対新入生のミニゲームは、しかしものの十分と経たないうちに、惨憺たる光景を生み出していた。一人の選手が無双とも呼ぶべき蹂躙を見せていたのだ。立ちはだかる相手を軽く抜き、精密な動きで上がって、正確にキーパーの隙を突いてゴールを決める。この一連の流れを、誰にパスすることもなく、たった一人で繰り返していた。これが上級生であれば、年の差とか経験の差とかまだ言い訳できる余地があったのだが、奇しくもこの蹂躙を行っているのは、先程自分と同じように入部届を出していた新入生だった。そのうち疲弊した上級生たちが、躍起になって徒党を組み、その新入生に襲い掛かる。それはもう試合で行われるラフプレーなどではなく、立派な暴行未遂になり得る動きだった。自身を取り巻く喧嘩の気配を感じた咲山は、疼く身体に従うように一歩を踏み出す。助けるというよりは、殆ど場の荒々しい空気に触発されただけだった。だが渦中の新入生はそんな上級生をちらりと見、そしてあろうことか嗤ってみせたのだ。足元にキープしていたボールを蹴る。ばしんばしん、とまるでボウリングのピンのように、襲い掛かってきた上級生たちが跳ね飛んでゆく。中には自分が此処への道を目指すきっかけになった選手も居たかもしれないが、そんなことを気にしている余裕はなかった。どさどさと倒れゆく上級生など眼中にないというように仁王立ちするその新入生――鬼道有人に、咲山はこのとき、生まれて初めて、この世には逆らってはいけない人間が存在するということを知った。
 結局、その新入生以外、大した活躍をすることもなく、入部テストは終了した。



「鬼道、お前にキャプテンを一任する。メンバーは好きにするといい」
「はい、総帥」

 翌日、ミーティングルームにて。現れた影山総帥と呼ばれた男は、鬼道に向けてそう告げた。こちらに賛否を問うこともない、まるで最初から決まっていたかのような物言い。癒着を疑わないわけではなかったが、恐らく彼は元々総帥が目をつけていた存在なのだろう。あの実力を見れば納得はできなくとも理解はできる。そうして資料の挟まったバインダーを一頻り見た鬼道は、まず最初に昨日のミニゲームで自分がこてんぱんに伸した上級生たちの一部に退部を言い渡した。勿論上級生たちは抗議したが、鬼道の鋭過ぎる的確な物言いと、後ろに控える総帥の圧力に口を閉ざし、最後にはミーティングルームを去っていった。次に鬼道は、新入生の名前を数人呼び上げ、十人にも満たないチームをふたつ作らせた。その中には自分も居て、咲山は昨日の惨劇を思い出し一瞬固まってしまった。よくよく見れば、彼等は自分を含めて昨日のミニゲームで鬼道一人のために活躍の機会すら与えられなかった者たちだ。その察しを裏付けるように、「昨日実力を測れなかった者たちを挙げた。このあとこの二チーム同士でミニゲームをしてもらう」と鬼道が言う。反論も意見も求めていないというような口振りだった。各々言いたいことはあるようだったが、雰囲気上口に出せたものではなく、またここで下手な真似をすればそれだけ入部が遠ざかると理解しているのか、なんとも言い難い表情を作るだけに留めていた。

「おいそこの!」

 ミニゲームを控え、体操着に着替えるためにロッカールームへと向かう途中、不意に声をかけられた。振り向けば、色素の薄い髪をオールバックに撫で付けた自分と同じ新入生の男が、口端を持ち上げていた。面識はないし、クラスの自己紹介で見かけた記憶もない。しかし妙に距離間の近い呼びかけに、咲山は僅かに眉を顰めた。

「俺辺見ってんだけどよ。共同戦線組まねぇか?」
「……」
「俺かお前のどっちかがボールカットして、どっちかが前に繋ぐなりシュートチャンス狙うなりすんだよ。上手くいきゃ、二人して入部確定って寸法」
「……」
「俺MFだし、まぁサッカー経験はそこそこだから、どっちやっても構わねぇぜ」
「……」
「で、お前、ポジション何処よ」
「……お前に関係ないだろ」
「あ?」
「こんなところで馴れ合ってる暇なんかねぇんだよ」

 自分の横を陣取ろうとしてきた男をするりと躱して、咲山は歩幅を早める。おい、と苛立ったような声が背後から聞こえてきたが、知ったことではない。この場で何が一番大事なことかは判りきっているはずだ。蹴落とすかもしれない他人に声をかけるなんて、どれだけ能天気なのだろうか。或いは強そうな奴に取り入って上手くやろうとする三下根性の持ち主なのかもしれない。喧嘩の世界で何度か見たことがある。だが生憎と、そんな奴に獲物を折半してやれるほど、咲山の懐は広くなかった。自信はあるが、自分がどれだけやれるかは未知数だ。ポジションというポジションで活躍をしたことはなく、試合という試合で経験を詰んだこともない。食らいつけるかは五分五分といったところだろう。それでも、自分にはやるべきことが、したいことがある。そのために、今まで研鑽を積んできたのだ。ぎらぎらと野心だけを点した右目で見据えるのは、先のことだけ。



あの入部再テストから一ヶ月が経った。無事テストを合格した咲山は、一軍の中でもスターティングメンバーに近しい位置まで登り詰めていた。本来であれば二軍での下積み経験が必要なところを、その暴力的なスライディングと荒々しいカット技術で以って素っ飛ばし、背番号を与えられ、試合運びが順調なときは試合に出られるまでになっていた。総合的な評価としては「荒削りだが悪くはない」というもので、もっと基礎的な技術や的確なタイミングでの攻防を行えるようになれば、スタメンとしても十二分に起用する価値のある選手になるだろうとのことだった。それに伴って、念願だった必殺技を会得できる機会を与えられた。プレイングの荒々しさにマッチしていると思われたのもあるだろう。元よりそのつもりであったので、咲山としては申し分ない。勉強と練習をひたすらに反芻し続けた結果、数日前、遂にキラースライドを習得するに至ったのだ。

 未だ必殺技を習得したという実感の湧かないまま、今日の練習が終わる。身につけはしたものの精度はまだまだ、イエローカードや一発退場も危ういというレベルなので、鬼道からは練習を重ねるよう指示を受けている。今日も何度スライディングをしたか覚えていない。しかし使えなくてはならない局面で的確に使うために、やはり練習は必要だ。見ているだけでも十分だったあの爽快感、あれを自分自身でも味わいたいと、早く合法的な喧嘩がしたいと、咲山は厳しい練習をこなしていた。

「おう咲山」

 ユニフォームを脱いで鞄に放り込んだところで、声をかけられた。あのオールバックの男――辺見だ。彼も無事合格したらしく、ほぼ自分と同時期に一軍に入ってきたのだったと思う。他人には興味などないのだが、辺見については入部前に一度声をかけられたことが余程記憶に残っていたのだろう。入部してからも、自分から仲を縮めるような言動をしたことはなかったのだが、如何せん向こうが勝手に近づいてくるものだから、嫌々にでも言葉を紡がなくてはならない。無視をする手段をとれたはずなのにそれをしなかったのは、きっと気紛れだ。そんな気紛れがずるずると続いた結果、自分と同じように一年生ながらに一軍に所属し、更にはスタメンに選ばれるような者たちとも少なからず交流を持つ羽目になった。鬼道のことはまだ恐怖で距離を置いてしまうが、指示は的確だし、受け入れなくてはならない存在であることは確かなので、やや怯えながらも応対していた。

「このあと出られる奴だけ集まって、今日のミニゲームの反省とかしながら夕飯食うつもりだけど、お前どうする?」

 問題はその他だ。まるで普通に、友人のように話しかけてくる。此処は喧嘩の世界と同じく、弱肉強食が罷り通っている場所のはずだ。隣人を気遣ったり、和気藹々と仲を深めて仲良しこよしをすることに、何の意味があるというのか。技術のある者が十一人揃っていれば、そこに互いの関係性や信頼など必要ないはずだ。彼等はよく、夕食を済ませるという名目で部活での反省点を話し合っている。鬼道は兎も角、他人から指摘されるレベルの反省点ぐらい、自分で把握できている。食事だって、がやがやと五月蝿い中で済ませるより、一人で静かにコンビニのお握りでも食べた方がよっぽどいい。なのでこうして度々声をかけられることを、咲山は弱い者同士の馴れ合いだと認識し、鬱陶しいと感じていた。故に、いつも通りに返す。

「……俺はいい」
「んだよ、付き合い悪ぃな」
「まぁまぁ、咲山だって用事があるんだろう。気をつけて帰れよ」
「おもしれーもんでもあるなら俺も誘ってもらいてぇぐらいだけどな。ま、別にいいけど。じゃーな」

 悪態を吐いた辺見を源田が宥める。新入生の中でも体格が良く、また実力もあるため、行く行くは正GKとして有望視されている存在だ。彼も自分に対して普通に声をかけてくる。不良の自分に子供を相手取るような言葉を投げかけるこいつ等は何なのだ。ワイシャツを羽織り、じろりと辺見と源田を睨む。前者は少しビビったように肩を揺らしたのでまぁいいのだが、後者はそれを威嚇とも感じていないらしく、凛々しい顔を少しやわらかくして、きょとんとこちらを見つめてくるばかりだ。話にならないと咲山は早々に視線を外し、ロッカールームを出た。サッカープレイヤーとしては、彼等は間違いなく自分よりも経験や技術のある、ある意味では見本になる選手なのだろう。しかしフィールドを出れば別だ。にこにこと愛想よくしながら誰かと誰かの間を取り持ったり、互いを労うために食事をしたり、そんなことに巻き込まれるのは御免だった。喧嘩もサッカーも、徒党を組む必要はない。ただ、自分が強ければ、やりたいことをできればそれでいい。

 とっぷり日の暮れた、濃紺が占める空間をぽつぽつと歩く。疎らとはいえ街灯があることが救いだ。流石の咲山も、この時間の帰路を明かりひとつなく進むのは少しばかり躊躇う。喧嘩慣れしている奴が何をと言われそうなものだが、それはそれ、これはこれだ。少なくとも、何の強襲もない帰り道に夜目を利かせる必要はないだろう。
 と、制服のポケットに仕舞っていた携帯がぶるぶると震えた。両親のどちらかかと思いディスプレイを見るも、知らない番号だった。どうするべきか少し悩んで、仕方なく通話ボタンを押す。

『サキヤマァ、お前どこ中行ったんだよ、あァ?』

 一度だけ、どこかで聞いた覚えのある声だった。……確か受験勉強中、化学式が判らずむしゃくしゃとして町に出たとき、伸した相手がこんな声をしていたような気がする。どこか片言気味に自分の名前を呼んでいたので、断片的にだが記憶に引っかかっていたらしい。自分にしては珍しいことである。

「あああんときのデブか。テメェに関係ねぇだろ。人のケー番抑えて何の用だ」
『しらばっくれんなよ、用なんてひとつしかねぇだろうがよォ?』
「……上等だ、前に伸してやったとこ来いよ。二度と電話なんざしようと思えなくなるぐれぇぶっ飛ばしてやらぁ」

 部活での苛立ちと、この電話での苛立ち。ふたつの種を抱えてしまっては、もう発散するしかない。吹っ掛けられたのなら買うまでだ。乱暴に通話を切った咲山は、少しだけ軽くなったような気のする足取りで、自宅へと戻っていく。制服を脱いで“ただの咲山修二”に戻るため、そして、“ただの咲山修二”が持つに値する相棒を取りに行くため。咲山の夜は、まだ長い。



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