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 放課後になったが、特に何が起きるわけでもなく、帰りのHRを終えてざわめく教室で、源田は帰宅の準備を進めていた。部活がないだけでこんなにも時間が早いものかと、この一年の充実ぶりと、自分がどれだけサッカーに時間を割いていたのかを再確認する。

「源田」

 ふとかけられた声に其方を向くと、既に支度を済ませた鬼道が立っていたので、急いで荷物をまとめ、二人で教室を出る。と、ここでひとつ疑問が湧いた。スタジアムの点検やテスト前などの部活のない放課後であれば、決まって教室の外へ鬼道を迎えに来ている佐久間の姿が見えないのだ。自分たちよりも一足早く支度を済ませ、「さぁ早く一緒に帰ろうぜ」と言わんばかりにスタンバイしているだろうと思っていた男が居ないことに、源田は朝同様、妙な違和感を覚えた。

「佐久間、居ないな」
「気のせいでなければ、今日は姿を見ていないはずだ。思えば昼も誘いに来なかったな」
「確かに……。どころか休み時間中、他の部員に会った記憶もないぞ」

 昼だ部活だ帰りだと、大抵二人を誘いに来るのは佐久間だ。鬼道も源田もその誘いに連れられることが殆どで、自分たちから誘いに行くことは稀(二人が行くよりも先に佐久間が来てしまうのだ)なため、佐久間のクラスに本人が居るのかどうかの確認はできていない。もしかしたら昼も、誘いに来られない理由があったのかもしれない。今日一日たまたますれ違わないというのは、まぁ珍しいがなくもない話だ。だがそれは佐久間一人に限った話で、こうも既知の人間たちに丸一日出会った覚えがないというのは、やはり異常だ。そうなると、必然的に話は朝交わした一件へと辿り着く。

「やっぱりあいつ等、俺たちを抜きにして何かしているんじゃないか? だってあからさま過ぎるだろう、今日一日、誰にも会っていないなんて」
「だとしても、俺とお前を省く理由がわからない以上、それはあくまで仮説にしかならない」
「それはそうなんだが……うーん、誰かうっかり顔を出さないものか……」

 この妙な引っかかりを残したまま帰宅するのも何だか気持ち悪くて、二人はふむと頭を抱えながら廊下を進む。と、鬼道は不意に背後から視線を感じて振り返った。対岸の廊下、階段に繋がる曲がり角の端から、ちらりと銀髪と眼帯が垣間見える。

「佐久間か……?」
「え……?」

 鬼道の言葉に源田もそちらを見る。確かに、少し離れた場所から僅かに見える銀髪と眼帯は佐久間のものだ(というかそうでなくては困る)。会えるのなら部員の誰かであればいいと思っていたところに、一番の適役が現れたことで、鬼道と源田は問題が解決しそうだと、揃って微笑みあった。

「おい佐久間、そんなところに居ないで、こっちに来たらどうだ?」
「ついでに訊きたいことも……」

 そう鬼道が言いかけたところで、佐久間がゆらりと動いた。のろのろと力の入っていないような動きで姿を見せた佐久間は、額に鉢巻、両手にペンライトを装備していた。とんでもない格好に、彼の名を呼びかけた二人はぎくりと身体を固まらせる。すぅ、と佐久間が顔を上げる。血走ったようにぎらぎらと見開かれた目は、まるで獲物を前にした肉食動物のような鈍い輝きを放っていた。ひくりと、どちらともなく口を引き攣らせる。やばい、と二人の心中が合致したのとほぼ同時に、佐久間が一歩を踏み出した。途端、鬼道と源田はくるりと九十度身体を回転させ、一目散に駆け出した。それにあわせて佐久間の足取りも速くなる。
 こうして鬼道と源田は、理由もきっかけも判らない、いつ終わりを告げるとも知れない地獄の追いかけっこを始めることとなった。





「ついてきてるか……っ!?」
「はぁ……っ、いや、姿は見えないが……っ」
「わからん、待ち伏せや先回りをされている可能性もある……っ!」

 三階。一年生たちの教室が並ぶ廊下を、鬼道と源田は疾走していた。上級生が乗り込んできた上に逃げるように駆け回っている様子に、入学して一週間の新入生たちは怯えたように横に捌ける。一頻り、後ろを気にせず走ってきた。振り返ってみるも、佐久間らしい人影は見えない。しかし鬼道の言うように、どこから姿を現すかが全く読めないため、逃げ切れたなどと一安心する暇もない。理由は判らないが、あの双眸に捕まったらまずいと本能が囁きかけてくる。二人とも、何かを理解しているわけではない。ただただ、迫り来る得体の知れない恐怖から逃げているだけだ。走っている量だけなら決して練習の比ではない。だというのに、まるでシャトルランの後半台を走っているような体力の磨り減りと、緊迫した試合の真っ只中に放り込まれているような神経の消耗を感じていた。はくはくと口から漏れる息は、上がっているというよりも、焦りや恐怖から来るものだ。

「どうする……っ?」
「……一旦隠れるぞ。確か二階の踊り場を抜けた左角が空いているはずだ」
「空き教室? 施錠されているんじゃないのか?」
「俺を誰だと思っている?」

 帝国学園の教室は、一部の高価な備品の置かれている場所こそ鍵で厳重に施錠され、ICチップではなく貸し出し帳などアナログな方法で管理するほどに備えられているが、その一方で、危険性が低く生徒が自主的に出入りできないと困るような場所の施錠は甘いことが多い。件の部屋は元々とある部活が活動場所としていたが、此度の部員減少に伴い部活から同好会へ格下げされた関係で明け渡すことになった一角だそうで、今は新入生のために用意していた予備の備品などが幾つか放り込まれていて、稀に交換を申し出る生徒が居るそうなのだが、そのためだけに一々職員室を訪れ鍵の貸し借りを記帳するのは手間だろうと、一時的にだが常に開錠しているところだと、鬼道は言う。そういった情報は、学園の中でも教師を含めて限られた人間しか知り得ない。にやりと笑う鬼道に、源田は驚きつつも苦笑した。

「じゃあ、ひとまずは其処が目的地だな」
「できるだけ佐久間をかく乱した上で、だ」
「了解……っ!」

 後ろから佐久間の気配はしなかったが、ざわつく生徒たちを見れば、自分たちが何処をを通ったかなどお見通しだろう。ならばできるだけ沢山のルートを通り、逆に混乱を増やせば、辿ってくることは難しくなるはずだ。絵面としては「帝国学園サッカー部のキャプテンとGKが校内を全力疾走で文字通り駆けずり回っている」という最悪なものであるが、背に腹は替えていられない。赤いマントと長身という目立ち過ぎる背格好が、どちらともなく加速する。

 一階に降り、中央階段を上ってまた三階に行き、突き当たりの階段を降りて、二階の踊り場を通り抜ける。鬼道の言っていた教室は扉こそ閉まっていたが、手をかければガラガラと古ぼけた音を立てて室内を晒した。
 カーテンが閉め切られて明かりもない薄暗い空間に、十か二十そこらのパソコン端末一式などが置かれている。これで画面が開いて青白い光を点していたらさぞかしホラーだっただろうと、扉を閉めながら源田は思う。電気を点けてしまうと此処に人が居ることがバレてしまうため、スイッチを探す手間は省いた。やや暗いが、慣れてくるとぼんやりと長机などの輪郭は見えてきたので、手探りと併せて場所を把握し、奥に進んでいく。幾ら消灯しているとはいえ、扉の近くに隠れていては、万が一開けられたとき、外からの光で見つかることを避けるためだ。そして明かりを点けられたとしても、容易には見つけにくく、またいざというとき逃げやすい場所として、鬼道は教室の奥に置かれたボードの裏を選んだ。物を隠しているわけではなく並べられただけのボードの裏側は、人が隠れたり歩けるだけのスペースが空いており、反対側にも隙間はあるので退路は確保できている。漸く身の安全を確保したことを悟った源田は、ふぅ、と息を吐いた。つられるように、鬼道も肩の力を抜く。

「これで少しは安全か……」
「あの様子だと根気強く探し回ってはいるだろうし、開いていようがいまいが片っ端から教室の確認はしていくだろうが、それでも時間稼ぎができるだけ上々だ」
「いざとなれば、俺が佐久間を食い止める。鬼道だけでも逃げてくれ」
「そうならないことを願いたいがな」

 「練習メニューにいいんじゃないか、鬼ごっこ」「面白そうだ、総帥に相談してみよう」などと、やっと雑談を交わせるだけの余裕も出てきた。目も慣れてきて、互いの顔も朧気にだが認識できている。同じ状況を共有しているというだけで、こんなにも隣の存在が心強いとは思わなかった。

「しかし、何でまた俺とお前が追いかけられているんだろうな。朝話していた件と、何か関係があるんだろうか……」
「…………」

 薄暗い教室の中、鬼道は思案する。今日一日練習をなくしてほしいという要望――つまり、部活に掛かることのないフリーな時間を作ってほしいということである。建前としては新入生たちの休息と、考える時間を作るというものだったが、朝ぼやいたようにそれが本来の理由ではないことが本当だとすれば、彼等は何か別のことをするのに時間が必要で、そのために今日の部活をフリーにしてほしいと頼んできたのではないかという仮説が立った。思えば一昨日の辺見たちの様子は、結果として今日の部活がなくなりさえすれば理由などどうでもよくて、例えばテストが近ければの成績維持のために勉強をしたいからなどと話を持ち出してきただろう。たまたま使えそうなのが新入生だったというだけなのかもしれない。
 では彼等は何のために今日の自由時間を求めたのか。それに関係するのが、恐らく自分と源田だ。巻き込まれているにも関わらず部外者にされている自分と、話にすら入れられなかった源田。突如追いかけてきた佐久間以外、一向にエンカウントしない同輩たち。考えるに、自分たちは意図的に彼等の作業する“何か”から弾き出されていて、佐久間はそれを此方に気取られないようにするためか、或いは悟られた場合に遠ざけるための“逸らし”として派遣されたと考えるのが無難である。ただ、それなら逆に四六時中傍に居て動向を監視した方が良いのではないかとも思える。日頃の佐久間の振る舞いから考えても、例え今日だけは違う意図を孕んだ上で行われていたところで、そんな考えの下自分たちに付き纏っているとは、自分も源田も想像しないだろう。自分たちを遠ざけるのが目的であれば、少なくとも佐久間だけはいつもどおりに振舞っていた方が自然だ。だというのに、佐久間は傍で見張ることをしないどころか、わざわざ追いかけてきた。追う方と追われる方において、主導権を握っているのは前者であるが、地の利の把握や空き部屋の情報を得ていることから、今この状況に限っていえば、追われている自分たちの方が優位にある。何せ逃げ場は此処以外にも幾つか当たりをつけていて、そのどれもを在校生が知るはずはない。自分とて、職員室で話を耳に挟まなかったら知ることもなかっただろう。偶然にも此処を見つける可能性は否定できないが、それでも相手の目的が不明瞭な以外こちらの優位に変わりはない。自分たちに逃げ切られる方が痛手であろうに、わざわざ分の悪い追いかけっこをする理由。

「……時間稼ぎだ」
「時間稼ぎ?」
「恐らくあいつ等は、今日一日を使って何かを用意ないし準備しているんだろう。それには俺たちが介入してはいけない理由があって、そのために佐久間が派遣された」
「……成る程、ずっと追い回し続けられて確実に俺たちが時間を消費するも良し、今みたいに何処かに隠れてやり過ごすために時間を潰すも良しというわけか」
「兎に角、俺たちがその準備の邪魔にならない場所に居ればよかったんだろう。さて、そうなると問題は俺たちの方にある」
「?」
「俺たち二人だけが省かれた理由だ。きっと何か、共通項があるのだと思う」
「俺と鬼道のか、難しいな……。サッカー、だけじゃ他の奴等とも被るし」
「…………」

 再度鬼道は思考を巡らせる。同じ学校、同じ学年、同じ部活ではあまりにも範囲が広過ぎるし、自分たち以外も当て嵌まる。好きな食べ物や嫌いな食べ物なんて、そんな小学生じみた理由とは思えない。家柄といっても、鬼道家と源田家は何かの事業が一緒だとか提携グループだとか、共通項と呼べるほどのものはない。では何が。他に、他に何かないか……。
 ふと、今が何時なのかが気になって、鬼道は携帯を開いた。暗闇の中ぼんやりと発光した画面には、今日の日付と時間がデジタル表記されている。暫しそれを見つめた鬼道は、やがて全てに合点がいったと言わんばかりに「そうか……」とトーンの上がった声音で呟き、ほくそ笑んだ。ぱちりと閉じ、物陰から動き出す。

「行くぞ」
「何かわかったのか?」
「ああ」
「何処に行くんだ?」
「サッカー部の部室だ」



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