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 その日、鬼道有人と源田幸次郎は校内を全力疾走していた。平時であれば「廊下は走るな」と説教する側である二人なのだが、このときばかりは許してほしいと切に願う。通り抜けるふたつの風を、生徒たちは驚いたように見ている。あの鬼道さんが、源田も居るぞ、何か緊急事態でも。そんな驚愕と憶測めいた台詞が、身を切る風の音と共に、足早に耳を通り過ぎていく。

「撒けたか……っ!?」
「あいつがそれぐらいで諦めるわけがないだろう……っ!」

 器用に後ろを振り返りながら叫んだ源田に、夢など見るなと鬼道が言う。事実、撒いた程度で自分たちのことを諦めるようであれば、こんなにも必死になってはいない。あまり考えたくないが、逃げたところで自分たちの都合のよい方向に話が転がるとも思えないでいる。それでも、二人はあくせくと足を動かし、廊下を駆け抜け、階段を乱暴に降りたり登ったり、時には身を隠しながら、移動し続ける理由があった。





 春。進級から早一週間が経った。春休みが開ける前、久々に袖を通した制服は少しだけ丈が短くなっていて、そのうちワンサイズ上のものを買ってもらう必要があるだろうか、と悩んだまま、結局今に至ってしまった源田は、やや窮屈な肩回りに僅かに難しい顔をしたまま、校門をくぐった。今日は朝錬がないため、普通の生徒たちに混じっての登校だ。何だか下級生たちからそわそわと見られている気がするが、自分の体格のせいだろうとあまり意に介すことはなかった(昨年もこの身長のせいで学年を間違えられた)。
 下駄箱で靴をしまっていると、もうすっかり見慣れた赤いマントが視界に映る。

「源田か、お早う」
「ああ、お早う鬼道」

 顔を合わせた鬼道と挨拶を交わし、他愛ない話をしながら教室へ向かう。朝錬のない日でも不思議と二人は同じぐらいのタイミングで登校しているようで、こうして鉢合うと、教室までの数分の道のりを、主に源田が会話を振ったり、稀に鬼道が部活のことで相談をしたりなどしながら消費していく。あまり寄り道などしない鬼道に、昨日立ち寄ったファストフード店の新作が美味かったという話をまるで高級レストランで最高級ランクの肉を食べてきたのだとばかりに語る源田の表情は柔らかく、まさかこの男が帝国学園サッカー部のゴールを守る守護神であると、初見の者は露ほども思わないだろう。鬼道としてはもう少しサッカー部の一員であり要であることを自覚してほしいとは思うが、人当たりの良さは源田の長所でもあるし、その屈託のなさに救われている自分もまた居るものだから、強くは言えないでいる。

「そうだ、お前今日誕生日だったろう? おめでとう」
「……お前はよく覚えているな」
「そりゃあ、約束したからな」

 見る者が見れば卒倒物の笑みを浮かべて、源田が言う。こういう些細なことを拾うところも、源田の長所だ。友人と呼べる間柄の人間に祝いの言葉を貰うのはいつ振りだろうかと、こそばゆい気持ちを深呼吸で整える。誕生日といえばお前もだろうと、同じように祝いの言葉を返そうとしたところで、はたと源田は「そういえば、」と話題を変えた。

「今日一日練習がないのはどういう理由なんだ? 新入生をふるいにかけるなら、様子見も含めて一週間ぐらいは練習ををみっちり入れるものだと思っていたのだが……」
「本来であれば、そのつもりだったんだがな」
「?」
「……辺見や寺門たちに、今日の練習はなしにしてほしいと頼まれたんだ」
「辺見たちに?」

 てっきり鬼道か総帥が新入生への慈悲のつもりで入れた休暇だと思っていた源田は、思わぬ人物たちの名に目を丸くした。恐らく名前の挙がった二人が頼みに来ただけで、話自体は同学年の一軍たちでまとめていたのだろう。そうだとしたら、何故そこに自分が加えられていないのだろうか。春休み中の部活や新学期が始まってからの一週間、特に彼等が怪しい素振りをしていたような記憶はない。時たま「鬼道さんの手伝いをしてこい」などと言われて彼と二人きりにされることがあったので、もしかしたら自分と鬼道は同じ括りに入れられているのかもしれなかったが、それなら練習の休止は鬼道でなく、総帥に直接頼みに行くだろう。なんだか自分だけ除け者にされているような気がして、源田は訝しむと共に、少しもやもやとしたものを感じた。

「理由は訊いたのか?」
「無論だ。だが、何というのだろうか……理由としては一応筋は通っているが、それが本心であるようには、どうにも思えなくてな」
「ほう……」

 鬼道が辺見たちからその話をされたのは、一昨日の午後の部活が終わったあとだった。言葉を簡潔にまとめきっていないからか、あれやこれやと要領をを得ない話をされ、最終的に何が言いたいのかと問い質したところ、「明後日の練習をなくしてほしい」と白状したのだ。その際言われたのは、「帝国の厳しい練習を一週間も続けていては、身体が慣れていない新入生が使い物にならなくなる可能性がある」「仮に自宅で自主錬をして身体を作っていたとしても、帝国の練習の厳しさは段違いであるから、かかる負荷は相当だろう」「無論、それで潰れるならそれまでではあるが、三年生が殆ど居らず、スタメンもギリギリ、控えもほぼ皆無な現状で、戦力になる一年生を潰すようなことになるのは拙いのではないか」「なのでどこかを一日休みにしてみるのはどうか。身体を休めるというのも目的だが、一旦張り詰めた糸が切れれば、色々と思うこともあるだろう。それでも此処でやっていくつもりのある面子を入れる方が、帝国のためではないか」ということだった。

「あいつ等の言い分は後輩を甘やかそうというものや庇うようなものではないし、ひとつの正論であることは確かだ。俺としては足りない面子は最悪、二軍から使えそうな者を昇格させて埋めることも考えていたが、正直なところ、少なくともこの一週間のデータやポテンシャルを見る限りでは、一年生の何人かの方が戦力として使えそうではあった。だからあいつ等の言うように、潰すことを避けるのと、うちのやり方でやっていくつもりがあるかの判断をするための時間を与えるというつもりで、許可をしたんだが……」
「確かに、言い分は尤もだが、少し腑に落ちないな。辺見が言いに来たというのも気になる」
「どういうことだ?」
「ほら、一年生の成神という奴が居ただろう? DFの、ヘッドフォンをしている」

 言われて、鬼道は頭の中に入れたデータを引っ張り出す。成神健也、ポジションはDF、町のジュニアクラブでの成績は良く、のらりくらりとリズムに乗った動きでFWを牽制する。総帥からは特別目にかけるよう指示を受けた選手ではなかったが、現状の帝国には足りない部分を補える技術のある選手だと感じた。尤も、どこか上級生を舐めたように鼻で笑うその態度は、後々面倒なことを引き起こしそうだとは思うが。

「ああ、覚えている。フットワークの軽さと掴めない動きでよく相手を翻弄していたな。体格は小柄だが、それを生かしての小回りを利かせた戦術が上手い。後日のミニゲームの結果によっては一軍入りも一考している選手だ。そいつがどうかしたのか?」
「それが、どうにも成神と辺見はソリが合わないようというか……。辺見は相当憤慨していたが、俺としてはそこまで目くじらを立てるほどでもないだろうと宥めていてな。……ああ、話が逸れた。兎も角、成神の実力からして一軍入りはほぼ確実だ。言い分を信じるのなら、俺たち以外の二年生が庇護しようとしているうちに、成神も入っているだろう。辺見は懐に入れた奴への情は厚いが、逆の相手は庇い立てすることもしない。その点で言えば、一年生たちはまだその対象ではないはずだ。まぁ、あいつもこの一年で少し丸くなったから、幾ら生意気だろうと、後輩になるだろう奴等を慮る心を持ったのかもしれないが」

 少し前までは「後輩なんていらねーよ。俺たちだけで最強帝国学園だろうが」などと息巻いていたが、きっとそのうち、その“俺たち”には後輩も含まれているのだろうと思うと、源田は破顔せずにはいられない。兄貴肌なところがあるから、今は突っぱねている成神とも何だかんだ上手くやっていくだろうし、いつの間にか懐に入れて、何かあったら庇い立てするぐらいの仲にはなるだろう。今の辺見にそんなことを言ったところで、「ありえねぇ」と鼻で笑われ怒鳴られるだろうが。要はツンデレなのだ、辺見渡は。だからこそ、そんな男がまだよく知りもしない、仲間意識を持つ以前の後輩を率先して擁護することに、些か違和感があった。

「あとは、その提案を辺見と寺門がしに来た、というのが不思議だな。寺門は兎も角、そういう交渉をしにくるのは佐久間だと思うんだ」
「……ああ、言われてみればそうだな」

 参謀という立場上、鬼道に何か物申すのは佐久間であることが多い。次点で源田、寺門の二人が多く、他の面子は直談判をすることは滅多にない。源田はあまりそう感じたことはないので判らないが、サッカー部の絶対的指導者である鬼道に対して、おいそれと意見をぶつけたり意義を申し立てたりするのは、一年経った今でも緊張物らしい。今回の件とて、正直その交渉をするのなら辺見よりは寺門一人の方が、佐久間が居たのならその倍はスムーズだ。佐久間に余程重要な用事があったというなら、また話は別なのだが。

「何だか、妙なことばかりだな。一見筋は通っているが、よくよく考えると違和感がある」
「あいつ等が何かを計画しているというのか? なら、俺とお前が除外されている理由は何だ?」
「直接休みの談判が来た時点で、俺は鬼道もあちら側だと思っているんだが……」
「知らん。大体、休みの取り付け程度で総帥を尋ねる方が怪しいというものだ」
「じゃあ何だろうなぁ。少なくとも、省かれているのは俺と鬼道だろう? 何かあっただろうか……」

 うーん、と唸ってみるものの、特に何が思いつくこともなく、二人は教室に着いてしまった。流石に席についてからもわざわざそこに時間を割くわけにもいかず、暇な休み時間に頭を捻ってみたが、結局源田も鬼道も、納得のいく答えが出ることはなかった。


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