text | ナノ


モブ女性に名前あり(出番は少ない)



「ちょっと、僕と散歩に行かないか?」

 背筋も凍るような満面の笑みに、呼びつけられた二人は下手な言葉を発するよりも早く首を縦に振っていた。


 今日も今日とて原因不明の爆音と異国語で飛び交う罵倒が朝を告げる街、ヘルサレムズ・ロット。そんな異次元のような現実の、とあるアジトにて。
 積まれた書類のタワーの間、印鑑と万年筆の転がったデスクに肘をついてにっこりと笑う(K・K曰く)ライブラの腹黒ことスティーブン。その正面には、居心地悪そうに視線をずらす(チェイン曰く)銀猿ことザップと、呼ばれたことに疑問符を浮かべる(ザップ曰く)魚類ことツェッド。
 正直関わりたくもないといった風な態度のザップだが、眼前の上司から逃げたところで現状がさらに悪化するだけだとその身をもって理解しているため、ひたすらパンツのポケットに入れたジッポを弄くり続けて気を逸らす。ツェッドもツェッドで、特に自身が問題を起こした覚えがないのに兄弟子共々呼ばれたため、困惑と少々の憤りを感じていた。これで兄弟子の尻拭きでも頼まれた暁には、幾ら目上の人間だろうとしっかり抗議しようという意志が彼にはある。表情の読めない顔立ちをしているが、その分纏うオーラは人類のそれよりもわかりやすい。

「さて、二人に来てもらったのには頼みたいことがあるからなんだが」

 びくり、自分たちが入室してから初めてスティーブンが発した一声に、大袈裟なんてもんじゃないくらい二人の身体が跳ねる。以前のようなお使いを頼まれるのだろうか、それとももっと酷い使いっぱしりだろうか。少なくとも、スティーブンの目の下に浮かぶ隈の濃さを見るに、理不尽な用件を突きつけられる可能性と、それを達成できなかった場合にこれまた理不尽な罵声を浴びせられる可能性がないとは言い切れない。
 冷や汗だらだらで硬直する二人を余所に、スティーブンは浮かべた笑みを一層濃くさせる。その辺の女性ならば(相手によっては男性でも)イチコロであろうその笑みは、しかし目尻に深く刻まれた隈と虚ろ気な雰囲気のせいで台無しだ。

 スティーブンがはぁ、と疲れきった溜め息を吐く。またも震えた二人に向かって、二度目に彼の口から発せられた言葉が、冒頭のそれだった。





 絶賛徹夜継続中のスターフェイズさんと散歩だなんて、どんな罰ゲームだ。眼前で当たり障りない会話を繰り広げる弟弟子と番頭を、既に疲労の見える目で追いながら、ザップは一人心の中でぼやいた。

 あの後、有無を言わさずほぼ反射で頷いた二人を引き連れて、スティーブンは街に繰り出した。記念日でもなければ祝日でもない今日でも、この街は相変わらず祭でもやっているのかと勘違いするぐらいに騒音轟音のパレード状態で、空にはバルーン感覚で異界の生物がふよふよと、その非現実的染みた身体で飛んでいる。一応、朝の早い時間ではあるので、諍いや雑音はそれなりに控えめではあるが、あくまで日中のそれと比べての話である。

「いやぁ、外の空気はやっぱりいい。篭りっきりの気分も晴れるよ」

「身体の毒になりそうな排気と霧でいっぱいな気がしなくもないんですが……」

「そういうのはほら、気分の問題さ。君も一度書類のベッドに寝転べばわかるよ」

「できればお断りしたいですね!」

 スティーブンの発言はどこかネガティブなのに、反して言葉は明朗だ。それが何より恐ろしい。僅かでも地雷を踏めば、貼り付けた笑顔のまま氷漬けにされるかもしれない。加えて今のスティーブンは普段にも増して感情が読みにくい。迂闊な発言は避けたいが、会話をしないわけにもいかない。不可抗力、現状はまさに爆弾つきの黒ひげ危機一発。

 魚類よ、頼むからスターフェイズさんへの受け答えは慎重に、且つ好感度を上げるような選択をしろ。いつもなら悪態を吐けるだけ吐いてほっぽる弟弟子だが、今だけは死ぬ気で応援していた。無論、心の中で。





 そういえばこの人と行動するのは珍しいことだなぁ。何かしらの念を送ってくる兄弟子を背に、番頭のメランコリー発言に相槌を打ちながら、ツェッドはぼんやりとそう思った。
 基本的に自分が一緒に行動する人間は、第一にレオ、次いで(かなり不本意ながら)兄弟子のザップぐらいなもので、後はまばらな付き合いが多い。街でのいざこざも大体自分でどうにかしてしまえるのでライブラの誰かに頼ることは殆どないし、集団で動くのは精々が頻繁に訪れる世界の危機の際か血界の眷属を相手にするときぐらいだ。

「あー、そういえば朝も食べてなかったな。うん、サブウェイにでも行こうか。喜べ、君たちは僕の奢りだ」

「わ、わーい、とっても嬉しいです……」

「スターフェイズさんの奢りなんて、俺恐縮過ぎてマジヤバでちびっちゃいますよー」

 こんな場面でも兄弟子の語彙の貧相さは健在だった。
 間近でスティーブンと接した回数は少ないツェッドだが、彼がライブラの面々から影のリーダーとして恐れられているのは何となく理解している。ただでさえ恐ろしい人間が、何日目になるかわからない徹夜というオプションをつけてハイになり、更に扱いにくい人間にグレードアップしてしまっている。ちょっとでも突いたら破裂しそうな風船という表現がぴったりな程に。

 待ち合わせに使われるような市街地の大時計は八時を過ぎ、街はやれ仕事だ朝帰りだと様々な人種が入り乱れ、遠巻きに喧嘩と思しき罵声も聞こえる。騒がしいはずなのにどことなく静かだと感じてしまうのは、この街に慣れてきた証拠なのだろうか。
 浮かれたように足を高く上げるスティーブンに連れられながら、二つ目の角を左に、次は右に、また右に。抜け道でも通っているのか、大通りから何本か外れた路地は細く太陽が射す程度でまだまだ薄暗く、人通りも少ない。道が違うだけで、こうも静かな場所がヘルサレムズ・ロットに存在しているとは。ほう、とツェッドが漏らした小さな感嘆は、目立つ三人分の足音に混ざるように街の霧に溶けていった。

「あーっ!! 見つけたわよザァッープ!!」

 突如、後方から聞こえた劈くような女の甲高い叫び声が三人の鼓膜を揺らした。純粋に驚く者、呆れる者、大袈裟にびくつく者、それぞれ反応は違えど、三人とも一様に後ろを振り返る。薄暗い路地でもわかる、染めでは出ないハニーカラーの髪に、薄手のドレスワンピースからちらりとのぞく下着。程々の化粧とこの距離でも香るきつめの香水は、彼女が所謂娼婦の類であることを安直に教えてきた。

「マッ、マルカ!? お前何でこんなところに!?」

 女に最初に反応を見せたのは彼女が名前を叫んだ男で、その顔は何とも筆舌に尽くしがたいことになっていた。この場に犬猿の仲である人狼が居たならば、すぐさま写真に収めていただろう(後日それをネタに詰るのは言うまでもない)。つかつかと値段も踵も高いパンプスのヒールを鳴らしながら徐々にザップとの距離を詰めていくマルカと呼ばれた女は、とても客商売をしているとは思えない顔で怒鳴り散らす。

「そんなことどうでもいいの! 捜したわよ! アンタいい加減貸した金返しなさいよ! まさか一晩楽しませてやった分でチャラにしろ、だなんて言わないでしょうね!?」

「…………返す、返すっつうの」

「それ先月も聞いたんだけど!」

 あーこの人やっぱりどうしようもないクズだ。変わらない表情、しかし内側から湧き上がる嫌悪のオーラがツェッドを纏う。スティーブンは我関せずの態度だが、苛ついているのかしきりに靴底や爪先ををがつがつと鳴らしてザップと女を見ていた。しかも笑顔のままである。彼が寝不足で機嫌が悪いのは朝からだし、このままではいつお得意の足技が炸裂してもおかしくはない。
 そうこうしているうちに、煮え切らないザップの態度に堪忍袋の緒が切れた女が、殺してやると言わんばかりに隠し持っていたナイフを振り回し始めた。スティーブンやツェッドの姿は目に入っていないようで、端から狙いはザップただ一人のようだ。そうと判断したスティーブンは、大して悩むことなくするりと言葉を紡ぐ。

「よしザップ。僕とツェッドはゆっくり朝飯を済ませてくるから、君はその素敵なミスとランデブーを楽しんでくるといい」

「ちょっ、はぁ!?」

「行こう新人君。男女のデートに同伴するのはマナー違反だしね」

 顎が外れそうなぐらい口をあんぐりと開けながら女に応戦するザップ。血法を使わず、その辺に転がっていたらしい酒瓶で相手をする姿はさぞ滑稽である。放っておいていいのかなぁ、と少しだけ、本当にほんの少しだけザップに情をかけたツェッドだが、上司にそう言われては致し方ない。この場で逆らってはいけない人間の順位くらいわかっているつもりだ。

「まぁ、そういうことでしたら……精々死なないでくださいね」

「スターフェイズさん!? おい魚類テメェ! ちっとは兄弟子助けようとか思わねぇのか!? アァン!!?」

「うっさいわよザップ! 金返せ!!」

 女の悲鳴にも似た怒号とナイフを振り回すぶんぶんという危なげな音、そしてこの状況を生んだ原因である銀猿のやかましい叫び声を背に、スティーブンは颯爽とナイフと酒瓶の鍔迫り合いの隣を通り過ぎ、その後ろを恐る恐るといったようにツェッドが追いかける。「スターフェイズさぁん!」と背後から聞こえてきた部下の懇願の一声に、しかし当人は其方を見ることなく片手を挙げてみせるのみだった。



150614
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