Witness of Summer
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私は、見てしまった。
水がアスファルトから逃げる、無様な姿の先に。
今日、梅雨が明けた。
昨日と比べて急激に上がった気温に耐えられず体調を崩してしまった私は、早退という最終手段行使中だった。
空が、目が痛くなるほど青い。昨日までずっと灰色だった空が嘘みたいだ。
アスファルトに視線を落とすとモノクロが広がっていて、空との違いが少し滑稽だった。
アスファルトの黒の部分を探して歩く。強い日差しに、私の肌までモノクロになってしまうではないか、と頭の端っこで考える。
ごちゃごちゃとしたモノクロの部分は、逃げ水のせいでゆらゆらと揺らいでいた。風はなく、熱を孕んだ空気が私に纏わりつく。ただでさえ気分が悪いのに、暑さで脳ミソが沸騰しそうな感覚。汗で背中に張り付いたワイシャツが、すごく不快。視界の端に見えた黒いモヤモヤが、私を覆い尽くそうとした、そのときだった。
「大丈夫かno name?!」
聞き馴染みのある、声が聞こえた。
崩れ落ちそうになっていた私の体は宙を浮き、一瞬私は空を飛んだ。
目を閉じる前に見えたのは、視界いっぱいに広がる空と、高尾の顔だった。
目を覚ますとすぐに見えたのは、高尾の心配そうな顔だった。
「…たかお」
「目!目ぇ覚めた?!よかったー!」
その表情がコロコロ変わる様は、さすがと言うべきなのだろうか。ただ、笑った顔が太陽に似ているのは昔から変わっていない。
辺りを見渡すとそこは高尾の部屋だった。きっと倒れてしまった私を運んでくれたのだろう。そのことに礼を言おうと口を開くが、喉が渇いていて、掠れた声しか出ない。それに気付いた彼は
「喉渇いてんだ?ちょっと待ってて、ポカリ持ってくる」
と言ってくれ、気を遣ってくれるのを見て、いい主夫になれそうだなんて考えてしまった。
彼とは一応恋愛関係にある。
ただ、一度だけお互いに『好き』と言っただけで、付き合っているのかと聞かれると返答に困る。だが彼とは行動は共にしていて、デートと呼ばれるものも、キスも、経験はある。だから彼氏ではないと否定もできないのだ。確信が欲しいが、恥ずかしい、なんて乙女のような感情が邪魔をして聞けず仕舞。なんだかんだで2年目に突入した。キス止まりではあるが、私はそれで満足だった。彼がいるならば。
彼のことを一通り考え終えたところでドアが開いた。手渡されたポカリは冷たすぎずちょうどいい温度で、こんな細かいところまで気を遣ってくれた彼に私以上の女子力を感じて苦笑いしつつ、それに口をつけた。
喉は一気に潤い、それが心地よかった。私の中にたまっていた熱が放出された気がした。
「ありがとう、高尾」
そうお礼を言うとまた、太陽みたいな笑顔。ああ、眩しいなあ。今度は心臓が沸騰しそうだ。
しかしそのあと怒ったような表情になり、私を叱った。
「早退すんなら俺に言えっつーの!保健室行ったって聞いたから行ったらもう帰ったとか、びっくりすんじゃん!そんで様子見に、あと追いかけたら今にも倒れるとこだったし!」
「だって高尾部活あんじゃん…いつも楽しそうだから邪魔したくないなあって…」
叱られた子どものように、びくびくしながら返すと、高尾の表情がまた変わる。次は、優しい顔。
「no nameのためなら、部活だって休むって。お前んち、両親共働きだし、お前一人じゃ心配だし。」
私はそんなに頼りないだろうかと疑問に持ちつつも、「ありがとう」ともう一度口にして、ベッドに体を沈める。
「おー、もうちょっと寝た方がいいなー。部屋暑くねえ?大丈夫?」
「ん、へーき。それよりもさ、」
今日は病人なんだ、少しくらいワガママを言っても構わないだろう。
なんて笑って、彼の両手を握る。
「一緒に寝て?」
「う、え?!」
なんて素っ頓狂な声をあげて顔を真っ赤にする高尾が面白くて、もう少しいじめたくなって、
「だめ?」
と、首を傾げて聞くと首まで真っ赤になった。
「あ、いや、no name病人だもんな、わ、わかった…!」
焦る高尾にありがとうと笑いかけると、恥ずかしさのあまりか俯いてしまった。いつもヘラヘラしている彼のこんな姿は貴重だ。ニヤニヤしながら高尾を眺めていると、彼は勢いよく顔を私に向け、口を開いた。
「あっ!のさ…添い寝するだけ…だから!やましいことなんもねえから!」
やはり彼は思春期真っ只中で。
彼が一瞬でも考えたことを想像して私まで茹で蛸のようになった。
「ば、ばか!当たり前でしょ!病人襲わないでよ!」
彼の恥ずかしがってる顔が見たかっただけだったのに、まさかこんな爆弾を投げ込まれるなんて。
壁の方を向いて、彼から逃げる。
すると、ベッドの軋む音とシーツが擦れる音。
「え、あ、たかお、」
「no nameが、一緒に寝てって言ったんだろ」
背中に感じる熱は、私のものではない。恥ずかしい、でも同時に心地よくもあった。
ああ、なんだか恋人のようだ。
浮かんできた感情は、私がずっと欲しかったものだった。
「大丈夫?」
まだ少し日は高いけれど、私は家に帰ることにした。母が学校から連絡を受けたらしく、心配して私にメールを寄越したのだ。高尾の家にいると返すと、高尾くんのお家にご迷惑だから帰っておいで、とのことだった。
「うん、頭もスッキリしたし、大丈夫だよ。明日も多分学校行けると思うし。」
「そっか、家まで送ってこっか?」
「ううん、平気」
暑さのせいか、高尾の顔が赤い。いや、それだけじゃないのだろうけれど。
私もきっと、おんなじ顔をしていることだろう。
キスまでしているのだが、まだこういうことに慣れないなあ、なんて小さく笑った。
「じゃあね!」
「おー、気をつけて帰れよー」
大きく手を振ってさよなら。
ゆらゆらと揺らめく地面は相変わらず不快だが、頭がまだ高尾のことでいっぱいの今の私にとっては、些細な問題でしかなかった。
前を向いて、私の家へ歩を進めているときだった。
「no nameー!!!」
私を呼ぶ声。
そんなのは彼しかありえない。
振り返ると、水が逃げるその先の彼が、私に向かって走って来ていた。
「た、高尾?」
「やっぱさ、送ってくわ」
「え、いいのに」
そう断ると、彼は再び顔を赤くしながら、口を開く。
「た、たまには彼氏を頼れよ」
まったく、夏の魔法には困ったものだ。
嬉し笑いを抑えきれない私が見たのは、そんな私たち二人を包んでいる夏だった。
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