バイバイ
数日振りに訪れる緑谷家。
ガラスのうしろを追いかけてきたミズ・ニードルを名乗る女性は、目を丸くしてその表札を見た。それもそうだろう、緑谷、とは、彼女に連なる者にガラスのことを報告した人の名なのだから。
「……どうしたの?」
「どうやって、イズクを呼ぼう」
緑谷、と書かれた札の前で突っ立ったままのガラスは、どうやらインターホンのことを知らないらしい。ああそっか、と納得したようにひとりごちたミズ・ニードルは、ややあってその存在をガラスに教えた。
躊躇せずにガラスがチャイムを鳴らす。くぐもった電子音の先で出久の母親の声がした。
≪はい、どちらさまでしょうか≫
「おお……ワタシ、ガラスよ。イズク、聞こえる?」
≪……ちょっと、待っててね≫
がちゃり。音声が途切れ、扉の奥から少し騒がしい音がする。子どもが床を走る足音。
「ガラスちゃん!? どうしたの!?」
勢いよく開けられたドアと共に、慌てた様子の出久が顔を覗かせた。ガラスが自宅を訪ねてきたことに、何事だと急いで来たのだ。彼の後ろには、状況を把握しているがゆえに、しとやかな表情で出久とガラスを見下ろす出久の母がいる。ミズ・ニードルと視線が交差した彼女は、そっと会釈をしていた。
「イズク」
「な、なぁに?」
いつもどおりの調子で友達の名を呼ぶガラス。対して、いつもと同じように出久は応える。
「ワタシは、ミズ・ニードルと行く」
「……え?」
そこで出久の目が、初めてガラスの背後に佇む女性を――まだ名の浅いヒーローを見た。だれ、と少年は戸惑いを口にする。
「ガラスちゃんの、家族?」
「いいえ。わたしはミズ・ニードル。ガラスちゃんを、迎えに来ました」
「迎えにって……ガラスちゃん、どこかに行っちゃうの?」
「ん」
「ど、どこに?」
「わからない」
「わ、わからないって……あ、明日も、会えるよね?」
だって出久は、ガラスと出会ったその日から彼女と会い続けているのだ。できれば明日も明後日も、明々後日もガラスと遊びたい。そのうち勝己も混ざってくるかもしれないけれど、ガラスの態度は知りきっているから、それでもいいやとすら考えていたのだ。
「会えないよ」
だが、カラスの子から返された言葉は残酷な断言だった。
そんなのわからない。言い返そうとして、出久は口をつぐんだ。ガラスの真っ黒い目に、情けない顔をした自分が映っている。その目を持つガラスはいっそ不気味なくらいに平常なのだ。だから出久は理解してしまった。本当の本当なんだと飲み込むことができてしまった。
「でも、また会いに来るよ」
ゆえに。続いた言葉は、淀みかけていた出久の内側を痛いくらいに明るく照らした。
「イズクの家の場所は、覚えているから」
ガラスは嘘をつかない。出久は知っている。
小さな子どものように泣きじゃくって、声をあげ、駄々を捏ねて――それが今の出久にないのは、どうにもならないことは世の中にあるのだということを、齢七歳にして、痛いくらいに承知しているからだ。自分が無個性なのだと断じられたあのときから、この世はそういうものなのだと諦観し、そして反骨精神と希望もまた、出久の幼い胸には育っている。
どうにもならないこと。それはあるけれど、反対にどうにかできることだってあるに違いない。
ガラスのことは、後者で。だから出久は取り乱さずに、涙目ではあったけれどガラスの確信と約束に、わかったよと頷いた。震える声だった。
「イズクがヒーローになって、オールマイトみたいになったら、家が変わっても、会いにいけるよ」
「……じゃあ僕、絶対に絶対に、ヒーローに、ならないと」
「ん」
こくり、頭を上下に振って、ガラスは出久から一歩後ずさる。
お別れを言いにきたのだ。だからもうそろそろお別れだ。未練と心残りは、昇華できたのならばこれ以上作ってしまうものではない。出久は大丈夫だろうし。
「ガラスちゃん」
「ん」
「……またね」
「ん。イズク、バイバイ」
初めて出会った、そのときと同じ別れの言葉。
ひとつ、違うのは。今度のこれは、また会うことを約束する、魔法のおまじないなのだということだ。
夕焼け空を背に受けながら、扉を閉じる。ガラスは最後まで、泣き虫だけれどよく笑う男の子から目を離さなかった。
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