涙雨に捧げよ
それから一清は、できるだけ天龍も食卓に招くことを勤めるようにした。
とはいえ天龍は提督に敵意を抱いている。なので一清自身が艦娘寮に赴くわけにもいかず、仲介は電や古鷹に担ってもらう。
単に食事毎に誘うだけではない。食べにこないのならば食べさせれば良いと、いつかのように直接食事を持っていかせたりもした。
「呆れた。クズ司令官も大概頭が足りてないったら。こんな作戦で顔なんて出すわけないじゃない」
と霞は手伝いつつ苦虫を噛み潰したような顔をするものの、一清とてこの程度で天龍の気が変わるとは思っていない。
ただ誰しも我慢の限界は持ち合わせているだろう。
このまましつこく三食に誘っていれば、いつかは堪忍袋の尾が切れて「いい加減にしろ」と怒鳴り込みに来るかもしれない。それでもいいのだ。
天龍の気持ちを、まずは少しでも動かすことができれば。
一清の考えを知った霞は眉を潜めて「性格悪いわね」と吐き捨てた。
上等である。ただでさえ顔つきのせいで誰彼への第一印象は良くならないのだし、今更なんと思われようと心にはさざなみひとつ立ちはしない。
それでもやはり、現実は上手くいかない。
天龍も中々に頑固な艦娘である。
第五区間の者が総出で彼女を押入れから引っ張り出そうとしているのに、返って来るのはいつだって無言の拒絶だ。
五日が経ち、二週間が経つ。
とうとう一清が大湊警備府に着任してひとつきになっても、天龍の氷は溶けることがなかった。
長期戦は覚悟しているとはいえ、流石に不安を覚えてくるらしい。
最初こそやる気に満ちていた電と古鷹はまた影のある表情を見せるようになってきた。
霞もどこか苦々しさを漂わせているし、日向の顔つきも険しい。
それでも誰も「やめよう」と言い出さない辺り、やはり皆天龍を気にかけているのだ。
もちろん一清も例外ではない。
一度決めたからには、区切りのつくまで続けなければ男が廃る。
我慢強さには自身があるし、長期戦は得意だ。いつまでも待っていられる。それは一清の長所でもあるのだから。
提督業への青臭さがようやく抜けてきた最近は、出撃・遠征の手際も滑らかなものになってきている。
その日は明け方から雲行きが怪しかった。やがて降ってきた小雨は少しずつ地上を塗らしていく。
ささやかな雨粒は正午間近になってひとまわりかふたまわり大きくなり、雨音が鼓膜へ暴力を奮い始める。
唐突に酷くなった雨天に、丁度書類仕事を片付け終えた一清は窓を振り返った。
きのうから日向を旗艦とした古鷹と電の三人編成小艦隊が遠征に出ている。
昼食前には帰ってくる予定だったのだが、この雨に海上で出会ったならその通りにいかないかもしれない。
あちらの状況を把握すべく羅針盤時計に意識を集中させようとして――やめた。
霊体派遣は精神力を要する。万が一に備え、出撃作戦以外での使用は控えておくのが提督業における常識だ。
何かあったなら日向たちの方からテレパスが飛んでくる。
手に取った羅針盤時計を制服のポケットに仕舞った。
「……クズ司令官って、無駄に心配性なところあるわよね」
微妙な温度の声はソファに座っている霞が放ったものだ。
秘書艦を担っている彼女は一清がペンを握っている間、静かに読書をおこなっていた。
秘書艦は副司令官と同じように提督を最も近い位置から助ける右腕的存在だ。
羅針盤所持者には誰にでも着いているものなのだが、関係性のこじれていたこの区間で秘書艦の役割が再発足したのはつい先週だった。
一清は別にいなくても今は困らないので誰でも良い、という迷惑かつ適当なスタンスだったため、現在は日替わり当番制になっており、いまは霞がその任を請け負っていた。
霞の言葉に一清は顔を上げる。
別に心配することは珍しいことでもないだろうに……と思うのだが、いわゆるギャップというやつがあるのかもしれない。はたまたは、先代を思い返すと新鮮味でも覚えたのか。
「そう気を揉まれるのも中々鬱陶しいわね。あたしたちは艦娘よ? スコールにくらい慣れてるわ」
「…………なら、いい」
双方お喋りな性格でもないため、会話はそこでぷつりと途切れた。
気晴らしに本館を軽く見回り散歩でもしようか。一清は立ち上がって執務室を出る。
見送る声は聞こえなかったが、気にすることもないと歩を進めた。
艦娘寮が一番近く仰げる窓の隣を横切ったところ、視界に人影を捉えて足を止める。
視線を向けると、ガラスの向こう、傘もささずに寮から出てどこかへ向かう見慣れない軽巡洋艦娘――天龍が見えた。
反射的に一清も外へ出ようと踵を返す。傘を手に取る時間も惜しく、降り注ぐ大雨のカーテンに身を晒した。
こんな行動、いつもならしようとも思わなかっただろう。
だがこの天気だ。あの艦娘だ。
気にするなと言われるほうが、今ではすっかり無理があった。
「そりゃまたお前さんにしちゃ随分軽率に動いたなぁ」と、あの先輩提督なら笑うに違いない。
外に出てすぐに視線をあちこちに巡らせるが、天龍の姿はものの見事に見失ってしまっている。
それでもなぜか、本館に戻ろうとは思わなかった。
雨水に濡れ額に貼り付く前髪と服が鬱陶しい。もはや視界を遮るだけの伊達眼鏡を外す。
走って探すにしても居場所がわからないのなら体力を消耗するだけだ。名前を呼ぼうにも聞こえた声にきっと天龍は背中を向ける。
仕方なく、気の向くままにまずは防波堤に向かうことにした。
海の時化具合と電たちの帰りが気にもなっている。風は穏やかとはいえ、危険が伴うことに代わりはないので遠くから眺めるだけだが。
そうなんとなく足を運んだ場所に、探し人が立っているなどと普通なら想像つかないだろう。
再び視野に入った艦娘に、今度は足音を潜めそっと近づいた。
防波堤の手前に立ちすくみ、海原を見つめるその背中まで二メートル程か。
「……何をしている」
ぽつりとこぼれた呟きは、不思議と雨音にかき消されることなく場に響いた。
天龍がゆっくりと背後を振り返る――こんじきを面と向かって見るのは、これで二度目だ。
ヒトを嫌う娘の表情は、ひどくのっぺりとしており、何の感情も乗っていない。
「悪いのかよ。僚艦の帰りを待つのは」
次いで向けられたのは淡い嘲笑だった。
天龍はこの雨の中海上にいる電たちが気がかりらしい。
「……悪くはない」
そう応えると、はんっと天龍は鼻で笑い、
「オレたちの新しい提督は随分とお暇で物好きなんだなぁ、オイ」
挑発しているのか、きっかりとした敵意で彩った目をつり上げる。
「……風邪を曳く」
「説得力皆無だな」
まったくもってその通りだ。
天龍とのはじめての会話は、一清が予想していたよりも余程穏便である。
それ以上会話は続かず、互いに目は逸らさないまま沈黙が流れた。
「天龍」
名前を呼ばれて、艦娘は小さく肩を跳ねさせてすぐに身構える。
じっとしていたって仕方がない。
自分で動かなければ何も変わらないと――響輔も颯も言っていたし、何より己でそう決めた。
だから、
「…………それでいいのか」
地面を穿つ水にかき消されてしまいそうな低音はしかし、天龍の鼓膜にしかと届いた。
哀れみと、うっすらと、たぶん優しさを孕んでいる。
天龍は目の前にいる男がわからない。わかりたくもない。
自分を造った提督は明るく朗らかで慕える人間だった。あんな人間がどうして己の欲に負けしてはならないことに手を出したのか。
龍田を侮辱した提督はいけ好かないがその指揮は確かだった。だからどれだけ厳しく当たられても着いていこうと思っていたのに。
艦娘をヒトとして見てくれる人間でも。艦娘をヒトとして見ない人間でも。結局は同じなんじゃないかと天龍は思うのだ。
電も霞も古鷹も――今はよくてもきっとまた傷つき悲しむ。
まっとうかもしれないこの男だって、根は腐っているに違いない。
どうせまた裏切られるくらいなら最初から信じないほうがいい。
どうせまた壊されるなら、期待しないほうが傷つかずに済む。
「お前に」
そうして閉じこめたこのマグマのようにたぎる至極当然で醜い激情をつつかれるのはとてつもなく不愉快だ。
「オレをはかられたく――ねぇんだよ……!」
それ以上踏み込むと許さない。
それ以上触ると殺す。
そう目が、言外に震えている感情が、訴えているのに。
「――今のままでは」
恐れ知らずにも一清は思いを紡ぐ。
「……駄目だ」
何が駄目なのかなんていちいち指摘されたくもない。
「んなことお前に言われなくてもわかってんだよッ!!?」
ついに弾けた憎悪と殺意は天龍を突き動かした。
二メートルあまりの距離を一気につめ一清に掴みかかる。
決して軽くも低くもない体躯は艦娘の体当たりを食らってよろめく。そのまま一清の瞳が曇天を移した。直後後頭部に鈍痛。
地雷に触れたか。
そう悟って眉間に谷を作るももう遅い。
次には天龍の体重が腹にかかり襟首を引っ掴まれて息が詰まった。
「お前らに!! お前に何がわかるんだよ! わかられたくもねぇんだよ! 知ったように甘さ振りまいてそうしてオレたちをまた喰うんだろうが!! なんなんだよお前!! いい加減にしろよ!! なんで――!!」
首に回された指はぞっとするほど冷たく鋭利な刃物のように容易く肉を絶つに違いない。
「お前がいなけりゃ龍田も――お前なんか――!!!」
ぽとん。ひとつ一清の頬に落ちた雫は煮えたぎるような熱さを持っている気さえする。
「さっさと死んで――しまえば――」
無意識に、口は酸素を求めているものの。
……抵抗を。しようとは、思えなかった。
天龍は確かに人間を、提督を殺したがっている。
苦しいのだ、と察するのは容易い。
そして鬼丸一清が彼女にできることも、それでどうにかしたいと思うことも、それではいけないと断じることも、きっとおこがましい高慢だったのだ。
唯一天龍にくれてやれるものがあるとするならば、それはこの命の他にないに違いない。
ここでこの生涯を閉じれば、流石に天龍の気も済むだろう。
あとのことは、電たちやあの先輩提督に任せて。
私は――俺は。この泣いているちっぽけな艦娘にきっかけを与える為に、気紛れな羅針盤時計にに選ばれたのだろうと……抜ける力と霞む視界に思いながら目を閉じる。自然と喉も呼吸を求めるのをやめた。
直後のことだった。
「――やめて天龍ッ!!」
この場にいるはずがない。
その声に、性格に、似つかわしくない裏返ったような悲鳴が聞こえたのは。
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