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早く帰ってきてほしい

「いってきます!」

 その言葉を言われたからには、いってらっしゃいと見送らなければ。控えめにかけた声が、あの人の耳に届いたことを祈っている。

 現在地は小田原。しばらくのあいだは、渡さんの家にお泊まりだ。……チヅキくんといっしょに。
 かたかた、と揺れるボールの中にはウォーグルのはちさんがいる。彼とえいさんは、チヅキくんがそばにいると過剰に反応する。えいさんのボールは今はからっぽだけれど、渡さんが帰ってくるまでのあいだ、わたしははちさんを宥めきることができるだろうか。かなり、不安だ。

「お茶にしようよ。ようかん食べていいって、カナメが言っていたんだ」

 わたしの気も知らないで、チヅキくんが家の中に入っていく。少し疲れた様子のルーペを労わる。短く溜息を吐いて、民家の中に踏み入った。
 渡さんが落ちていった桶の中の水面は、凪いでいる。

「サチって、家事できる?」

 ようかんを食べ終えたあとのことだった。言い出したのは、チヅキくんだ。

「できる、けど。一応」

 上田城では、女中さんのお手伝いもやっていた。わたしは魔獣の問題では役に立てないから、できることならなんでもやりたかったのだ。生前も弟の面倒は散々に見たりしていたのだし、家事は苦痛ではない。

「そっか。よかった。ならカナメが戻ってくるまでは交代制ね」
「……分かった」

 チヅキくん、家事できるのか。失礼かもしれないが、意外だ。安土城ではそんなところ、ひとつも見たことがなかったのに。
 昔のことを思い出していると、ふいに気になってやまなかったことがぐるぐると唸り声をあげだした。眉根が寄る。

「チヅキくん」

 渡さんがいない今なら、訊いてもいいだろう。

「よくわたしたちの前に、またのこのこと顔を出すことができたよね」

 たっぷりの嫌味と恨みを練り込んであげた。これだから女は、だとでもなんとでも、お好きにどうぞ。わたしだってこの人には、いろいろ言いたいことがある。好意なんて、微塵もない。いくらわたしでも敵味方の区別くらいはもうつくし、切り替えだって潔くできるほど器用ではない。それにわたしはもともと性格は根暗だし、間違っても人良くはない。どうして渡さんは、この人の手を借りたのだろう。あたりは強かったから、許しているわけではなさそうだ。それにしても、解せない。
 するとチヅキくんは目を丸くして、「えへへぇ」と笑った。正直なところ、非常に癪にさわる。わたしは、煽られているのだろうか。

「僕には君たちしかいないのだから、君たちといたいと思うのは当然でしょう。僕は君たちの味方だよ」
「知らない」
「ふふ、僕だって倫理や道徳は心得ているさ。人殺しが悪いことだっていうのも知っているよ。でもこちらでは、僕の世界よりも殺人に寛容だ。ましてやヒイラギは一国の要人でもなかったのだから、手を出しても僕が国に追われるなんてリスクは追わずに済む。現に、そうだったでしょう? 彼の落命に動揺したのは、カナメたちくらいのものさ」
「もう黙って」

 罪悪感とかないのだろうか、この人には。話していると、いらいらするだけだ。立ち上がって、食器を片づけるために土間に下りる。

「僕はもう、殺さないよ」

 水が張ってある桶の中にお皿を着けて、べとついている糖分をゆすぐ。
 彼が今どんな顔をしているのかは、分からない。
 わたしはむりくり、別のことを考えようと頭の中のギアを切り替えた。

 行きたい、と言われたからこっそり援助したとはいえ……えいさん、上手くやっているだろうか。





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