幸福者だと言えるのかい
あと一日。
カナメを見ていると思い出す。昔の僕にも、余命僅かな父親のために必死になっていた時期があった。残された時間を少しでも幸いに過ごして欲しいと願って走り回っていた。
あれでもない、これでもないと狼狽える僕に父は言った。いいんだよ、チヅキ。もういいんだ。父さんはね、もうちゃんと幸せなんだ。母さんと出会えて、お前と出会えた。だからあとは、お前のことだけが気がかりなんだ。父さんがいなくなったあと、お前がちゃんと幸せになれていれば……父さんはほかには、もうなにもいらないんだよ。チヅキ、産まれてきてくれて、本当にありがとう。
何の悔いもなさそうな父さんの穏やかさに、僕はなんと返したのだったか。そこまでは、もう覚えていない。
ただ一つ分かることは……カナメは、怖いんだ。ジラーチがいなくなってしまうことが、心の底から怖いんだ。分かるよ。僕もそうやって、誰かがいなくなることが怖くてたまらないときがあった。なくしてしまうのは、怖いものね。
「君、どうするんだい」
縁側でぼんやりとしているカナメに声をかける。彼女は僕にちらりとも視線を寄越しはしない。
「どうするって、何を」と晴れ渡っている空の雲を眺めながらカナメは言った。小さな声だった。
「あのジラーチのことだよ。明日だよね」
眠りにつくのは。そう言外に込める。
「君は、ジラーチのトレーナーではないのかい?」
するとややあって「違うよ」と返事があった。なんだ、そうだったのか。それは知らなかった。僕はそれなりに彼女をつけていたのだけれど、これは新たな発見だ。
「……私は、ジラーチにお守りをしてもらってた。たぶん、そういう関係なんだと思う」
「お守り。それは面白いね」
「面白くない。なんにも」
何か嫌なことでも脳裡に過ったのか、不機嫌そうだ。
「君、あのジラーチの離れるのが嫌なんでしょう」
「…………」
「願えばいいのに。ずっと一緒にいたいって」
簡単なことだ。
「……はは」
乾いた笑い声が、空気を揺らした。
カナメは俯いた。視線を落として虚空を見つめ、背中を丸めて両手を組み合わせる。
「それができたら、苦労してない」
「断られたんだね」
「…………」
沈黙は、肯定ととっていいのだろうか。
僕は彼女のことをかわいそうだと思った。
かわいそうにね、かわいそうな子だ。切実な願いの一つも叶えてもらえないだなんて。ひどいジラーチもいたものだ。
あのジラーチだって、本当はこの子と一緒にいたいはずだ。なのにどうしてかぶりを振るのだろう。僕には少し……理解に困る。ずうっとずっとを約束すれば、みな幸せになれるには違いないのに。
ふと気づいた。
へんなの。このあいだまでは幸せになるために死にたくて死にたくて仕方がなかったのに、そのために人殺しまでやったのに、いまの僕は誰かと一緒にいることこそが幸せなのだと思った。
……でも、そうか。そういえば、そうだった。僕は、父さんや初めてのパートナーと、いつまでも静かに暮らしていたかっただけだ。彼らがいなくなってしまって、僕はとても寂しかった。苦しくて、悲しかった。
「ねえ、カナメ」
「…………」
「お別れは、不幸なことなんだよね」
「…………」
ここで初めて小田原の魔獣使いは僕を見た。久しぶりに目がきちんと合った、気がする。悲痛な表情の中、ぽつんと僕を見ているのは涙は流さないしずやかな目だ。拒絶されたときとは違う、どこか胸が苦しくなるような何かを持っている。何、その目。やめてよね。変な、気持ちになる。
「時と、場合による」
……なんだ、それ。お別れは、不幸ではないの? ……どうして? 僕には、よくわからない。
だって、母さんとも父さんとも、初めての子とも、お別れをするときは悲しくて悲しくて死んでしまいそうだった。それを降りかかった不幸だと感じないのなら、一体なんだと言うのだろう。
カナメは今、不幸せではないのかい? だからそんなにも、つらそうなんでしょう? こぼそうとした言の葉は、どうしてか舌の奥に沈んでいってしまった。
僕には、わからない。――いいなぁ。
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