先手を打たれた
ジラーチは、本来ならありない月日のほとんどを私のそばで過ごしてくれた。
だったら。自分のことばかりだった時間、この三日くらいはジラーチのために使いたい。両手では足りないくらいに貰ってしまった無償の親切を、少しでもいいから返させてほしい。
それが、偽善者でもなんでもいい、私にでもできる唯一だ。そう思った。
あと二日。
「ジラーチさん。あの、何かやりたいこととか……やってほしいこととか、ないっすか」
朝食後。思い切って訊いてみると、ジラーチはきょとんと目をまたたかせていた。
台の上に残っている食事はチヅキのぶんだけだ。こいつは食べるのが遅い。どうしていまだに同じ屋根の下にいるのかは、もう考えないことにした。オーベムにあーんなんかしてんじゃねぇぞ。お前のオーベム可愛いな。
『うーん……特にないねぇ』
ええー……。な、なんか、あるでしょ。ないの……?
ジラーチはふふふと鈴を転がすように小さく笑う。それから一回あくびをして、浮き上がってこちらの肩に落ち着いた。
『散歩にでも行こうか。少し、話をしよう』
チヅキを一瞥する。仇敵は箸を置いたその手を小さく振った。大丈夫なんだろうな。家になんかしたら許さんからな。
天気は、先日の土砂降りが嘘だったかのような快晴だ。冷夏のせいで、知る夏よりもいくらか涼しい。おかげで過ごしやすいのは皮肉なことだ。
人通りの多いところを避けて歩く。すると辺りに広がる景色はちょっとした雑木林や田園だ。田舎、と言うのは簡単だがこの世界ではそれほど珍しくはない。途中すれ違った人は私の顔を知っているのか、目が合う度にぺこりと会釈をしてきた。おはようございます、と返して通り過ぎる。
『僕はね。昔は君のことなんか、どうでもよかったんだ』
ぽつりと、ジラーチは言った。静寂の中に落ちた水滴のような、しずやかさだった。
知ってる、と私は頷いた。世間話でもするみたいな調子で返して、つまさきに当たった小石を蹴る。
「あんたは私を慰めるために、心にもないきれいごとばかり言ってた」
『ばれてた?』
「うん。でも、追い打ちかけられるよりはずっとマシだった」
『そう。なら、よかった』
好きにしていいよ、とか。無理強いはしないよ。とか。すべてのポケモンを代表して感謝を、とか。おかしいったら。どの口がほざくのか。でも四面楚歌と暗中模索が具現していたようなあのころ、中身のないきれいごとは下手な現実よりもよほど私を守ってくれていた。それでいてこのまぼろしのポケモンは、化けの皮が剥がれるのも早かった。ああこいつ、ほんとは私に関心ないな、と疑心暗鬼に敏感になっていた私は気づいたのだ。
それが遠慮のない関係にまでなっていたのは、いつのあたりからだっただろう。もう思い出せない。柊さんが私にとって、気づけば返事をしてくれて当たり前になっていたのと同じだ。あの人のことだって、最初は好きではなかった。
『旅をしていたころ、話したことを覚えているかい?』
「それは……どれよ」
『キミに問うたろう? 願い事はないのかい、と』
ああ、はい。そういえばあったね、そんなこと。
『キミのことがどうでもよくなくなったのは、あれより少し前だったかな』
「わりと早くほだされてますね」
『本当にね。この人間かわいそう、と思ってしまった僕が負けだった』
哀れまれて負かしてしまった。
『あのときは言えなかったことがあるのだけれど……僕はね、カナメ。キミの願いならいつでも叶えていいし、叶えてあげたい、叶えたい、と思っているよ』
歩みを、とめる。
振り返ると、ジラーチは私の肩にはいなかった。少し離れたところ、私の頭に合う高さに浮遊して微笑んでいる。
『だから、考えておいてよ。なんでもいいんだ。許されるものでも、許されないものでも。なんでも絶対、叶えてあげられる』
……なんだ、それ。あんだけ人に釘さしておいて、どうして今になってそんなことを言うんだ。
熱のかたまりみたいなものが、鎖骨のあたりに詰まっていてすぐに言葉が出てこない。
「……ジラーチの、願いは」
『僕の願いはね』
ジラーチの瞳が、弧を描く。初めて見る、彼の満面の笑顔であるような気がする。
『もう、叶っているよ』
私は、最低な人間だ。この言葉を、私は聞きたくなかった。
こんなあとに引けない状況で、そんな幸せそうな顔で、そんな救えないことを言って。私はあんたに、何もしてあげられない。
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