ひぐらし | ナノ
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パラダイムシフト

 地面に足がついたのが分かった。これ地面だよね? ちゃんと立ててる? 足場のない空間を漂う感覚は初めてだったので、不安がある。
 深く息を吸って、吐く。ここ、どこだ。見渡すと、景色はさっきまでのものと大差ない。でも違う。セレビィがいないし、トレミーとヒナもここにはいない。伺ったモンスターボールの中身は空っぽだ。
 タイムトラベル先で丸腰で迷子ってか。冗談じゃありません。笑えません。頭を抱えつつもひとまずはじっとしているより歩きだそうとする。

「…………」

 できなかった。突然のどに痛みが走ったからだ。息を呑んだ。
 一体どこから現れたのか。私の前には、人がいる。頭のてっぺんからつま先まで夜に溶ける漆黒。おおよそ情というものを見出だせない両目に表情。
 その男が私にくないを突きつけていて、そして私は。

「――ひいらぎ、さん」

 この人を。とてもよく、知っている。

「であるならば、どうする」

 返ってきた声は、冷たかった。それはもう二度と聴けないと思っていたものだった。もう二度と目にできないと思っていた人が、私の前に立っている。
 そうか、ここ、過去なんだ。この人が言っていたその時に、私はいるんだ。

「貴様は、何だ。偽れば殺す」

 おーう。一瞬で涙引っ込みました。のど刺されかけとるがな。感動の再会なんてなかった。どうやら私は死ぬか生きるかの瀬戸際にいるらしい。デッドオアライフ。なんてこと。
 目玉だけを動かして周りを見るが、セレビィの気配はない。時渡りをしたのは私だけ、か。溜め息を吐いて視線を戻す。

「……変な光を、見ませんでしたか」
「問いに問いかけるな。見たことには見たがな。音もあった」
「ああ……」

 なるほど、あなたも見たのね。たぶん、出口が開く瞬間に鉢合わせたのだ。
 素直に頷いた。痛い……くない向けられてるの忘れてましたね……切れてないかな……。

「それ、セレビィって魔獣が長い距離を移動するときに生じるものなんです。人がこうして、巻き込まれることもあります」

 未来から来ました、なんて言っても信じてもらえないだろう。なのでぼかす。嘘は言っていませんよ。
 すると鼻で笑われた。なんやねんお前ほんま腹立つな。

「はるばる奥州からとんぼ返りか。ご苦労なことだ」

 奥州か。なるほど、この時期の私は今そこにいるのか。ごまかしとこ。

「そうですねぇ。ははは、二度手間でやんの。まぁたぶん、すぐに帰れるんですけど。……ほんと二度手間だな、このまま家に直帰したいですわ」

 ここらで思いきって、くないを私に突きつけている手を追いやる努力をしてみる。痛いねんこれ。不快やねん。

「ビッミョーにチクチク当たってるんですよ、これ! さっきから!」

 押し返してみるが、すこし揺れるくらいだ。この人意外と力強いよね。

「当てているからな」
「当ててんのよってか。こんな物騒な物、当てられてちゃたまりませんよ。もうちょっと離してください」

 少しだけ尖端が遠退いた。ありがとうございます。あー痛かった。血は……出ていない。加減がお上手ですこと。
 そのときふと、ひぃん、と覚えのある波のような音が聴こえてきた。

「ああ、ほら。ほらね。ね?」

 タイムリミット。セレビィはどこからか、しっかり私を見ているのだろう。
 早いなぁ。そろそろ時間か。そりゃあそうだ。いつまでもここにいるわけにはいかない。このまま留まっていると、余計なことまで口に出してしまいそうだ。
 でも最後に何か、もう少しだけ。何かないかと思考を回す。謝るべきか。ごめんなさいと、先回りの謝罪をしておこうか。それともありがとうと言うべきだろうか。あなたのおかげで、私はとても助かっていたのだと。言いたいことはたくさんある。
 けれど、

「……柊さん」
「なんだ」

 途端に私の舌から、あらゆる言葉が失せてしまった。ああ、どこに行ったんだ。困るよ。私はこの人に、まだ何も返せていない。
 名前を呼んだ。返事があった。たったそれだけで私は何もかもを救われたような気持ちになってしまっている。この人がいる。このときこの場所で、この人はまだ生きている。それで、満足してしまった。ばかやろう。

「――やっぱり、なんでもないです」

 でも、ああよかった。ぐちゃぐちゃになっている喉の奥に唯一残った言葉、これだけは贈らせてください。あなたは、とてもよくやってくれた。そのくせ私は、あなたにこの一言もあげられはしなかった。だからこれだけを許してください。

「お疲れ様、でした」

 何も持っていない私からあなたに渡すことができる、こんなものを報酬として持っていてください。

「ありがとうございました」

 ひらりと手を振る。この先私の前にも隣にも、うしろにも立つことはない黒が、遠退いていく。

 私はかつて、なんなのだろうと首をかしげた。未来の私は一体どうして時を渡ってきたのだろう。何をしにきたのだろう。
 簡単なことだ。それでいて、あの頃の私には絶対に考えられなかったことだ。今の私が教えてみても、信じてくれないかもしれない。でも本当なんだ。
 私はね。柊さんに、会いにきたんだよ。










 ――もといたところに、私は立っていた。
 トレミーとヒナが近づいてくる。ふおふおしゃもしゃも、私の顔を伺ってきて、身をすくませた。失礼な。ああでも、見ていられない顔、してるんだろうな。
 つんとする鼻の奥。火傷しそうな眼窩の底。まばたきをすると、あふれた痛みが頬を伝う。私の前に、人はいない。

 渦潮よりも深く渦巻くこれは何だ。軽率な仕事を与えたあのとき、私はほかにどうすればよかったんだろう。松雪さんに関わらなければよかった? 柊さんと別行動をしなければよかった? ジラーチ以外にも手持ちを預けておけばよかった? 考えられる正解はいくつでもある。どれを選んでもあの人は死ぬことなんてなかったに違いない。
 私は、間違えたのだ。あの人が私を恨もうと恨むまいと、結局は私のせいであの人は死んだのだ。
 命令でもしておくべきだった。死ぬなよって、釘を刺しておくべきだった。なんて駄目なあるじだろうか。私は愚鈍です。とんでもない愚か者で、大馬鹿者です。

 私の勝ちの条件は、私が生きていることなんかじゃない。それだけじゃ駄目なんだ。私の勝ちは、私だけでは成り立たない。私がいて、あの人がいて、ジラーチトレミーヒナみんながいて、それでできればいっしょに帰る屋根があって、お腹も空かせておらずに笑うことができていて、それで初めて勝ったと言える。

「柊さん」

 だから私は、敗けたのだ。
 名前を呼んでも、応える人はもういない。





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