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夏の残り火

 豊臣軍と私個人のあいだに、支援協定を結ぶことになった。
 小田原には手を出さない。豊臣軍への異動勧誘も白紙に戻す。その代わり、大阪は魔獣について私にあくまで協力を仰ぐ。
 互いにプラスしかない前向きな提案は、私の心意気を上手に利用したものだ。なんというか、私は蜘蛛の巣に捕まるまいと必死であったのに、結局こうして竹中半兵衛という賢者の手の上で踊っている。

「僕らが「来い」と強いるよりも、こちらのほうが、君は活きるだろう?」

 してやったり、と竹中さんは微笑んだ。この策士!
 差し出された契約書の隅々に何度も目を通す。用心をくり返し柊さんにも復唱してもらったうえで、私は煮え切れない悔しさをサインに叩きつけた。この屈辱、末代まで覚えておくぞ……!

 大阪で過ごした怒涛の日々を振り返ってみる。どうにも私の一人相撲が多かった。ウフフ。過ぎたことは忘れよう。うそですそこそこ引きずってる。でも存外、悪くはない時間だった。私の方が学ばせてもらってしまった。もちろん頭痛の種も増えたのだが、それはいま悩んでいたってどうにもならない。尾張については、相互で調査を進めて行こうということになっている。大阪としても、今回のように突然襲撃されたとなっては黙っていられないのだ。

 ――最後の夜、竹中さんが部屋を尋ねてきた。このあいだの話の続きだ、と彼は前置いた。というと、アレか。私以外の魔獣使いの話か。すっかり忘れてた。

「「シキ」という名前の子が、君の知り合いにいたりしないかい?」

 首を横に振る。誰だろう。嫌な予感がする。
 竹中さんは私の挙動に「そうかい」と頷いた。ついてくるといい。続けられたので、細い背中を追いかける。
 ある場所に案内された。私たちが使わせてもらっている部屋とは、また別の客間だ。

「ここは、豊臣軍の魔獣使いが使っていた部屋だ」

 他愛のない和室の上で落とされた、爆弾。

「大阪に――魔獣使いが、いたんですか」

 辛うじて絞り上げた声。震えてしまった。
 肯定が返される。

「部屋こそこうしてそのままにしてあるが……帰ってくるのかどうかは分からない。君と同じ……いや、少し年下だったろう。女の子だ。僕たちは偶然出会った彼女のことを、外に知られてはならないと秘匿していた。何故なのかは、君にも分かるだろう」

 もちろん、だ。
 魔獣使いという肩書の価値。まだ私が小田原に落ち着く前の話となると、その稀有さ、危うさは今よりも光っていたに違いない。

「彼女の名は、シキといった。アサギという街の、シキだと」

 竹中さんが、引き戸を開ける。今夜は満月だ。夜の外は月光でやんわりと照らされている。冬特有の凍てた空気が、肺に冷たい。

「――アサギシティの、シキ」
「ああ。彼女は僕たちに、魔獣の知識を多く預けてくれた」

 彼は部屋の隅に向かった。置いてある小さな引出しに手をかけて、中から何かを――一冊の本を取り出す。

「カナメくん。君はこの日ノ本に、何をしにきたんだい?」

 問いかけの意図が読めず、口ごもる。構わずに話は紡がれた。

「シキくんは、人を探しに日ノ本に来たのだと語っていた。行方知れずの友人を探しに来たのだとね。そこで僕は彼女に交渉を持ちかけた。大阪の魔獣使いになってくれと。引き換えにしたのは、その友人の捜索だ。ソウキという人物を、彼女は探していた」

 胸に、杭が刺さった。「ソウキ」に反応して、私がそんなふうに錯覚した。眩暈すらした、ような。胸が、握りしめられたみたいだ。
 腰に固定していたモンスターボールが弾けた。出てきたのはヘラクロスのサイカだ。ぎいぎいと騒ぐでもなく、どこか怯えたような鬼気迫る表情でそこにいる。
 竹中さんからの視線に、やっとのことで口を動かす。

「サイカ、は……――ソウキさんに連れ添っていた、魔獣なんです」
「――君。彼女の友人と、一体どこで……」

 目の奥が、じりじりと焼けるようだ。薄く視界がゆがんでいく。
 ソウキさんとどこで出会ったか。首を横に振ることでしか、答えることができない。

「サイカの持ち物に、名前が、書いてありました。だから私は、サイカしか知りません」

 くちびるの内側を、噛む。まだ泣くな。
 今度は私から、知らなければならないことが残っている。

「……お訪ねしたい、ことがあります。竹中さまは、彼女が帰ってくるかはわからない、とおっしゃいました。シキさんは、いまはここにはいないんですね。……なぜ?」

 ソウキさんのことがある。察しがつかない、わけではない。

「シキくんは……」

 目を伏せる賢人の語りは、気のせいか、震えているように耳朶をくすぐる。ああやはり、と察せてしまった。

「……消えたんだ。僕たちの目の前で、文字通りに消えてしまった。夏の頃だった。なぜそのようにしていなくなってしまったのかは、今でも分からない」
「何も、残っていないんですか?」
「ああ。魔獣も、荷も、彼女は日頃から持ち歩いていたからね。残っていたのは、ここにあったこれだけだ」

 手渡されたのは、先ほどの本だ。紐で綴じてある、しっかりとした手ごたえの書だ。

「帳面が欲しい、と言われてね。それを贈った」

 視線で促され、ページを捲る。

「日ノ本の言葉ではないようだから、僕にはとうとう読めずじまいなんだが」

 中身は、文字列だ。使用言語は、私でも読める。
 内容は、

「××月××日。ミツナリさんは絶対にカルシウムが足りていない」
「××月××日。ヨシツグさんはいきなりうしろに現れるのを止めてほしい。あたしが怖がっているのを分かっててやっているから意地が悪い」

 そんな、とりとめのない日々のこと。

「××月××日。ソウキくんはどこにいるんだろう。この世界にいることは間違いないと思うんだけどな。マツバさんみたいな千里眼があったら、すぐにでも分かりそうなのに」
「××月××日。ルディさん、絶対に心配してるよなぁ。何も言わずに世界を渡ってきてしまった。帰ったらお詫びにご飯を奢ろう」
「××月××日。バトルの腕がなまっている気がする。バトルファクトリーに行きたい。ネジキに勝負を預けているし。シンオウに行くなら、久しぶりにヒョウタともバトルしたいや」

 そんな、ほんのりと憂う日々のこと。
 魔獣たちと過ごす日々のこと、時折覚える不安のこと。アサギシティのシキが生きていた証拠が、そこにあった。

「日記、です。これは、シキさんの日記です。ここで過ごしたことが、本当に、なんでもないことが、たくさん」

 全部は、とてもここでは読み切れない。本を閉じて、竹中さんを見上げる。

「……それは、君に譲ろう。その日記は、読める人間が持っていたほうがいいだろうから」

 いらない、と断ることができない。狂おしいくらいの思い出の熱は、この胸を焦がしてしまいそうなのに。

「実のところ、大阪は魔獣使いを必要としていない。君が欲しかったのは本当だが……魔獣と付き合うすべは、彼女がとっくに教えてくれているからね」

 穏やかな沈黙を持って、賢人は、他人に鈍い私でも分かるくらい、ひどく優しい目をしていた。

「それでもと、秀吉と相談して君を招いた。……彼女のことが、何か分かればと。そう思っていたんだが……」

 私は、その子を知らない。
 シキという少女がいた日々は、それだけの陽を持っていたんだろう。振り返れば――大阪における魔獣への予想外は、すべてこの子のおかげだったに違いない。
 魔獣が、たいした偏見なく大阪城に受け入れられていたこと。
 魔獣の軍隊が、暴力を持って組まれた組織ではなかったこと。
 きっと多くが、私ではない異邦人がもたらした結果だった。

 垣根の先、はるかジョウト地方、アサギシティのシキ。全能の加護に包まれる以前、この世界に存在を認められず揉み消された一人は、確かな足跡を残していた。本当に奇跡のような、温かな軌跡を遺してくれた、顔も知らない誰か。
 忘れない。私は忘れない。探されていたソウキさんのことも、探しに来たシキさんのことも。
 はっきりと見える、真夏の陽炎。今はもうさわれないだけで、たしかに在った日々の残り火。蜃気楼が、私の網膜には焼き付いている。





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