野に咲く花が枯れぬように
定められた事象を知りえているとき。それが自分にとって都合の悪いものなのだと知っているとき。その事象に干渉し、未来を変革したいと望むのは、誰だって望む平凡な願いなのだ。未来の改変を望むことは、悪ではない。
ただ、大切なのは。その改変を実行し、遂行し、完了できるだけのものが、変革志望者に、携わっているのかどうかだけで。持ちえる祈りが偽善となりえるか否かの境界線が、そこなのだ。
日暮ヨウは、諦観者である。
自分は、自分にできることしかできない凡人であることを十二分に心得ているし、どれだけ崇高な言葉を持とうとも、己がその言葉をすべて偽善にしてしまいかねない弱者なのだということも知っている。
できないことはできない。だから、やりたいことも、時にはできない。
この世界、戦国乱世にて、理不尽な任務を押し付けられたその日に、ヨウは焼け付くような甘ったれる夢は、諦めれば楽になれることを承知した。
そうすることでしか、理想に生きられない人間もいる。
面倒ごとの気配がする。その察知は間違いではなかったことをヨウは知った。
小田原・日暮宅。目の前には、これ以上ないほどに真剣な顔つきをした風来坊が一人。
いつものような軽い調子ではない雰囲気で、彼――前田慶次がこの家を訪れたのは、ほんの一〇分にも満たない前のことだ。話があるのだという。
慶次が真面目さを孕んでいたそのときから嫌な予感はしていた。ここしばらくの全国情勢はなんとも不安定だ。織田が活発に動き回ってあちこちで武将や国の蹂躙をおこなっている。聞けば、あの今川は織田の手によって既に討たれたのだとか。ヨウの良く知る武田や伊達、上杉は、その過激な行動を警戒してピリピリしたものを纏っている。
もちろん小田原も例外ではない。氏政は小心者ゆえに、国境や城周りの守りを固めていた。ヨウも頭を下げられて、あまり好みはしないが各警備に魔獣を配置することを許可している。その甲斐あってか、現時点、小田原は緊迫としつつもさほど以前とは変わらぬ平穏を享受することができていた。
――その上辺だけの平穏を、食い破る男がやってきたのだ、と、ヨウは思う。
「……力を貸して欲しいんだ」
重たい声音で慶次は告げた。
武田と上杉、伊達で、織田を包囲するのだという。これだけの脅威と相成ってしまっている魔王軍なのだ、ここで叩かずしていつ阻止すると。その包囲網に、慶次は保険として、魔獣使いの力を欲しているらしかった。
氏政にはすでに話を通してあるのだという。ただ。北条氏政は、「ヨウが是としたのであれば」とも言い含めたらしく、つまるところ、それに参戦するか否かは命令もなにもない、ヨウの意思次第だ。
織田包囲網。失敗すれば参戦者は皆殺しを免れない一発勝負だ。成功したとしても、織田に準ずるものからの恨みを買うだろう――一度頷いてしまえば最後、どのみちヨウはそのかぶり一つで小田原の未来をも左右してしまう羽目になりかねない。それは、避けたい。
「断る」
だから、返事は最初から決まっていた。
にも関わらず、慶次は食い下がる。頼むよ。お願いだ。この通り、と。
「――死にたくないんだよ、私」
嘆息して、堪えきれずにヨウは告白した。
「痛いのは嫌いだから」
「命を賭けてんのはみんな一緒だ」
「赤信号じゃないんだから……命を戦に賭けられることを、当然にできる人ばかりだと思わないで」
知っているだろうに。元来小田原の魔獣使いは、保身主義の臆病者だ。
その返事に、慶次は口をつぐんだ。そして俯き、ぽつりと、
「……悪かった」
まるで、私が悪者みたいだ。自重して、ああいや、その通りか、と思った。
「なんぢゃ。お主、風来坊に着いていかんかったのか」
「いや、行くわけないでしょう」
仕事のために小田原城に上がった折、作業部屋を訪れた城主は、魔獣使いを目にするなり開口一番にそう言った。わかっていたくせに。呆れた視線を向けると、氏政はむう、と唸って、それからまじまじとヨウを見る。
「……な、なんですか」
「や、のう。……儂に気を使ってくれんでもいいのぢゃぞ?」
「使ってません」
「むう。……ヨウのやりたいことを抑制するつもりはないのぢゃが」
やりたいこと、と言われて。
どうしてか脳裡に過ぎったのは、とある武将夫婦のことだった。異常なくらいに厚い正義感を持つ男。異様なくらいに重い恋情を持つ女。織田信長に利用されて翻弄されてその糸を断ち切られる、ただ純粋であっただけの大人二人。……彼らは、まだ、生きている。
しかしそこでいや、と内心かぶりを振った。私にはどうすることもできないと。
自身の台詞によって首をもたげたヨウの葛藤を見通してか、氏政は嬉しそうに口角を上げた。
「ほれ。思うところはあるんぢゃろうが」
「…………」
「まぁ一つ折檻するのであれば、よ。あまり老いぼれに気遣ってくれるでない。儂を誰だと思っておるのか」
北条氏政。もう日ノ本の優秀な人たちには、下手すれば期待はされていない、重ねた齢も過ぎる小田原の国主。そして――ヨウもよく知る、戦国武将の、一人。
魔獣使いの一人くらい、いなくても国は守れる――だってこれまでにも、そうしてきたのだから。言外に浸透しているその突き放すような意図を捕まえたヨウは、くちびるを噛み締めてのろのろと顔を上げる。氏政を睨みつけた。よくも見つけてくれたな、と。
「うむ。――さ、行ってこい。参戦国にも良き恩売りとなるぢゃろうて」
……完敗だった。
その日のうちに、ヨウは小田原をあとにする。
目指すは近江。織田軍が一人・浅井長政の統治する一国だ。貴殿には関係ないと言われるだろうか。敵国に何をと怒鳴られるだろうか。彼の妻は、どうしてと問いかけを繰り返し、そしてこれもすべて市のせいと自責に逃げてしまうだろうか。それでも構わないと思う。どれだけいらぬと拒まれようと、どれだけ痛む思いを抱えさせることになる加害者となろうと、そこにいるか否かを続けるのはヨウが決めることだ。……もう決めている。
守りたいものがある。命を賭けることはできない。死体になっている自分は想像できてしまうし、したくない。怖い。だがこの乱世では野に咲く花のようなそれは、ささやかではあるもののとても尊くて暖かいものだ。無関係であろうとも、その花が摘み取られるのは嫌だと既知を介して本音が言うのだからどうしようもあるまい。
日暮ヨウは、できることしかできない凡人である。
できることは、いつも彼女自身が選ぶのだ。
20160507
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