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「#寸止め」のBL小説を読む
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ててごお試し


 せっかく身繕った見合いを台無しにしおって、と父親は憤慨した。

「相手はあのエクバーグ家のご子息だったんだぞ!? 上手くいけば我が家にも莫大な利益をもたらす関係を結ぶことができたしコネクションもより広められたはずだ! それをお前は――っ聞いているのか!?」

 豊かな髭の下でふごふごと放っていた怒りの矛先は、彼の娘に向けられていたものだった。怒気をも込めて睨みつける。
 視線の先には、美麗なレースをふんだんに使った清潔なドレスに身を包む淑女がいた。齢は十代の後半か二十代の前半だろうと思われた。十人いる男が五人は振り向く美貌をしている。つんとすました顔に笑顔を咲かせれば、あと三人の男なら振り向くかもしれないくらいには整った容貌をしていた。
 聞いておりません、と娘はおのが親を眺めた。その瞳の奥には冷めきった諦観を携えて。

「お父様はお話をされていたのですか? ぎゃんぎゃんと子犬の方がましなように吼えられていたものですから、人の言葉ではない言語を叫んでおられるのかと思いました」

 冷淡に言い返してきた娘に、父親はかっと顔を赤くした。しかし湧き上がった衝動に任せてぶるぶると震える拳を娘に振るわないのは、彼に残っているちっちゃな理性が仕事をしたからだ。握ったそれで叩いたのは四足のテーブルだった。ドン! と派手に空気を鳴らして、感情のままに唾を飛ばした。机上のろうそくに灯る炎がゆらりと傾いた。

「っ、それが親に物を言う態度か!?」
「……嘆かわしい。淑やかさの欠片もない。お見合いはお断りして正解にございました。先方のためにもなりましたでしょう」
「何をっ……! お前はただ絵が描きたかっただけだろうが!?」
「否定は致しません。そうとも申します」
「いや、いいやそれだけだ! お前はそういうやつだ! くだらない! 絵が何の糧になる!? 一銭にもならないごみくずでしかない!」
「糧になるか否かは私が決めることです。お父様が断じることではありません」

 ぴしゃりと言い切り、娘は両開きの扉に手をかけた。

「待て! 話はまだ終わっていない! ラウィニア!」

 なおも大声を張る実父を、重い扉を閉めて拒む。重厚な空気をものともせずに歩み出すと、冷えた回廊に高いヒール音が高く響いた。


 ラウィニア・ドミニクは富豪の娘だ。貧困とは無縁の環境下で豊かさを注がれ育てられた。
 母親は幼い頃に亡くなったが、世話係は代わる様に豊潤な愛情をもって彼女に接した。何不自由なくとは正しく偽りなく、ラウィニアは心身ともに健やかで強気な女と成った。
 ラウィニア・ドミニクには悩みがあった。それは父親のことだ。ラウィニアがいい年を迎えたのを境に、何かとつけて彼女に結婚を迫るようになった。しまいにはラウィニアに無断で見合いを取り付ける始末だ。父親として最後のお節介を消化する傍らドミニク家の未来を想ってのことだと分かってはいる。しかしラウィニアにはその気がなかった。最近は父親と顔を合わせる度に無為な言い合いばかりだ。辟易はラウィニアのメンタルを少しずつだが確実に削ってもいた。
 ラウィニア・ドミニクには趣味がある。それは絵画だ。はじめは招待を受けた展覧会へ鑑賞のみで満足していたが、いつからかおのが手でも彩りを描きたいと思うようになった。手を出したのは油絵だ。のめり込むようにまたたくまに夢中になって描いた絵は、友人からは好評を得ている。先日は知り合いの紹介を受けて個展も開かせてもらったし、そこで絵を買いたいと提案されたときには飛び上るほどに嬉しかった。
 反して、彼女の父はラウィニアの趣味を快く思っていない。油絵具は匂いが強い。肌につくとなかなか取れないし、爪にでもつけばしつこく残る。女としての美しさが損なわれると思っているのだ。ラウィニアが油絵をするようになってから、父親は彼女への当たりが目に見えてきつくなった。

 そして、父親は娘のすべては理解できない。だから、分からない。知らないのだ。
 ラウィニア・ドミニクは人に想い焦がれたことがない――という致命的な欠陥に。

 ラウィニア・ドミニクとて夢を見る。どちらかと言えばロマンチストの部類だ。身を焦がすような恋を仰いだこともある。人を好いてみたいと思う。人を愛してみたいと思う。しかしどうしてかそれが生じないのなら、どうしようもない。彼女が絵画に没頭するのは、行き場がなく満ち足りない心をベクトルをキャンパスにぶつけているに過ぎないのかもしれなかった。
 いずれは父親の要求を飲んで結婚するのかもしれない。子どもを産んで、歳を取るのかもしれない。そしてついぞ恋という熱を知らぬまま、老いて死ぬ。と思っていた。

「お嬢様。お手紙が届いております」

 メイドから受け取った一通の手紙。送り主の欄には「エウリュディケ荘園」と書かれていた。
 それは招待状だった。エウリュディケ荘園でおこなわれるゲームに勝った者には、巨万の富が与えられるらしい。

「興味ないわね」

 はあと溜め息を吐いて手紙を破り捨てようと思ったラウィニアは、ふと思うことがあって紙を裂きかけた手を止める。
 どうしてそう思ったのかは、あとになって振り返っても分からない。だが確かにそうだと閃いたのと同時に、ラウィニアはそれをとても素晴らしいアイデアのようにも信じたのだ。

 金に興味はない。しかし。エウリュディケ荘園に赴けば、まだ見ぬ恋に出会えるのではなかろうか?


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