七月、某日。

「静雄。」
「あ?」
「アイス溶けてるよ。」

棒アイスから滴る水色の雫。
今にもぐずぐずになって溶け落ちてしまいそうなアイスを静雄はむっとした様子でぺろりと舐めた。
日照りは肌を焦がす程に強く眩しく、空の色は暑さのせいか、それともまだ朝のせいかとても薄く思える。蝉の声が聞こえる通学路。季節は夏真っ盛りだ。

「さっき買ったばっかだよな、それ。」
門田は頭にタオルをまき直して呟く。
「それだけ暑いってことだね。僕暑いの苦手なんだけどなぁ。」
「それはお前だけじゃないだろ。静雄も苦手みたいだし、俺も苦手だ。」

その言葉に新羅が改めて静雄を見てみると、眉間に皺を寄せて、あついあついとぶつぶつ呟きながら大変不機嫌そうな顔つきをしていた。苛々苛々。新羅は苦笑いを浮かべる。

「こんな異常気象とも言える暑さの学校に行くなんて、実に馬鹿げてるね。勉強なんて暑くてできるわけがないのにさぁ。」
そして臨也もまた、他の三人と同じように額に汗を浮かべて気だるげに歩いていた。それはもういつも涼しい顔をしている臨也の姿からは考えつかないくらいに。
その姿を見て、新羅も門田も久しぶりに臨也の人間らしい部分を見たような気がした。

「HRって何時からだ?」
「えっとー…、九時五分。」
「…やべぇぞ。もう九時だ」
「え!?」

新羅は大げさとも言える程驚き、そして急いで腕時計を見る。九時と数分が過ぎていた。これではもう遅刻が決まったようなものだ。その事実に門田もまた焦るが、臨也と静雄はまったく焦ることもなく、各々気にも止めていないようである。いや、静雄に関しては気づいてさえいない。
静雄にも知らせなければ。そう門田が考え、声をかけた瞬間、
「静雄…」
「ねぇ、俺に良い考えがあるんだけど。」

はたと三人は動きを止めた。
もちろん門田に呼ばれ、振り向いた静雄もだ。三人の瞳がゆっくりと臨也に集まる。そして、彼は口元で弧を描いて、愉しげに言った。

「みんなでさ、海に行かない?」
今から。

静雄の棒アイスが、ぐしゃりと地面に溶けて落ちた。




そこからは簡単だった。
その足で池袋駅まで向かい、千葉の海岸沿いをゴール地点に切符を買う。もちろん反対する者はいなかった。新羅はそういったところは不真面目だし、門田も躊躇いはあったもののしぶしぶ承諾した。静雄に至ってはこの暑さから逃れられるものなら、と目を輝かせていたくらいだ。
高校三年生、授業を放り出して四人で出かけた、堪らなく暑い夏の日。


「なんかわくわくするなぁ。」
「背徳的でかい?」
「かもしれない。」

臨也と新羅の少しずれた会話。躊躇いをつく門田。一人でぼんやり外を見ている静雄。そんな静雄を臨也がからかい、電車の中だと門田が宥め、新羅は楽しげに笑うのもいつもの光景である。顔立ちの良い男子高校生四人は電車の中でとても目立ったけれど、四人はそんなこと気にも止めない。
そして流れる景色は都会のそれから緑の木々、田畑に移り変わり、やがて広大な海になった。電車が駅に停車する度、だんだん潮風が香るようになってくる。松の気の群生が駅の向こうに見えた頃、四人は足軽に駅を降りた。

日照りはやはり強かったが、水場が近くにあると考えるだけでなんだか心が軽くなる。松の木が生い茂る道の土はすでに砂浜と同じような質感だった。潮風が、髪をすり抜ける。
海はもうすぐそこだ。

「暑い…早く海に入りたいや。」
新羅の言葉にふと静雄が顔をあげる。
「おい、俺たち水着ないぜ」
静雄がそう言うと一瞬新羅が絶望したような表情を見せるが、横から入ってきた臨也が言った。
「海の家で買えると思うよ。あ、シズちゃんお金足りるかい?立て替えてもいいけど…」
「ある。…いい。」

臨也にそんな世話になるなんて、静雄は嫌だと思い申し出を断る。なんだろう、この違和感は。そうだ。臨也はどうして自分にそんな言葉をかけてくれる?まるで優しさから生まれたそんな言葉、いつもなら…。
思考を巡らせた静雄の頭の中に、門田の声が響いた。

「おい、ついたぞ。」
はっとして意識を現実に向けると、視界に飛び込んできたものは限りない青だった。静雄はそのインパクトに驚き、立ち止まる。新羅は逆に水を得た魚のように砂浜を蹴散らして海へと向かっていった。制服のままでは入れないだろうに。
広大。そんな言葉が似合う景色だった。視界の端から端まで、すべてが青い。沖縄ほど澄んだ青ではないが、夏の海はどこか輝かしい美しさを持っていた。きらきらと太陽光が反射する水面が波に揺られている。空の青を鏡に映したみたいだ、と静雄は考えた。
「遊ぶか?」
ふいに新羅を見ていた門田が問いかけた。
だが臨也は肩をすくめて困ったように笑いながら返答する。
「いや。お腹がへったよ、昼食をとりたいな。」
なるほど、それは名案だ。と門田と静雄は心の中で考えた。


パシャッ。
眩しいフラッシュ音に、静雄は顔をしかめてラーメンを食べる手を止める。
「おい、何撮ってんだ。」
「セルティにお土産話と一緒に持ち帰ってあげるのさ!」
つくづくセルティのことばかり考える男だ。静雄は舌打ちをしてラーメンの汁を啜った。ふと気がつけば新羅も門田も、そして臨也さえもが昼食を食べて水着に着替え終えている。この海の家の食べ物は何かと手作りらしさが出ていて、静雄は嫌いじゃなかった。カレーライスも、ラーメンも、焼そばも、何だか母に作ってもらったような懐かしい味がする。両手を合わせて箸を置いた後に、静雄はゆっくり立ち上がった。そして水着を選ぶために売店までいくと、予想外に種類があるのに驚き、適当な赤の水着を手にとる。……これでいいか。静雄がそれを店の人に持って行こうとしたときだった。
ぐっ、と何かが自分の体を抱き締めて歩みを阻む感触がする。あ?なんだこれ。小さく呟き目を自分の腹に落とすと白い腕が組まれていた。
ひょこっと背後から顔を覗かせ、そいつは声を上げる。

「駄目だよ、赤なんてシズちゃんには全然合わない。」
その声の主が誰だかすぐに分かって、静雄は臨也の顔を凝視した。臨也は無表情のまま水着だけを見つめている。
「臨也!手前何して、」
「この明るい青も駄目。新羅にお揃いになるから。…そうだ、第一赤はドタチンと被るじゃんか。もしかしてドタチンとお揃いが良かった?」
臨也の腕に抱擁されながら、静雄は軽くもがいて返答した。
「…別に。色なんて何でもいいだろうが。」
その言葉に臨也は食いついてくる。
「俺は嫌だね。シズちゃんはせっかく金髪が綺麗で肌も白いんだから、似合う色がいい。」
「そ、そんなのお前のエゴだろ」
「あと日焼け止めも貸してあげるから塗りなよ?」
…静雄は傍若無人な臨也に呆れた溜め息をついた。もう勝手にすればいい。そう考えたところで、うん。これがいいね。なんて言って臨也が藍色の水着を店員に渡しているのを静雄は視界の端に映した。


「おお、やっと来たか。」
臨也と、水着に着替えて帰ってきた静雄を見て、門田はそう声をあげる。新羅はにこにこと笑いながら言った。
「海に入るの君たちの為に待ってたんだから。」
「待ってろなんて言ってねぇし」
静雄の言葉に新羅は肩をすくめる。
「まぁ、本当は四人で記念撮影したかったんだよ。」
さ、並んで並んで!
新羅のマイペースさに苦笑を漏らしつつも三人は横一列に並んだ。門田はカメラを見やるように。臨也は綺麗な笑みを浮かべて。静雄は仏頂面のまま。そしてタイマーボタンを押した新羅は、楽しそうに笑いながら。

ピ、ピ、ピピピ……
パシャ、とフラッシュがたかれた瞬間、彼らの一瞬の夏は小さなカメラに刻み込まれた。


その後は、四人でふざけながらたくさん泳ぎ、たくさん遊んだ。そのときばかりは四人とも何だか普通の高校生のようだったし、そんな気分を味わうことがあまり無い静雄でさえもそう感じることができた。
海に入るとひんやりした海水に浸かる体と、太陽光の熱に当てられる顔や首の温度差が避暑を感じさせる。暑さも海のおかげで和らぎ、静雄は終始穏やかな気持ちでいられた。しかし、彼の中で今日一日ずっと引っかかっている疑問は消えることがない。
静雄はさざ波がたつ砂浜と海との境界線に座りながら、ぼんやりと考えた。
なんだか今日一日、臨也が妙に優しい気がする。もちろんからかわれたりはしたけれど、そこまで不快感を煽られるものではなく………。……いや、そういえば、一年の頃に比べると臨也と自分の関係は徐々に柔らかくなっているのかもしれない。同じ空気を吸うのさえ嫌だったというのに、今では学校を共にサボって海で遊んでいる。自分は、あの頃より成長しているのだろうか。だとしたら嬉しい。

「何考えてるのかな。」
静かなテノールがさざ波のくすぐったい音と共に耳に滑り込んでくる。見れば臨也が顔を覗き込んでいた。
「関係ないだろ」
「気になるよ。」
「……それより海、綺麗だ。」
静雄ははぐらかすようにぽつりと呟く。その呟きを臨也は拾って、静かに言った。
「あぁ。綺麗。」
輝く水平線。海のたおやかな水面。それはまさに夏だった。どうしようもないくらいに夏で、海だった。
「来て良かったと思う?」
臨也が海を見ながらそう静雄に問いかける。静雄が臨也に目を向けても、臨也は海を見つめたままだった。静雄もまたゆっくり前を向いて、小さく返事をする。
「まぁな。」
その言葉に臨也がそうか、と返すと二人の間に沈黙が訪れた。
ふと気がつくと、臨也の手が静雄の手に重ねられていた。そこからは何の感情も伝わることがない。臨也が何を考えているか、静雄には分からなかった。そして臨也が何も言わなかったため静雄も何も言わなかった。しばらくそのまま二人は座っていたけれど、やがて臨也が静雄の手をとり立ち上がる。静雄も立ち上がると臨也はさざ波の中を歩き始めた。静雄は黙ってそれについていく。

「シズちゃん。」
臨也が静雄を呼んだ。
なんだよ、と静雄がぶっきらぼうな返事をすると、臨也は何かを言いかけて口を噤む。口元を幸せそうにほころばせて、臨也は言った。
「…なんでもないよ。」
臨也のその笑顔は静雄からは見えない。



門田と新羅はそんな二人の様子を遠くからそっと見ていた。二人もまた砂浜に座っていたが、パラソルの下でジュースを片手に涼んでいる。
門田は臨也と静雄の姿を見ながら言った。
「臨也、今日は妙に素直だな。」
「そうだね。…その理由、なんとなく分かるけど。」
笑みを漏らした新羅に門田がどんな理由なんだ?と問う。新羅は寂しそうに笑いながら話始めた。
「門田くんはさ、臨也が卒業したらすぐに新宿に引っ越すの知ってるよね?」
「あぁ。臨也から聞いたぜ。」
「それ静雄は知らないんだ。」
は?門田が目を丸くするのに新羅はくすりと笑った。
「そう。臨也は静雄にだけは話してないんだよ。何でだと思う?」
「…分かんねぇな。」
「……臨也はさ、静雄に嫌われるつもりなんだ。」
門田の訝しむような視線に新羅が弁解するように説明する。「静雄はこの三年間で臨也といろいろなことがあったけど、結局は今では慣れのせいなのか以前ほど臨也を毛嫌いすることはなくなった。静雄を好いている臨也からすれば朗報なはずだけど、実際は違った。臨也は怖くなったんだ。毛嫌いされていないことで静雄に依存していく自分が。静雄無しで生きられなくなりそうな自分自身が。」
新羅は夕焼け空を見上げた。金に染まった雲とオレンジの果てしない空は寂しさを滲ませている。
「だから臨也は静雄から逃げることにした。卒業式間近に静雄の自分に対する疑心や瞋恚の炎をたぎらせ、憎み、もう二度と自身の隣に立つことがないように彼は何かを仕掛けるよ。それがどんな内容だかは分からないけれど。臨也が一生一代で作る仕掛けだ、きっと残酷で悲しいものに決まっている。まんまと仕掛けにはまった静雄は臨也を嫌悪し憎むだろう。だがそれも覚悟の上。臨也はもう止まらないさ。」
仕掛けにはまった静雄は怒り狂う。そしてタイミング良く臨也が新宿に逃げてしまえば、臨也の勝ちだ。
門田は理解ができない、と言うように眉を寄せている。依存することをどうして恐れるんだ。愛することをどうして恐れるんだ。そんなことする必要ないはず。また卒業してもたまに遊んだり、飲み会だってしたり……。門田は四人でいることを存外気にいっていた。約束されていたはずの未来が無くなるような、寂しい気持ちが胸に湧き上がる。
「つまり、今日が臨也にとっての静雄に素直になれる最初で最後の日になるってこと。そして僕たちとの優しい思い出を残すことができる…最後の青春の日ってわけさ。」
新羅が目を細めてそう語るのに、門田はやり切れない気持ちで目を伏せた。
「お前は寂しくないのかよ」
「はは、僕だって寂しい。だって君達は僕に出来たはじめての友達なんだよ。いや、きっと最後の友達になるかもしれない。」
「…そんなこと言うな。」
「ううん。多分そうなる。だから門田くん、卒業してもたまには連絡してね。僕はセルティさえいればいいと思っていたけど、この三年間君達と過ごしたせいで少し寂しがりやになったみたいだから。」
「言うな。」
門田は厳しい声で新羅を制した。門田もまた、寂しいのだろう。悲しいのだろう。俯く門田の隣で新羅はそっと笑う。
「…ありがとう。」水平線の向こうに、夕日が沈もうとしていた。




臨也はアルバムをそっと閉じる。
真っ黒な新宿の彼の寝室の中で、そのアルバムだけが美しい海の色をしていた。中にはたくさんの思い出が詰まっている。海の写真や静雄がラーメンを食べている写真。門田が貝殻を見つけた写真。新羅がカニに指を挟まれている写真。…それは、新羅がカメラから現像してくれたものだった。
そしてそれらの内のある一枚の写真は、臨也の黒いベッドのそばの写真立てに飾られている。臨也が他人を自室に一切入れないおかげでそれはまだ臨也以外の人の目に触れたことがなかった。写真を見て、そっと指先でなぞる。

それは四人で撮った集合写真だった。
門田はカメラを見やるように。臨也は綺麗な笑みを浮かべて。静雄は仏頂面のまま。そして新羅は、楽しそうに笑いながら写っている。
一瞬の夏、最後の夏だった。堪らないくらい幸せだったあの頃を思って臨也は唇を噛み締める。そう、臨也が静雄に仕掛けた罠は成功したのだ。24歳になった今では、静雄は再び自分を毛嫌いし、憎悪の念をたぎらせている。臨也はベッドにぼふんと寝転がった。
これでいい。
これで良かったんだ。
静雄は自分を嫌い、自分も静雄を嫌う。何もかもこれで元通りだ。
それなのに、−−ーーそれなのに。

「………戻りたい。」

手で目を覆った臨也は、辛そうにそう呟いた。
その呟きは今となっては誰の胸にも届かない。
ただ、残酷なほどきらきらと輝くあの夏の思い出だけが、臨也の孤独を包み込むように、写真の中で息づいているだけだった。


Lost summer

(失われた夏。)


相互記念にアキさんに提出です。
これからもぜひ仲良くしてください(*´∀`*)
こんな作品ですが、どうぞ!









[戻る]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -