どうにかなってしまいそうなくらいに胸が苦しい。
心の中でわだかまっているものが今にも溢れ、そのまま瞳から透明の雫となって流れ出てしまいそうだ。


そんな、夜。
寂しいくらいに静かで、
吐いてしまいそうなくらいに生温い、春の夜。





「哀しいのかい?」


路地裏の、月の光さえも届かない最奥で臨也は静雄に問いかけた。
ビルの薄汚れた壁に寄りかかる静雄は口を噤んだまま何も答えない。暗闇の中、お互いの顔は見えないけれど、臨也はきっといつもの笑みを浮かべているのだろう、と静雄は考えた。

静雄の吐く煙草の煙りが彼自身の目の前で揺れるヴェールを作る。
けむいなんて、もう慣れた。
静雄はただぼんやりと宙を見つめるだけ。



「違うね。もしもその気持ちを君が哀しいと形容するのなら、それは大いなる間違いだ。」


臨也は闇の中で嗤う。



「恋しいんだろう?」
俺が。




そう言った臨也の声色は愉しげとしていた。そしてまた、その赤い瞳が愉悦に細まっているのに静雄は気がつく。


恋しい。
その言葉はあまりに静雄の気持ちにあてはまり過ぎていて、彼は内心嘲笑を浮かべた。



「汚れた想いだ」


静雄の感情のこもらない呟きを臨也は拾う。


「そうかな?」


「そうだ。」


「へぇ、俺はそうは思わない。……むしろもっと、どこまでも純粋な想いだと思うよ」


穏やかな声と優しい言葉。
…静雄は何度、この声を信じ、救われたような気持ちになっただろうか。
信じた途端に傷つけられて、優しくされたと思えば酷く嬲られる。


数年間続いてきたその堂々巡りに静雄の心はぼろぼろだ。
純粋な想い、だなんて。
どうせその次には心を傷つけられるのだから、鵜呑みにはできない。


だが、そんな反吐が出るような行為をする臨也に、静雄は文句を言うことができない。
何故ならそんな男を好いてしまったのは他でもない、…静雄自身なのだから。


静雄は小さく息をついた。

「嘘はもう聞き厭きた。」



しばしの静寂を破った静雄の声が、臨也の鼓膜を震わせる。
灰色の煙草の灰がぼろりと地面に落ちた。それを見た静雄は帯用灰皿に煙草を捨て、息をついて臨也を見据える。



「俺はお前が好きだぜ、癪だがな。その気持ちは今でも変わらない。
でもよ、臨也……俺はもう、疲れた。」



そう言った静雄の顔には微笑みがあった。どこか清々しいような、哀しい微笑み。
これが、臨也にとっての初めて自分に向けられた静雄の笑顔だった。
臨也はその事実に驚き、目を見張る。



「ぜんぶ終わりにしよう。お前との過去も、関係も、ぜんぶ。」



静雄は臨也にそう言い放った。
臨也は時が止まったように動かなかったが、やがて口端を吊り上げながら笑い、口を開く。



「逃げるのかい?俺から」

「そうだ。」


即答する静雄に臨也は眉を寄せた。


「いつからシズちゃんは俺から逃げるような腰抜けになったんだろうねぇ」


そんな挑発じみたことを口にしてみるが、臨也は内心それがどれだけ意味のないことか理解している。
言いながら、自嘲するように自分自身を鼻で笑った。



「違う、これは選択だ」

「………。」

「俺は、お前から逃げることで自分を守ることにした。そういう選択をしただけだ。お前がそうしたように」


静雄はそっと足を踏み出して臨也に歩み寄る。


「臨也、お前、俺のことを好きだと…恋しいと思ってくれているか?」


抑揚のない声が大気を震わせた。その問いかけに、臨也は口を噤んだまま何も答えようとしない。
静雄は哀しげに笑って言った。



「ほらな。お前は俺を好きじゃない。…それなら、この何も生まれない不毛な関係なんて、ぜんぶ壊しちまおうぜ」



それは、二人の関係を崩す魔法の言葉。
いいんだ、これで、と静雄は呟く。
もともと無理だったのだ。俺と臨也がつきあうなんて。長年続いた惰性のような恋愛。恋と呼ばれていたにしては、苦く、冷たい思い出ばかりが今では静雄の胸に置き去りになっている。



「恋しい、けれど臨也。哀しいのもまた事実なんだ」

だからすべてを終わりに。
もう俺は疲れてしまったから。









臨也は唇を薄く開き、短く息をついた。


「……シズちゃん、」

「臨也。」



臨也の語尾に被せるように、静雄は臨也の名前を呼ぶ。
そしてそのまま足を進めていけば、臨也の輪郭がぼんやりと見えるくらいまで彼に近づいた。
赤い、目が。微かな光を宿して静雄を見つめている。
それがなんだか息がつまりそうなくらいに苦しくて。
…どうして、こんなに息が辛いのだろう。そう考えた静雄はすぐに結論を見つけた。きっと、今夜が妙に温かいからだ。生温い風がするりと頬を撫ぜ、吹き抜けていく。
春の夜は気持ちの悪い風がよく吹くから、だからこんなに呼吸をするのが辛いのだろう。



「……ありがとうな。」
こんな茶番につきあってくれて。


静雄はそう言って臨也の横を通り抜けた。
早足で、早足で。

けして後ろは振り返らない。振り返ったら、何かが駄目になるような気がしたから。




細く、狭い路地裏を抜けていけば、だんだんと辺りが明るくなっていった。
月の光が射してきて、ネオンの光が絡みつく。
そして路地裏から一歩大通りに踏み出せば、都会の喧騒が静雄のことを包み込んだ。

せわしなく歩く人々。華やかに輝く電飾の光。濃紺の星一つない夜空。ぼんやりと光る月。


その世界に身を委ねてしまえば、先程までのことがなんだかすべて嘘のことだったように感じられる。臨也に別れを告げたことも、臨也と過ごした日々さえも、すべて。
…いや、もしかしたら最初からすべて夢だったのかもしれない。そんな風に思えてくるほど、今の静雄の目の前に広がる光景はどこまでも現実だった。


……本当に、好きだったけれど。
振り返っている暇はない。
静雄は歩く人々の流れに溶け込み家路についた。

池袋の街が、静雄のために爽やかな風を吹かせている。
それは先程までの春の生温い風とは打って変わったような透き通った風だ。その風が優しく体の中を吹き抜けていくと幾分か呼吸が楽になったような気がして、静雄は大きく息を吸い込み、心にわだかまった何かが解けていくのを感じながら、やがて瞳を閉じた。
















残された臨也は暗い路地裏の中、未だに動くことができずにいる。
顔は無表情のまま、けれどどこか寂しそうな後ろ姿がなんだかいたたまれない。そんな臨也の心は混沌とした気持ちでいっぱいだった。


高校生のときから臨也と静雄は恋愛的な意味でのつきあいを続けていた。その関係の始まりは、静雄の気持ちに気がついた臨也が、ある日ふいに言った一言。

“ねぇ、俺とつきあみようか”


それに静雄が頷いてから、彼らは今まで数年もの間ずっとつきあい続けてきた。勿論、臨也が静雄に愛を囁くことはしない。あくまで自分は静雄のことを何とも思っていない、執着しているのは静雄の方だ、という態度を崩さぬまま。

静雄は始めは理解できずにいた。
好きでもないならどうして臨也は俺とつきあったのだろう。
甘い行為は一度だってすることは無いし、俺のことを好きだという素振りも見せない。たまに優しくされることはあっても、すぐに臨也は態度を変えて冷たくあしらったりして。
それに女ならまだしも自分は男。同性で、しかも嫌悪感すら抱いているだろう自分にどうして臨也は………。
…その謎の答えに、数年たって静雄はやっと気がついたのだ。


臨也が、嘘をつき続けていたということに。





「ほんとは好きだって言えば良かったのか?」

高校生の時から恋をしていたのは俺の方だと。

「そう言えば、良かったっていうのか。」



臨也は目を伏せて誰に言うでもなくそう呟く。
静雄を傷つけることはせず、世の恋人がするようにただ純粋に彼を愛していれば、彼が自分の元から離れていくことはなかったのだろうか。
臨也には妙な自信があった。静雄が自分のもとから離れていくことはないだろうという絶対的な自信が。
しかし、あろうことか静雄は臨也に別れを告げた。それは臨也にとっての計算外。静雄が、“臨也が自分の中にあるプライドのせいで、本当の気持ちに嘘をつき続いている”ということに気づいてしまったことこそが、彼にとっての計算外だったのだ。


きっと、シズちゃんはもう戻ってこない。臨也は胸のどこかでそう勘づく。あれは決意の色を秘めた目をしていた。

それを嫌だと思っているところ、やはり自分は本当はあの男が好きだったのだろう。好き、だった。好きだったからこそ、傷つけることしかできなかった。認めてしまえばあとは墜ちていく一方な気がして。
つまるところ、俺はシズちゃんより自分のプライドを守ることを知らず知らずのうちに選んでいたのさ。それを識ってしまったから、シズちゃんは俺の元を去った。そしてそんなくだらない気持ちが招いた現実こそが今の俺。



「なんて滑稽なんだ」



失った途端に自分のしたことの重大さに気づく。
きっとこれは嘘をつき続けた報いなんだろう。




臨也は先程まで静雄が寄りかかっていた壁にそっと触れた。薄汚れた灰色の壁に、静雄の温もりは残らない。さっきまでここに、俺のそばにいたというのに。額をつけてみればひんやりとしたコンクリートの感触。それとは対照的な、池袋が吹かせている生温い風は臨也の呼吸を苦しくさせる。


空気を吸い込んでも吸い込んでも、酸素が足りないような気がしてならない。胸元を握りしめて何度も呼吸を繰り返す臨也を、月明かりが笑っている。
もしかしたら、胸が苦しいのは春の生温い風のせいだけではないのかもしれないな。
そう考えた臨也の瞼の裏を、笑顔を見せた静雄の残像が掠めていった。ツキン、と痛む胸の奥。

嘘なんかつかなければ良かった。本当は好きだと、そう言えば良かった。大切なものを失ってまで守り通したこのプライドも今ではただのガラクタに過ぎない。こんなゴミ屑なんてもういらないから、だからどうか、どうか嗚呼もう一度、




「……………シズちゃん。」




池袋の街は嘘つきに呼吸を許さない。





(恋しいんじゃない、ただ、愛しかっただけ。)



「愛し」となんか内容が被ったような気がするっていうね。