*美しい名前×臨静
*静雄part




気持ち悪い。

静雄は漂白されたように真っ白な病室に、吐き気を覚えた。

壁、天井、ベッド、シーツ、蛍光灯の光、臨也の肌。すべてが。部屋の中にあるものすべてが白くて。
真っ白な世界の中で不気味に響く断続的な機械音が、臨也の鼓動が動いていることを淡々と告げている。


静雄はベッドの側に置かれた椅子に腰掛けながら、眠る臨也の姿を見つめていた。胸いっぱいに押し寄せてくる不安や悲しみ、やり場のない怒りを抑えつけて、静雄は唇を強く、強く噛み締める。


泣いてしまいたいのに、一滴も零れない涙。
静雄は、泣くことができたのならどんなに楽だったろうか、と心の中で呟いた。



だがそんな混沌とした感情に呑み込まれている静雄に対して、眠る臨也は酷く穏やかな顔だ。
体中、あちこちに管をつけて昏睡しているのに、まるでただ少し疲れて一眠りしているだけのような………そんな、夢みたいな錯覚を覚えさせられてしまう。
しかし、“現実”は容赦なく、どこまでも現実である。


臨也が今、生死の境目をさまよっているのはどうしようもなく残酷な事実だった。


あぁ、どうしてこうなってしまったのだろうか。
静雄は俯きながらそう考える。

何故、こいつがこんな目にあった。
何故、俺じゃなくてこいつが。
いや…それより、何故こいつはあの時………………、


静雄は呼吸をするのも忘れて“あの時”の記憶に思いを馳せていった。











それは、雨の日。

雨粒に濡れた池袋の街を静雄はただ一人歩いていた。
トレードマークのバーテン服は、ぼろぼろ。あちこちが破け、裂けてしまっているのは先ほどの乱闘のせいだ。静雄に喧嘩を仕掛けてきたのは怖いもの知らずの不良少年達で、その数の多さに対し彼はいつも通り一人で戦った。
もちろん結果は言うまでもなく静雄の勝利だったが、体力が底をつきてしまい、彼の足元はおぼつかない。


そう。
珍しく、彼は疲れ果てていた。
おまけに雨は叩きつけるように降り注ぎ、いつもより少しばかりそれが痛く感じるものだからもの哀しい。




静雄は自分の体が濡れるのも気にせず、ぼんやりとした頭のまま歩き続けていた。
そして、ふと彼が濡れて色濃くなった金の髪をかきあげた瞬間……、



「……あ?」



前方の真っ黒な影を彼は視界にいれる。そして影が焦ったようにこちらに駆けてきているのに気がついて、首を傾げた。

なんだ?
鴉みたいに真っ黒い。
しかも、自分に向かって何かを叫んでいるようにも見える。

…静雄のサングラスは水滴で濡れそぼっていたため、その影の正体が何なのか彼にはわからなかったのだ。


そして静雄が影の正体に気づいた瞬間、彼の琥珀の瞳が弧を描く。


あれは、


「………………臨也?」





小さくそう呟くと、臨也は叫ぶように静雄を呼んだ。



「シズちゃん!!!」



必死な臨也の顔。
こんなこいつの顔は初めて見たなぁ、なんてそう静雄が考えた瞬間、臨也は静雄との距離をぐっと縮めて、静雄のことを真横に押しのける。

「!!!」


突き飛ばされるように押しのけられた静雄は体勢を崩し、尻餅をついた。

水溜まりがバシャン、と音をたてて水面を揺らす。



何すんだ手前!、と怒鳴ろうとするや否や、
静雄は目の前の光景に言葉を失った。






そこには臨也と見知らぬ男。
男の手には黒い柄のナイフが握られていて、その切っ先は臨也の腹部に入り込んでいる。
奥深くまで、しっかりと。


「……は、」




息をつくような声しか出ない。
ただただその光景が信じられなくて。

臨也が、刺された?

そう頭で認識した瞬間、男はナイフを地に捨てて逃げ出した。怯えたように顔を歪ませながら、バシャバシャと足で水溜まりを蹴散らして。


静雄は、動くことができない。


そして臨也の体は崩れ落ちた。
糸の切れた操り人形のように呆気なく倒れた臨也を静雄は凝視する。


すると、濡れた黒いアスファルトが段々と彼岸花のように赤い色に染まり始めた。臨也の腹部から、じわり、じわりと血が漏れ出ているのだ。


今や銀の刃すらも臨也の血で赤くなったナイフが、雨に打たれてひとり泣いている。
止むことを知らない雨。
落ちてくる雨粒は先ほどよりも酷く痛く感じた。


静雄の耳には、ノイズのように騒がしい雨の音が響き渡り思考を遮る。そして、その耳が救急車のサイレンの音を捉えるまで、彼は指先一つ動かすことができずに、雨の中で呆然としていた。















呪うべきは、誰だろうか。

静雄は真っ白な病室の中、ひとり考える。


俺なんかを庇った臨也か。
臨也を刺した男か。

いや、どれも違う。

本当に呪うべきなのは、脆弱な自分だ。

その答えは静雄にとって何だか世界で一番悲しい答えのように感じられた。
しかし、そのくせ病室の床に落ちる真っ黒い自分の影はちっとも悲しくなんかなくて、静雄は胸を抉られるような気持ちになる。



どうして、俺を庇ったんだろう。

そんな疑念が浮かんできたけれど、静雄は自分を嘲笑う。


どうして、なんて。
本当は、ずっと前から知っていたはずなのに。



「……いざや、」



擦れそうな声、縋るように吐き出された言葉は臨也に聞こえることもなく、ぞっとするほど虚しく響いた。
行き場を無くした言葉と想い。
それは四方から静雄の心を責め立てていく。


彼はふと自分の両手を見つめた。
いつだって、恐れられてきたこの力。使うべきときは、あのときだったんじゃないのか。


混沌とする想いの中、もしも魔法が使えたなら、と静雄は考える。


もし、もしも時計の針を戻す魔法が使えたのなら。
お前を助けたかった。
お前をこんな目にあわせたくなかった。



そして、あのナイフの切っ先が臨也の体では無く、俺のこの無力な両手を切り落とせば良かったのに、と彼は心から願う。


ただ、…救いたかったのだ。




静雄は自分の両手をぐっと力ませて、爪が食い込むほど拳を握り締めた。
震える拳を上げて、ベッドに叩きつけようとしたけれど、上がりかけたその拳はそっと臨也の手に重ねられる。



……………手、冷たいな。

自分の中でせめぎあう感情を抑えつけて、静雄はそう考えた。



思えば臨也の手に触れるなんて今までほとんどなかったかもしれない。
いや、自分から触れたことは一度だってなかった。

むこうが触れてくるのを静雄は意図的に避けていたのだ。理由は簡単。

怖かったから。

臨也が自分に向けてくる純粋で歪な想いが、静雄は怖かったから。
……静雄は、臨也が自分のことをずっと好いているのを知っている。そして臨也も静雄が自分の静雄に向ける想いに気づいていることを知っていた。

だがお互いがそれに気づいていても、二人はそれを口にすることは無く。むしろ静雄は臨也の気持ちを怖れ、彼を避けることでその想いから逃げていた。今まで…ずっと。





すると、突然臨也の手がぴくりと自分の手の上で震えたものだから、静雄は顔を勢いよく上げた。
臨也のことを焦って見れば、彼は変わらず穏やかな顔で眠っている。

臨也が動いた。
それが眠りの中の無意識な行為だわかっていながらも、静雄は息を止めて臨也の顔を見つめ続ける。


耳をかすめるのは、臨也の小さな呼吸音だけ。


白いその顔も変わらず無表情のまま。いつだって弧を描いていた口元も、今は動かない。


…………お前は、いつも笑っていたな。
静雄は心の中で呟く。
逃げるという形で臨也の気持ちを拒絶していた俺は、あいつをどれだけ傷つけただろう。

俺への想いや、拒絶されることの苦痛をその身の内に隠して、いつだって笑っていた臨也。ふいに脳裏に浮かぶ、彼の笑み。
口端を吊り上げて悪魔みたいに笑う彼の心情を考えた瞬間、静雄は初めて泣き出しそうになった。



「臨也……っ……」



堪らず名前を呼ぶが返事はない。

でも確かに感じるのは臨也の呼吸と自身の鼓動。
ちっぽけな真っ白な部屋。その部屋を中心に、世界は自分と臨也のためだけに回っているような気さえした。

それは二人ぼっちで。
互いの鼓動が聞こえるくらいの静寂の中、自分たちだけが取り残されているような。そんな感覚でもある。
だがそれは、世界が俺たちの為を思ってくれているからなのかもしれない。

だって、もしも時代も季節も社会も関係なく俺たちだけが世界に取り残されたのだとしたら、それは臨也と自分が二度と離れ離れになってしまわないようにと、二人だけの世界が与えられたということだから。


あぁ、もしも。
もしも、本当にそうなのだとすれば。


それは、なんて、
………………孤独なんだろうか。

静雄は嘲笑を浮かべた。




「臨也」



再び名前を呼ぶ。
しかし、返事はない。「なぁ、臨也」




先ほどよりも大きな声で名前を読んだ。
また、返事はない。


静雄は壊さないように、臨也の手を両手で握りながら、呟く。


「………………好き、だ」


今更だよな。
本当、馬鹿みてぇだ。




静雄が目を細めて笑うと、彼の頬を透明な涙が雨垂れのように伝った。

だが気にも止めず、静雄は臨也の名前を何度も呼ぶ。
何度も、何度も、何度も。

返事が帰ってくることを夢見て。
またいつものように臨也が笑うのを夢見て。


そして、臨也の気持ちと自分の気持ちに知らないふりをしていたことを懺悔しながら。


あぁ、そうだ。
これはきっと、俺への罰だ。




静雄はその声にたくさんの想いを混ぜながら名前を呼び続けた。




臨也、臨也、いざや。

何度だって。
何度だって呼ぶから、どうか目を覚ましてくれ。



「臨也っ…!」




縋るような声で名前を呼んだ瞬間、臨也の手が静雄の手を柔く握った。

静雄ははっとして顔を上げ、穏やかに微笑む。

臨也は瞳を閉じたまま、薄く唇を開いて、シズちゃん、と囁くように呟いた。




「臨也、」




名前を呼ぶと、自分の手を握る冷たい手に力が入る。
触れ合った箇所からじんわりと広がる温もりが、堪らなく愛しい。




「……なぁ、今更だけどよ。お前の名前、………」
すげえ、綺麗な名前なんだな。

…そう言いかけた唇は声を出すこともなく、閉じていった。


そんなことを言う前に、言わなければならないことがある。
ずっと、隠していた。
閉じ込めていた想いを、伝えなければならないから。





そして、やがて臨也は瞼を開く。








s

(もう、逃げ出さない。)






自分の文章力の無さに身が引きちぎれそうです。
リクエストありがとうございました。
そして、本当に申し訳ありませんでした…。