世の中の憎悪はウロボロスになって廻る。因果応報、という言葉は―人間が自分たちを戒めるために作られた故事だが、つまるところ、あれは一定の可能性を示しているのだ。憎悪は廻る。質量を保存したまま、いつまでもこの世に留まり続ける。私の中に、誰かの中に、私の中に。誰かを憎んでいない人間などいない。皆なにかしかをそう思っている。過去のなにかだったり親だったり友人だったり恋人だったり自分自身だったり、世界だったり、そしてそれは常に。常に一定の大きさを保つように出来ている。世界中のバランスごと。





つかれた、つかれた―――さすがに疲れた。22時間労働なんて言葉がぞっとしなくなってきた程度には、すっかり多すぎる仕事にも慣れてきた…らいいのだが、全然そんなことはない。まったくぐったりしていた。しかしとりあえず、連続していた公判も今日のあれで終わったし、全て資料も片付いた。ああやっと帰れる、こんなに遅くなってしまったけど―まだ終電には間に合うだろう、久しぶりにベッドでぐっすり眠れると思っただけでだいぶ心は沸き立った。私は、よいしょと立ち上がって、簡単に彼にメールを打つ。まだ仕事をしているのか、きちんと家に帰って眠っているのかは定かではないが、とりあえず自分はやっと帰れる、ということを。打ち終わって、ラップトップを閉じ、携帯をバッグにしまって―コートを羽織って部屋の電気を落としたところで、タイミングを計っていたかのように施錠していたはずの―あっやべ、忘れてたかも―ドアが開き、大きな窓の外の夜景しか明かりがない部屋の中に誰かが入ってきた。というのも、確認することもできなかったから、推測だけれども。私の首筋にはサプレッサー付きのハンドガンが押し付けられていた。「こちらを向かずに、バッグを落とせ。コートも脱ぐんだ」たぶん、男の声―「従わなければ発砲する」痛いくらい銃口を押し付けられる。まるで子供の脅しのような言葉にこめられた―何の温度も有していない、単純な殺意を感じ取って私は怯える。こいつらは遊びや酔狂で私に銃を向けてるわけではない、冷静で合理性のみを求めて淡々とすべきことをこなしているだけだ――バッグを下に落とすと、がちゃんとやたら重い音がした。コートから腕を抜くと、そちらはもっとずっと軽い音で落ちる。銃を向けている男ではない誰かが、それを速やかに拾い、おそらく中を調べているのだろう―小さく声を上げた。「携帯がありました」「データを移したら電源を切っておけ」…どうして、携帯なんだ?「最近の強盗は検事局の事務の個人情報を盗むの」今の今までまったく感情を見せなかった背後の男が、低く笑う。「そう俺達を馬鹿にするな、検事さん。俺はアンタの財布の中身に興味はないし、アンタが何者かもちゃんと知ってるよ」―「拘束しろ」冷たい声がして、がっちりと後ろ手に指錠がかけられた。更にその上に、手錠。「…ど、ういうこと?誘拐?なぜ、身代金なら―」「言っただろう、俺はアンタの財布になんて何の興味もない。アンタのパパの財布にもな」布を噛まされてかたく結ばれる。更に、後ろから首が―絞められる、というよりは、圧迫されている―意識を失うぎりぎりに、どうにか、左手のリングを右手の人差し指と中指で抜き、足の間から―天井まで届く判例と資料の収容棚と床の僅かな隙間に、投げた―ところで、意識が落ちた。




やっと帰れるよぉ、という旨のメールを受け取ったのは午後23時ほどで―私は自宅で、持ち帰った仕事を片付けていたところだった。終電がないなら迎えに出なければならないところだが、まだこの時間なら平気だろう―何より私も修羅場で、手を離すわけにはいかない。このところ立て込み続きで、忙しいのは彼女も私も同じだった。ため―気をつけて帰ってくるように、何かあれば連絡をという旨のみ返して私は仕事にかかった。集中してしまったら、そんななんてことない日常の出来事は簡単に頭から抜け落ちた。――――――日付が変わる。午前1時。2時。30分過ぎて―肩が凝ってしかたなく、一度立って腰を伸ばす―と、ラップトップの右下の時刻表示が目についた。もうこんな時間か。さすがに帰ってきただろうな、まさか羽目を外して泥酔なんてことはないといいが―と思って、自室を出てリビングに戻る。煌々と電気がついている、のはいいが、彼女が放り出しておくはずのバッグもコートもそこにはない。そんなに疲れていたのかと思い直し、寝室を覗いても、ベッドのシーツには一寸の乱れもない。ならば風呂で熟睡か―とバスルームを覗いても、そこは真っ暗で水の気配もなかった。違和感。リビングの犬はケージの中に伏せて、ぱたぱたと尾を振っている。…どういうことだ?一応ちらりと存在を確認するためだけに彼女の部屋を覗くが、やはり暗闇。玄関に彼女の仕事用のパンプスは無かった。帰って、いない―自室に戻って携帯を見ても新着メールは無い。時刻はもうすぐ午前3時を回ろうとしている。こんな時間に、帰ると言ったのに帰宅していないなんて――いや。もしかしたら、あの後急にやり残しが見つかったとかで、青くなって残業を続けているのかもしれない。…とにかく最近は、本当に忙しかったのだ。自分自身もかなり疲労していたし、冷静な判断ができていなかったといえばそれまでだった。私は何の根拠もなく楽観し、とりあえず、『帰れなくなったのなら知らせてくれ。いくら機嫌が悪くとも』とだけ打って、仕事の続きに戻った。


あの後必死で片付け、空が白んできたあたりでひと段落つき―ぐったりと机に伏せたまま仮眠をとっていたら、アラームで目が覚めた。いつも通りの、午前7時。重すぎる頭で、アラームを止め、そのまま何気なく画面のロックを解除すると―職場からと、糸鋸刑事の名前が着信履歴に合わせて二桁はいくのではないかというほど表示されていた。どういうことなのか、ぼんやり考えていたらけたたましく手の中でバイブレーションが鳴った。糸鋸刑事からの、着信――「私だ」「検事!御剣検事ィィィィ!よかったッス…ようやく連絡が、とれて――スイマセン、検事、すぐに!今、すぐに!検事局まで来てほしいッス!みんな、もー、大騒ぎッス!検事殿のことを待ってるッス!」「私を?どういうこと、」なのだ。と言う前に早々に電話は切れた。まったく、ほうれんそうの最初の段階で躓くことに定評がありすぎる男だ―と思いながら、ぐったりとしていた体を引き起こす。再び家を確認したが彼女が帰ってきた気配はやはりなかった。私は眠気を飛ばすために適当にシャワーを浴び、犬のケージを開け餌をやり水を変え、朝食を取る間もなく早々に出勤する。




「―――誘拐」



身体の力が疲労以外の何かで抜けきってしまいそうになった。まさしく検事局は上から下への大騒ぎ―刑事は私の周りをばたばたと走り回り、私が得た情報は―彼女が昨夜、この検事局内で拘束され、何者かに連れ去られた―ということだった。そして、犯人からの脅迫文が早朝この検事局に届けられたということ、その中には検事への―否、おそらく私に届けられるまでに善意の改ざんが行われたのだろう、正しくはこの御剣への―要求、かつて私が担当したある事件の現在服役中の被告を即刻釈放し、警察機構を使って追求の無い安全な脱出ルート及び資金を用意すること、さもなければ人質を殺害する。とありきたりかつ安定した威力の内容だった。――脳に力が入らない。顔をしかめたままそれをニラみつけている自分に刑事はおろおろと、「検事殿…」と呟く。「その、検事の今日の公判、代理申請が出てるッス。すぐに資料を引き継いでくれ、と―」その程度のことも、今、私は、浮かばなかった。「―あ、ああ。わかった。よしなに…その、そこにある。届けておいてくれないか」「了解ッス」刑事は出ていった。私は、今立っている自分の執務室が何故だか奇妙に縁の無い空間のように思えて仕方ない。誘拐。あれが?誘拐されるだと?…何故だ。考えられる可能性は、二つ―私の妻だから、もしくは彼女もまた私に近しい検事だから。これだけだ。脅迫状の内容から言って、私に関連していることは間違いあるまい。だから今日の公判さえ、さりげなく私は外されたのだ。厄介なことにならない内に。おそらく昨夜、ということは―少なくとも私があの最初のメールを受け取った後、この検事局内で拘束されたということはIDカードの入出記録で明らかになっている―つまり、本当にあの直後、だったのだ。どこでその暴虐が行われたかはいざ知らず。


「無事に引継ぎ、終わらせてきたッス!検事!」刑事がドアを暴風のような勢いで開き、帰ってくる。私は熟考に熟考を重ね―動くことにした。自分で捜査をするのは何も初めてではないし、少なくとも今日自分は何もさせてはもらえないだろう。下手したらこの建屋に軟禁されかねない勢いだ。「ありがとう。私はこれから捜査に入ることにする」「…え!しかし、みんな探し回ってるけどまだ何も手がかりは発見されてないらしいッスが―」「だとしてもだ。当の本人の私がこの騒ぎの中こんなところで大人しく寝ているわけにもいくまい」「いや、別にあれは御剣検事宛の脅迫なんかじゃ―あッ」「フン。理解していたことだ。忘れるものか、自分が担当した被告の名だぞ―――とにかく捜査に入る。君は自分の仕事に戻りたまえ」「…検事!自分もお手伝いするッス!どうせこの騒ぎで、一課は仕事にならないッス!何も問題はないッス!」私は予想はついていたものの、しかし驚いて刑事を見る。「…構わないが、いいのか、それで」「無論ッス。検事殿の手伝いがしたいのはトーゼンッスが、その、奥様が…自分も本当に、心配ッス。すぐにとっ捕まえてやるッス!」何の根拠もない空元気も、こういうときには必要なものだ。私は、わかった、と答えて―とりあえずは彼女の執務室に向かうことにする。



彼女の部屋は、意外なほど手がつけられていないように見えた。がたがたと崩れかけた資料と書類の小山がいくつか床に直置きになっている。上級検事の称号と部屋を与えられた者は皆、かなり好き勝手に自分の部屋に私物の調度を持ち込んでいるが―ほぼ彼女の執務室はデフォルトのまま、と言ってもいいだろう。まだ着任して比較的日が浅いのもあるが、たぶん性格のせいだ―それなので、調べるのは容易そうだった。「ここは当然もう捜査されたのだろう?」「はいッス。…あ、でも、やはり執務室は施錠されていた可能性が高いとか、そうでなければ示しがつかないとか…そういう理由で、パッパッとやって終了した、ってのが正しいッス」こんな時まで――この緊急事態でも――責任の在り処が最も大事なのだ、この組織は。私はウンザリしたが、これ以上喚く気も起きず、適当に彼女の机の上を調べる。散らばってるピルケースの中の錠剤はあくまで常識的な量で、かつ常識的な効用のもの―マーブルチョコの袋が未開封で置いてある―マグカップ、黒い薄型ラップトップ―開くとパスワードの入力画面だった。ここから先が調べられていることは、おそらくないだろう―でなければ此処に存在しているわけがない。小さめのライトで床のあたりを調べていた刑事が不審そうな声をあげた。「…お?」私は顔を上げる。「どうした、刑事」「いえ、今なんか光ったような…あ、何かあるッス……っ、と」這っていた刑事はその大きな体にはあまりに小さすぎるものを指でつまんで立ち上がった。「リング、ッスね。ほええ、ずいぶん綺麗な…内側になんか書いてあ………読めないッス」「それは…結婚指輪だな。内側のメッセージはドイツ語だ、無理もない…何故そんなものがここにある?」「うぇ?そりゃあ、奥様が落としたんじゃないッスか?」彼女は最後に会った、昨日の午後には間違いなくそれをつけていた。というより、毎日互いに何らかの義務が課されているようにつけてしまうから、と言ったほうが近いか―現に私も今つけている。彼女は落としたのだ。少なくとも午後から、誘拐されるまでの間に。



「何故落としたんだ?」刑事は、まるで質問の意図が理解できない、という顔で首を傾げた。「そりゃあ。うっかり落とした、とか。もしここで誘拐されたとしたなら、ビックリして暴れたりして抜けちゃったのかもしれないッス」「…違うな。かなり最近サイズを測って作ったものだ、うっかり落とすくらい緩いものではない。そして、あれは驚いて暴れて落とすような―そんな簡単に頭に血が上ってくれる女ではない。私でさえ出来ないのだ。他の人間ができるとは思えない」「ム、むむ…でも、わかんないッス!検事も一度奥様を誘拐してみたらいいッス、絶対驚くに決まってるッス!自分だってそんなことがあったら動転するに決まってるッス!」…私が彼女を誘拐して何になるというのだ。「それは、そうだろうな。どちらの可能性も完全に消すことはできない。が―」やはり私は、このリングに言い知れぬ不可解さを感じる。それはさながら、審理の中の―あの、違和感に似ている。この証拠品には何か隠された意図がある、という時の。「……わざと落とした、という可能性も。また、ある」「…そんなことして、何になるんッスか」「考えてみたまえ。君が私の妻で、いきなり誘拐されたとして―最初に気になるのは、何だ?」「そりゃあ御剣検事のこととか、自分はこれからどうなるんだとか、そういう…」「そうだ。私、だろう。最初によぎるのは、私だ。自惚れでなければな。ならば―彼女は何らかの方法で、探ったはずだ。相手がどれほど自分の情報を得ているのか」「ああ!つまり、自分が御剣検事の奥さんだってことがバレてないかってことッスか」「そこまで探れたかどうかはわからない。しかし、このリングは一つの可能性を示している。犯人は、少なくとも彼女が私の妻だということは知らない。それどころか、彼女が既婚だということさえおそらく―知らないだろう。こんなに年若くして結婚している公務員というものは、往々にして少ないものだ」「ちょ、なんでいきなりそうなるッスか?!少なくとも犯人は御剣検事への脅迫を目的として、奥様をさらったはずッス!捜査方針も完全にそれで固まってるッス!」


私は目前で、人差し指を振ってみせる。


「―だとしたら。何故こんなものが、ここにある?」「……えっ?」「刑事。先入観を捨てたまえ。先ほどの想像の続きだ―どうやら相手は、自分の身分をそこまで詳しくは知らないらしい。次に君がとる行動は、何だ?」「そりゃあ、知らないなら、自分の素性を隠すために―あ、…あああああッ!」「そうだ。何らかの手段を用いて、身分を証明してしまうようなものを出来る限り遠ざけようとするだろう。私と彼女は結婚してまださほど日が経っていない―上に、彼女はドライバーでないため免許証も持っていない、IDカードや職場関連のものは私と区別させる為に旧姓で登録されたままにしてある。調べられても恐らく大丈夫だ」「だから唯一、自分と検事を結び付けてしまうものを捨てた―そういうことッスね!さっすが、御剣検事ッス!カンペキな推理ッス!」刑事は興奮して顔を輝かせている。が、私はやはり、論理的にはこれ以上説明しきれない違和感を覚えていた。捨てた―捨てたのかもしれない。咄嗟の行動として。しかし、どうにも―あれがそこまで取り乱しがむしゃらに何かをする、という姿が想像できなかった。彼女はおそらく、私に何か、相手の状況を伝えるためのメッセージとして以上の何かを伝えようとしているのではないかと―これを通じて。そう思ってしまうのだ。「だとしたら、」「うム?」意識が逸れた。「だとしたら、一体何故犯人は奥様を狙ったッスかね?」


…それが、問題なのだ。これ以上はさすがに情報が少なすぎる。頭を抱えたくなりながら、考える―大変な深淵がぽっかり口を開けて私を待っている気がした。


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