記憶。



それは私にとっては単なるシーンの羅列にすぎない。ちょっとした解説つきの、フィルムが並んだミュージアムといってもいいかもしれない。いや、そんなにしっかりと管理はしていない。ミュージアムの、倉庫のようなものだ。解説が、主にのみわかるように単語のみで書かれて絵はずさんに積んである。大まかな年代しかわからない。それはまったく大切にはされていないし、誰も見に来ることはない。人はおろか、自分自身でさえ。そういうものなのだ。そこからどの絵が消えて、どこで新しいものが追加されたか、それさえ私は知らないし、それでいいと思っている。倉庫というのはそういうものだ。保存する場所。捨てがたいものを溜めていく場所。何故溜めるかもよく考えないまま、整理しようと思ったときには簡単に捨てることができる場所。



怜侍にとって、それは続いているものらしい。ある一瞬から、ずっと。彼のミュージアムには人が来る。私も入る。しかし彼は望んでいない。華々しい経歴を見て人々は手を叩いて賞賛する。しかし彼は表情を硬くして頷く。そうしてすっといなくなり、暗い倉庫に閉じこもってしまう。倉庫には彼が嫌いな絵しかない。人はそれを知らない。そんな倉庫があることさえ知らないかもしれない。でも彼はそこをある種、愛しているといってもいいほどに噛り付いている。ずっと、ずうっと。絵は一つだけ、彼が大嫌いな絵が一つだけ、重々しく座っている。それは彼を支配している。たとえば今、この瞬間のように。ふっと夜中に意味もなく目が覚めたとき、私は異変を感じ取る。たとえば明日が休みの入った土曜日だったりするときに。疲れているはずなのに、肉体だけが差異をキャッチして覚醒を促したのだ、と。案の定怜侍はいない。そういうとき、ただ彼は立っている。できるだけ狭い場所に。うちではキッチンだ―――、狭い場所に、立ち尽くしている。それしかできなくなってしまったんだ、という顔で、前に現れた私を見る。怜侍はかなしいほど言葉を知らない。自分がつらいと、くるしいと訴えかける言葉を。だからこうして立つしかない。あの瞬間と同じ、できるだけ狭くて暗い空間に。私は「お風呂に入ろう」と促してあげる。途方に暮れたようにしている怜侍は、何かやることを与えられて、ほっとしたように息をつく。



怜侍は暗闇が嫌いだ。完璧な暗闇は、睡眠のときだけでいいと信じている。だけど私は照明を点けずにお風呂に入れる。まだまだ夜明けには遠い夜中の暗い水場は静かで、暗闇を怖れる怜侍は私に縋らなければ動くこともできない。それでいい。私は暗闇はむしろ好ましい性質だから、何ら問題はない。普段照明をつけるのは本が読めないからであったり、シャンプーとリンスを取り違えるのが嫌だからという理由だけだ。明るい場所にはどうあがいても影ができるが、暗い場所には光が差す。そして光源を断てば、闇は死のように平等に一色の安寧になってくれる。そうして目が慣れると、まるで守るように包み込む。悪用する人間が多いだけで、闇はひどく損をしている―と思う、刃物と何ら変わりない。怜侍は私を抱え込んで張り付いている。恐ろしいのもあるが、酸素を取り入れて、息をしなければならないのだろう。熱すぎないお湯は穏やかだ。怜侍はいつも、このまま静かにしているときもあれば私を抱こうとしてくるときもあり、よくわからない。気がまぎれるならなんでもいいと思うが、私からは何もしない。何もできない、という方が正しい。彼のトラウマには既にもう終わりが作られてしまった。そうなると他人はいっぺんに無力になる。戦わなければいけないのは、彼だけだ――私が知っていることなんて、検事局で覗き見た資料の中の話のみだけど。凄惨かつ悲惨なそれは私の胸を傷つけたが、それ以上の結果はもたらさなかった。それでもやはり彼はそのトラウマを超えようと戦ってきたのだ、現に―私と結婚してから、こういう風になってしまう現場にはほぼ遭遇したことが無い。しかし、誘拐されてからは頻度が跳ね上がった。いつもそうだ。だから、PTSDに気をつけなければいけないのは、私ではなく彼なのだ―――私の記憶には価値が無い。良いものも悪いものも私は切り捨て燃やすことを繰り返している。既にもう過去になったら最後、どんな恐怖も倉庫の闇に等しく包まれる運命で―しかし彼はそうではない。悪い記憶は大事にされる。ある種彼にとってのミュージアムは倉庫なのだ。むしろ彼にとっての倉庫はその、人々が手を叩いて賞賛する豪奢に飾り付けられた美しいホールなのであって。



肩に埋められた怜侍の唇から舌が伸びる。肌を削るみたいに。胸に長い指がめりこんでいく。「恐ろしくないのか、君は。暗いのに」「怖くないよ。暗いところはむしろ、好き」あんな目にあったというのに、という意図の溜息が項をくすぐった。「多くの人間が怖れるものが、君は怖ろしくないのか。…強いな」「そんなことは…っ、ない。期待してないだけで」胸の先を指の腹が刺激して、私の喉からは息が漏れる。襲ってくるなにかがくるしくて。「たくさんのものに期待してないの。だからなんてことない何もかもが楽しいし、何もかも大事にできる」怜侍ははっきり今度は笑った。息を吐いて。「―子供だな」そうだ。誰が動じない私を、大人なんて呼ぶんだろう―そんなものは子供の処世術なのだ。"大人びた"子供の価値観、だと思う―でもそれは自分の身に染みて、抜けていってくれない。私の絶望は身体の内側にたっぷりと溜まっていて、喉元まで支配している。「無知ゆえに勇敢な子供そのものだ」私は少しでも自分の息に媚びた意思が乗らないように唇をかむ。流れるように怜侍の手は私の太股を撫でる。「でも、」息を吸う。「怜侍がくるしいのは、期待しているせいだと思う」長い指が私の膣口を緩ませる―「そうかもしれない」かもしれない、と怜侍に使われると、まるでなだめられているような気分になる。いつまでも対等に話してもらえていないように感じる。「時々」絶望したような、怜侍の澄んだ綺麗な声。



「子供のまま閉じ込められているような気分になる」



あの箱の中に。父の死体しかない暗闇の中に、と呆然とした状況説明が続く。私はときどき、自分は子供のまま体ばかり大人になってしまうんじゃないかと思うときがある。父は私におかしな欲望を抱かない。母は父に対して優しさを暴走させない。そういう遥か遠くに確かに存在していた過不足無い場所に、永遠に取り残されている気がする。面白いものだ――私にとってそれは都合のよい子供の目から見た大人の痛みを知らない幸福の中だというのに、子供の彼が幽閉されているのは痛みと苦しみと恐怖とむなしさの中だ。この人は不器用で、誠実すぎる――嫌なことなんて都合よく改変して生きればいいのに。みんなそうしているのに。「…、わた、しも」そうだよ、と言おうとした言葉は飲み込む。怜侍の指は浅く私の中をさする。私は息を長く吐いて、怜侍の首に額を擦り付ける。「だから、探しにいってあげる」私は少しだけ笑う。おそらくそこでは時が止まっている。改変は起こらない。ここではないどこか、というだけで、おそらく過去でも未来でもない切り離されたどこかなのだ。そしておそらくそれは簡単に繋がることができる。「たぶん、助けられない、けど」私は快感でたまに本当に息が苦しくなり、泣きたくなるときが―ある、切なくて泣き喚きたくなるときが。快楽は私の体に慣れない。成れない。ただ、なれない。いつまでも。「一緒に閉じ込められてあげる」



私は暗闇は怖くないのだ。



彼が黙って私の耳を、かむ。「正直者だな」そうして舌で耳の表面をなでまわす。私は小さい怜侍を知らない。怜侍も小さい私は知らない。それでも後に出会った結果、私達は出会わなかった瞬間を結ぶことができる。私達はお互いに―自分を慰めるのが本当に下手だから、そうするほかにない、きっと。「あそこに君がくるのなら」ぐぷ、とにぶい水音をたてて怜侍の指がずっと奥まで乱暴に入り込む。「君だけはせめて守りたいものだ―」しょうもないひとだ、と―私はやっぱり優しさに泣きそうになる。どこでもないどこかの、わたしでないわたしになにかできるわけないのに。だから私はあなたを助けにはいけないのに、共に閉じ込められることしか出来ないのに。それでも怜侍はそういう生き物なのだ。それがおそらく彼の流儀なのだ。彼が怖れる暗闇を私が怖れないように、彼は誰かの救済を私と違って、怖れない。




somewhere in the dark
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