ふわりと身体が浮き、降り立ったところはエレベーターの中だった。男が二人。少年一人。なんてことない風景だが、暗闇と静寂に包まれていてそこは異様な空気を保っていた。思わず唾を呑む。夢に干渉するとき、夢の中の人物は当事者しか私の姿が見えない。どれが怜侍なのだろう、ときょろりと辺りを見渡しても、誰も私に目を向けなかった。……おかしい。「…怜侍?」呼んでみる。すると一人の男に抱かれるようにしている子供が私を見上げるように見た。―――こ、これが、怜侍だというのだろうか。「だ…だれ…」か細い息苦しそうな声で私に問う。「私は――」普段ならハッキリと自己紹介してしまうのだが、今日はすこし趣が違う。簡単に言ってみせることもできそうにはない。「…おなまえ。あなたはここで、何をしているの?」「………僕たちは、閉じ込められているんです」不思議だろう。私がここにいることも、その私にこんなことを説明しなければいけないことも。私は頷き、隣りに座った。夜闇を見通す眼のおかげで私は暗闇の中でも動き回ることができるが、彼はそうはいかない。そっと取った手は震えている。――なるほど。


つまり怜侍はなんらかの事情でエレベーターに閉じ込められたのだろう。…それがこの死の夢の、原因?それにしてはあまりに――と思ってじっとしていたら、二人の男は争い始めた。どうやら空気の奪い合いのよう。いくらなんでもエレベーターで酸欠はありえない――つまり集団パニックの一つだろう。人間は精神までも、脆すぎる。私はその様をじっと見つめていたが、怜侍は過剰にそれに怯えはじめた。息を震わせ、蹲っていた身体を引き起こし、私の手を払って地面に落ちている何かを拾った。「……おとうさんに」何が起こるんだろう、何が…何を、まさか――思い立った時にはもう遅かった。「触るなッ!!」何かが飛んで行った。何かは確かに何かに当たり、そこでごごごと大きな音を立てて空間が歪み始めた。覚醒が近づいている。いや、弾き出そうとしているのだ。異物である私は秩序に見つかってしまった。「待っ、怜、侍――」怜侍の手をもう一度取ろうとしたところで、地の底から響き渡るような長い長い男の悲鳴が音の奔流となって溢れ出して流しにかかる。その声の中で怜侍は再び、倒れてしまう。再び私の肢体に鎖が絡みつき、引き上げていく。今度の鎖はちぎれない。強い強い、拒絶の意志―――これ以上自分の記憶に触れるなという、頑なな意志に阻まれて私は怜侍のベッドに戻ってくる。


―――冷や汗。


が、噴き出していた。あれは、なんだ?…父親との記憶?怜侍、の?……わからない。寒気がする。恐怖を具現化させたような、最後の悲鳴が頭の中に反響し続けている。思わず自分の体を掻き抱いた。間違いなくあれは悪魔の声だった。私のような健全なものではなく、正真正銘、人の恐怖や苦しみ、憎しみや痛みを餌にして生きる悪魔の声。あれが――怜侍の夢の正体だったとしたら。私は本当に、何もできなくなってしまう。自分より高次の存在に、魔族は逆らうことができない。ますます厄介なことになった、と私はため息をつく。どうりでこんなに入るだけでも力を使うわけだ。あの重苦しい空気、今でも呼吸を阻害する。怜侍は眉間にシワを寄せながらうなされはしないものの、そんな表情で横たわっている。あんなものに毎晩毎晩、憑りつかれて――大丈夫な人間の気が知れない。私は怜侍の頬に手を滑らせた。う、と一つ呻いて怜侍は身体を震わせる。これ以上私が干渉して、彼を無事でいさせる自信はなかった。無茶な介入の仕方をしたせいで、ただでさえ穏便でなく追い出されてきたのだから。…ただ、もし。私があの悪魔に立ち向かうことができたら。力を使って、立ち向かうのだとしたらますます危険だった。今度こそ私は彼の夢を壊してしまうだろう。大切な、その人間を構成する記憶としっかり結びついているこの夢を。


どうすれば、いいんだろう。…触れた怜侍の頬は冷えていた。苦しそうに眉をひそめ、息を吐いている。絶望的なほどに静かだ。彼の眠気を妨げるようなものはなにもない。私の瞳だけが、居場所をなくして震えていた。私は床に立つ。自分の足で。羽を広げる。側頭部からはねじれた一対の角が生え、犬歯は口に納まらない大きさにまで伸びていく。―――見て。怜侍。私はこういう生き物なの。何も身に着けてない身体でも、その姿は人間と呼ぶには程遠い。こんなにあなたと違う。それでもあなたに愛されたいと、希ってしまうの。どうしよう?どうすればいい?…どうしたらあなたを、救えるの?私は立ち尽くして眠る怜侍を見ていた。伸ばした尾を揺らし、彼に跨るように座ればあまりに『それらしい』自分に笑みが零れた。無抵抗な、眠りに落ちた人間を喰らおうとする夢魔。私達はこうでなければ、いけないのだろうか。こうする以外の未来は、有り得ないのだろうか。怜侍に被さり、目を閉じる。――とにかく考えなければ。彼が、私達魔族から放たれる方法を。




「おはよう」



よく眠れたか、と怜侍が私の頭をぽんぽんと叩いたところで私は目を開ける。「起きたまえ、朝食を食べよう」多少眠そうではあるものの何の変哲もない、どうということはなさそうな表情を見てひどく胸が痛んだ。ああ、この人にとってはあの悪魔の夢は日常なのだ。少しずつ喰われていくことも、また。「あ…あのね」身を起こし、着替えようとベッドから出る怜侍に向かって呟く。「夢のこと…なん、だけど」「夢?」「ん、…怜侍の夢のこと」「……何故君が、私の夢のことを?」私は言葉を濁す。「え、いや、ええと…な、なにかずいぶんうなされてたみたいだから気になったの。それだけ」苦し紛れにも程があったが、怜侍には案外効果があったようで、顔を曇らせ「…煩かったか」と静かに言う。私は面食らって、「や、そんなことはないけど――」「いいんだ。すまないな、君には話していなかったか。私は夢見が酷く悪いんだ、だから…」「あ、あのね、全然気にしてないから。怜侍が苦しそうなのなんてちっとも気にしてないっていうか――」「…とにかく、起きよう」降ろされる。やはり、彼にとっては触れてほしくないものだったのだろう。夢の詳細さえ教えたくない、といった体でてきぱきと着替えていくのを見ながら私はため息をついた。


「怜侍」



私は冷たく、発音する。「何だ」「私は夢魔なの」「そうだったな。私は信じていないが」「でも、夢魔なの」貴方の夢は見せてもらった、と私は言う。「―――殺されたのはお父さんなの」愕然とした顔で、怜侍が私を見た。着替える手は止まっていた。「…答えて」ああ、私はなんと愚かなことを。「…何故君が私の夢の内容を知っている?」「だから、夢魔なの。あなたの夢は見せてもらった」「…どういうことだ。説明したまえ」「そのままの意味。怜侍が見ていた夢に入っただけ――」「何故そんなことをした!」怜侍が声を荒げ、私は身体を竦ませる。「君は…入った、のか。知ったんだな?…あの中で、何が起きたか…」ぎゅっと怜侍が拳を握って呻いた。私は静かに、「見た。…それでね、聞いたの。怜侍の夢の中で、悪魔の声を。あれのせいで怜侍はきっと――」「悪魔などという非科学的な物ではない、あれは私だ。私が犯した、罪のキオクだ」「違う!あれはあなたを喰らおうとする悪魔が」「そんなわけがないッ!」――決定的だった。怜侍は信じることはなかった。第三者の存在を。あの記憶の現場に存在する、人間以外の物の存在を。


ゆっくりと身体を起こす。「…私を」「見て」昨夜、あなたに見てもらおうとしたように。私はゆっくり羽を、角を、伸ばす。尾を緩め、瞳を見開く。赤い虹彩が光を孕む。犬歯が尖って唇から溢れ出す。「…これがわたし」彼は立ち尽くしていた。信じられないものを見るような目で、私を見ている。もう、おしまい。全部おしまいだ。私の瞳からは涙が染み出す。「ねえ、ちゃんと見て。人間じゃない私を。どれだけ願っても、そうあれない私を。あなたを苦しませる魔族としての私を」そっと怜侍の手を取る。温かい手。私を守ってくれようとした手。私を抱きしめて、触れて、愛してくれた手。独りぼっちの私から、孤独を拭い去った手。「触って」声が震える。「本物だから」怜侍の手はそっと、私を宥めるように確かめるように角を撫でた。翼に触れた。「あなたは魔族に愛されすぎた」涙で潰れそうになる。「だから、こんなことになって」



「ごめんなさい」


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