―してやられた。今日も、だ。やはり被告人は無罪だった。悪意あるその友人にかく乱され、利用されたにすぎない無実の人間だった。またしてもそれを救ったのはあの青く調子のいい弁護士で、めでたく私は恥を晒し―こうして検事局に帰ってきたわけだ。とはいっても、疲労さえしているが、自分が間違いを犯さなかったという安堵の方が大きい。やはり私一人では真実の追究には限界がある。新しい視点と意見、そして立証は己の道の糧になることだろう。刑事達が私に軽い労いの挨拶と次の審理、事件の資料をどんどん預け―ああ目まぐるしく今日も明日も私はこうして同じようで一つとして一致しない日々を生きていくのだろう「御剣検事、……その、奥様が執務室でお待ちです」奴がおとなしく家で待機したのは2日。たった2日だ。仕事中毒が。「何故だッ!同僚とはいえ許可なく私の執務室に人を入れるな!」「いえ、今日はあくまで検事殿の身内としての訪問だと」「…ならば一般人ではないか。エントランスより先には入れないはずだ」「まあ…その辺はほら、自分らにとっては上司なんで。御剣検事もご存知の通り」「どっちだというのか、はっきりしろッ!」スイマセン、と怯える今年から入った哀れな新人を怒鳴りつけ、自分の執務室に入ると―「おかえりぃ」楽しそうにチェスボードを弄り回す妻―後輩―同僚―検事―なんと表現すべきなのかわからないが、とにかく彼女がいた。



「…キサマの仕事は何も、無い」「別に仕事しにきたわけじゃないもん。ミルフィーユ作ったから、差し入れ」むすっと憤慨したように頬を膨らませたまま顎で机を指す。そこにはなんとも色気の無い―タッパーと、私のティーセットで、勝手に一杯紅茶を飲んだ跡があった。出勤してから―午後、今の時間まで裁判所にすし詰めだったせいか、彼女の声と、紅茶の匂いと自分の執務室という環境で力がどっと抜けた。家に帰ってきたような気分になる。溜息をついて上着を脱ぎ、資料を机の上に置いていく。「わざわざ私が帰ってくるまで待っていなくてもよかったのだが。それに、帰宅してからでも充分だったのでは―」「わたしがここにいるの、やだった?」紅茶を入れて―はっとして後ろを見ても、彼女は冷徹なほど無表情で、こんこんと駒の位置を弄っている。「嫌ではない。が、その。気になるだろう?急に来られたら」彼女はぴたりと手をとめ、つかつかとソファに向かって歩き、すとんと座った。「………。一人で家にいたらね、なんとなく怜侍に会いたくなって、…だから」小さな声で、彼女がぽつぽつと、言う。ぼっと私はその意味に顔に熱が集まるのを感じたが、至って冷静に紅茶を作り、彼女に手渡してやる。「連絡をしてくれ。部下が驚くだろう」「ごめん。最初はほんとに、自分の執務室の整理でもしてすぐ帰ろうと思ったの。けど、当たり前みたいに怜侍の部屋に入れられちゃって、その」ちゃらちゃらと彼女が罰が悪そうに手の中の、例のブキミな警察のマスコットと愛らしい国民的有名アニメの黄色いキャラクターのキーホルダーがついた鍵を弄る。………あの新人、記念すべき初任給によほど傷をつけられたいらしい。


「でも、会えてよかった。これ頂いたら帰ろうかな」へへっと嬉しそうに彼女は屈託なく笑い、薄手のティーカップに口をつける。―いつ見てもなんというか、大抵の場合それを見せないがこの所作には彼女の品と育ちの良さが凝縮されていると思う―「帰るのか?」「うん」「…無理は言わないが、終業まで待って夕食は外で、というのは―車で送ってやれる」「…………うーん。迷惑じゃない?」「気になるなら、君はし損ねた執務室の整理でもしているといい」「む、そうかそうか。それならいいかな」私が席に座り、タッパーを開くと―倒されてはいるものの綺麗な層になった苺のミルフィーユが見え、ちらちらと彼女がこちらを窺う気配がする。同封されていた小さな銀のフォークでそれを崩して食べる―という私の姿を―ちらちらどころではなく、じっくりとティーカップを抱えたまま彼女は凝視して―「ム…、美味しい」「よかったー」にこにこ笑う。ほっとしたように、楽しそうに。「君は料理が上手いな」「時間があればね、大体のことはできるよ」「……優秀だな」私が口元だけで笑うと、彼女は愛らしい微笑みを引っ込め、目だけをきゅうと細めて私を見る。酷く挑発的に。


「また負けたんだ?」


あのアンクルストラップ付きの、黒いエナメルのパンプス―ヒールが細く、高すぎないが威圧的な音がする―しかし彼女が履くとふわふわとした独特の歩き方のせいで滑るように音が鳴らない、鳴るのは意図的に法廷で床を蹴って音をたてる時だけだ。の、音が、かつんと一度だけして、次の足音はなく彼女が飲みかけのカップを私の机に戻しにくる。「何故わかった」「資料のコピー読んじゃった。で、ツッコまれるだろうところも、わかったから」「『実際の犯行時刻に彼女の姿をはっきりと見た目撃者はいない』」「そう、更にその上の今朝の日付の資料、いきなり飛び込みで浮上した急な証人。それも被告人と同じゼミのお友達、怪しすぎるよね」「…まあ、概ね、君が予想する通りの展開だった。その友人は自分のアリバイ工作及び被告人に罪をなすりつけるために―あろうことか自分は善意の目撃者と称して、図々しくも出廷したわけだ」「ふふふ」彼女は笑って、声だけで笑って―すとんと床にだらしなく膝をつき、私の机に肘をついてタッパーの中に転がっている苺をつまんで、零れているカスタードクリームをすくって口に放り込んだ。「どっちもぶち込んじゃえばよかったのに」


こういう時の彼女の声や表情は、まったく情というものを孕まない。メイの、教育が故の犯罪者をきりきり締め上げるあの冷酷さとは違う、事も無げに埃を払うような、うるさい小蝿を親指と人差し指の先端だけであっけなく捻り潰すような人を人とも思わない態度。「だってさ、証言調書、見ててうんざりした。よくこんなの弁護士も真面目にやるね。被告人、被害者の不倫相手だったんでしょ?それももう一年もずっと」「まあ…ありがちな話だ。痴情のモツレ、というやつだろう。目撃証人は被害者に恋心を抱いていたようだ」彼女の、綺麗に磨かれ、透明のエナメルが塗られた親指の爪が白く光を反射する。その上にはりついたカスタードクリームを、赤い舌先が削り落とすように舐めた。「被告人は手を出してないだけで、全ての原因なのにね。馬鹿みたい」「…だが少なくとも、殺人は犯していない。殺人罪で裁かれるべきでない人間だ」「だとしても、ここで彼女をぶち込んでおくことでおそらく彼女のゼミ周りの多くの人間が溜飲を下げるし、今後この大学で悲しい事件はおきないと思うけどね」猫のような瞳は切れ味鋭い光を宿したまま、私を見た。「…だとしても、だ。君のそういった意見は過激すぎるし、罪と罰の大きさは常に一致していなければならない。一分の過不足もなく。足りないことがあってはならないのと同じように、過ぎた罰を与えることも、決してしてはならない。法は我々の為だけに存在しているわけではないのだ」


彼女は優秀だ。こと隙の無い証言の誘導による審理の流れの掌握は、ある種の支配と呼んでも差し支えない。が、やはり、こうして向き合うと、ちょうど今の彼女と同い年だった―初めての法廷に誇らしげに立っていた、若い自分を思い出すのも確かだった。己の正義に何の疑問も持たず―自らを正義の使者と疑わず―ただがむしゃらに、自分が引きずり出した悪人を裁く日々―を。そして彼女も同じような考え方に陥っているのだろうということも。彼女は憮然とした表情ではあるものの、一応当時の私よりは頑固のレベルが少々低いので、聞く耳程度は―持つだろう。その証拠に、決して声を荒げて反論はしてこない。ただ、やはり納得いかないといった表情で私を見つめるだけだ。「おひとよし」「…………反証がそれだけなら、これにて閉廷とするが」「じゃあ閉廷したし、本音をどうぞ」「本件の被告人は今後、被害者のほぼ絶縁状態だった妻によって―民事の法廷において法外な量の慰謝料を請求されることが予想される」ぷっと彼女がふきだした。耐え切れない、というように。「民事じゃ王子様も助けてくれないねえ」…その辺り、まさかとは思うが、もしあの弁護士がそこまで想定して動けていたのだとしたら…ぞっとしない話だ。




「じゃあ、ええと、終わる時間に駐車場でいい?」彼女がしゃらりと手首を返して時計を見る。「うム。何も君がやることなどないとは思うが―くれぐれも、仕事は」「しません。整理だけして帰ります」「新人を騙してコッソリと溜め込んだり―」「し、な、い!糸鋸刑事が二度とつまづかない程度には、かたしておきます!それくらい頑張ったら絶対もう真夜中だよ」「よろしい。君の部屋で怪我をされても恐らく労災は下りないだろう、部下のフトコロを想うなら励みたまえ」「…ほんと、いい性格してるなあ、こういうとこ」彼女はすっくと立ち上がり、スカートを直す。私も連れ立って、部屋のドアまで送ると、彼女はふと立ち止まって私を見る。長い髪が揺れて、さらりと表情が見えた。…笑っている?と、気づいた瞬間に首に腕が回され、引き寄せられて唇が重ねられた。ほんの一瞬。「あとでね」悠々とした余裕の笑み。や―や、やられたッ!またしても、今度はアレに―してやられた。バタンと軽い音を立ててあっという間に彼女は消える。私だけが唇に手をあてて、また顔を赤らめている。…処女かッ! 仕事ではないためか少しばかり刺激的な、甘い香水の匂いが彼女がいなくなったところで効力を持ち始めた。ぐ、ぐゥゥッ…



ふとチェスボードの上を見ると駒の配置が大きく変わっている。青のポーンを追い詰めていたはずの赤のナイトは、盤際に、たった一人の赤のクイーンによって哀れにも追い詰められていた。


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