きっちりと鏡の中の瞳の曲線に沿って漆黒を這わそうとしたところで、ふと気が付いて別のアイライナーに手を伸ばす。いつもの癖でつい、やってしまった―軽く舌打ちをすれば一気に張りつめていた気も和らいでしまう。今日はオフ、もっと言えば少しばかり特殊なオフなのだからもう少し雰囲気を変えた方がいいんだろうな、と思いながらそんなふざけたことを考える自分を恥じる。最近の自分はまったく腑抜けているし、少し前には想像さえできなかったような女になってしまったと言わざるを得ない。黒ではなくダークブラウンのそれを取り、先程とは打って変わった力の抜け切った自分の瞳を見ながら遠くにシャワーの音を聞く。濡れている自分の頭は気にならないわけではない、艶を保つためにも早く乾かすべきだというのはよくわかっているが気もそぞろという表現がもっとも近い。眠い、のとは違う―ただ迫りくる記憶がある。昨夜の熱を持った蜜のような感触と言葉が喉に耳に絡みついて離れてくれない。うっかりすれば瞳は潤み始めるし、唇はほんの少し色づく。恥ずかしくなっててきぱきと済ましてしまおう、と気を取り直して再び私は自分を睨みつける。


ずっとこういうことは自分のためにしてきた。美しくありたいと願うのはただ、自分が醜いまま縮こまって生きるなんて御免だという少々曲がった根性ゆえに、ということはわかっていたしそうじゃないもののためにこんなことしてる人の気も知れなかった。どんなことだって、結局は自分のためにしているときちんと知っておかないと碌なことにならない――のだから。が、どうやら世界はそう簡単には姿を現してくれないらしい。現に私は夢うつつで私ではない誰かのことばかり考えながらこんなことをしている。どうしてしまったというのだろう?厄介な精神の病だと今ここで相槌を打たれたらきっと私は納得して医者に行くだろう。もちろんそんなわけがないし私のこんな独白をうっかり誰かに聞かれたりしたら恥ずかしくて爆発したくなる。恥ずかしい、ことだ――そう本当に恥ずかしい。彼は私に恥をかかせるために存在してるんじゃないかと時々心から、思う。未だに消えないのはあの硬い胸と腕と、乱暴に掴まれるとはっとするくらい大きい手と、欲とそれだけでないなにかで濡れた声が紡ぐ私への、その、―――マスカラがぼろりと固まって睫毛の中ほどにこびりついたのを機に私は今朝からカウントしても既にたっぷり5回はかましたため息をつく。まるで集中できない。



「おなまえ?…………、まだ裸なのか、君は」



驚きに驚いて私は探っていたポーチを落としかけ立てていた片膝は危うくテーブルにぶつけかけた、いや少しぶつけた。「な、び、っくりした…えっあ、出たなら出たって言ってよ…」「出たも何も音でわかるだろう、ドライヤーまで使っていたんだぞ」「ええ、そうだったっけ…?全然わかんなかった」これっぽっちも、という言葉は飲み込んで私がやっと顔を上げると呆れた顔でソファに座った上半身裸の怜侍とばっちり目が合う。「は?!なななんて格好してんの!着て!!」「今この瞬間君に最も言われたくないことを言われるとは思っていなかった…君が着たまえ!私は何も問題ないだろう!」「わ、私だって別にほら…背中のバスタオルと膝で見えないしなんにも問題ないから!」さっきの私に勝るとも劣らない勢いでため息をついて怜侍はドライヤーを脱衣所まで取りに戻りさっさと私の背後に立つ。「髪もまだ濡れている」「うっ…」丁寧に自分の髪がかけっぱなしのタオルに包まれ、労るように揉まれながら私はたいへん恥ずかしいままなんとか手だけは動かすことにする。「順序が逆だろう。きちんと髪を乾かし、服を着てから化粧をしなさい」「……はやく、顔だけは、なんとかしたいなって…」「なぜ?」怜侍は至って冷たく返しつつ淡々とブラシを優しく通しながら熱風を当て始めた。「あんまり怜侍に見られたくない」「ご苦労なことだ。君の顔など見てもいないというのに」「…………そう、だね」まあ、そりゃあ私がどれだけこんな細かいところ頑張ったって彼にとってはどうってことないよなあと鏡を覗きながら思ったらかなしいほど胸は痛む。「起きたら君は既に風呂場だぞ、見る間もなかった」それがあまりに子供が拗ねたような声だったものだから、私は自分の勘違いも含めて笑った。「一緒に入りたかったの?」「…………多少、期待していた」


冗談のつもりだった。


音もない衝撃に私は固まっていたが怜侍はてきぱきと私よりもずっと丁寧にそして要領よく私の髪をブローしていき、「あ、ああ、それはごめん、なさい」「…さっきから、何だその反応は。私がそれほど見苦しいなら振舞いを考えるが」苛立ったような声で呟く。私はううと黙るのが精いっぱいになってしまう。「なるほど、否定しないということはつまり」「べ―べつにそうじゃなくてただ、怜侍が裸だと、恥ずかしい…ん…です…それだけです…」「…は?な、何を言っているんだ君は。そんなに裸眼は悪いのか?」全然違うわこのクソ鈍感野郎という言葉は必死で喉奥に押し込めつつ私は鼻から息を吐く。「あんまり見てない、から」「やはり視力が―」「そうじゃなくて!見られないの…あの、あんまり、恥ずかしいから」なんてこと言わせんだろうと憤慨すれば今度は怜侍が面食らったような声を出した。「おなまえでも恥ずかしいことがあるとは驚いたな」「人をなんだと思ってるのあなたは…まあ、そうですね人の裸もとっくに見慣れて動じない怜侍さんには想像もつかないでしょうね」「な、なっ……君こそもう少し察したらどうだ、何の為に私がこうしてわざわざこちらに回ったと思っているんだ」ハァ?と私が全部使っていた道具をポーチに納め振り向くと怜侍は真っ赤な顔でドライヤーを切り距離を取る。「…恥じらえッ!そしていいか、服から着る癖を付けろ、今日からだ!」「だ…だって服着る前には下着があるじゃん!進まないでしょ!」「それこそ何だっていいではないか…」「全ッ然なんだってよくない!あ…それなら怜侍が選んでくれたらすぐ決まる…けど…」「私が悪かった、それは勘弁してくれ」言うんじゃなかった、といったオーラをひしひしと纏いながら怜侍は真っ赤になった顔のまま額を手で覆う。



「……着て、きます…」


何とも言えない空気になり、かつ明らかに悪いのは私だったので早々に私は立ち尽くす怜侍をあまり見ないようにバスタオルをきちんとストールのように身体に巻き付けこそこそと自分の部屋に向かう。…しかし、いつからこんな爆弾みたいな人になっちゃったんだろう。私にはさっぱりわからない。最初は、そうだ最初は――もっと堅くて、強固で、決まった場所から動けない人だと思っていたし、だからこそ私は自分で安心していたのに。そういう人間では決して自分は支配できないと思っていた。むしろ私が喰ってやろうって、それでいっぱい色んな事してきたはずなのに――ただ、思い出すのは。ぺたりとドアを閉めた部屋の床に座り込む。すぐに脳内の映像が蘇る。私の綺麗に乾かされた髪が肩をくすぐる度に、そこで鳥肌が湧く度に波のように押し寄せてくる。縋りたいけど爪を食い込ませるのが怖くて、背には必死にまさぐるように滑らすことしかできなかった指を―怜侍に無理矢理取られてシーツに縫い付けられたときの強すぎる感触と、そのあと耳に落とされ続けた言葉が熱になってただ私の皮膚の下を蝕む。苛みに、かかる。私の心の一番弱いところに、どうしてあの人は簡単に入り込むんだろう?今まで誰にも決して侵されなかった場所を両手で掬うみたいにまるごと、素手で、ぴったりと下から覆ってしまう。自分の息が震えるのがわかる。「可愛い、おなまえ」泣いてしまう、泣くしか私はこれほどの大きさの感情の扱い方をしらない、身震いするほどの歓喜と―恐怖と、快感とあときっと「好きだ」あなたへの、愛情、で。



どう責任を取らせればいいんだろう。ストッキングに足を通しながら私はまた意識をほんのり宙に浮かせてしまう。そしてそういうときに限って怜侍が控えめに部屋をノックし、少しだけ顔をのぞかせ遠慮がちに部屋に身体を滑り込ませる。「………、おなまえ」「あ…ごめん、遅かった?」「い、いや…」私は立ち上がりスカートをひらりと慣らすと、「じゃあどうしたの?」きちんともう服を着て、準備は終わっているからたぶんずっとのろまな私を何も言わず待ってくれているのだろう優しい人を見る。「…言いすぎた。その…すまない」何のことかわからなかったので私は気にせずフレグランスを膝裏に、胸元に軽く吹きかけ手首を返してブレスレットを巻き出すと怜侍はするりと手首を包みそのカニカンを先に止めてしまう。仕事のときよりは幾分か穏やかな怜侍の匂いが、ただ自分の鼻にそっと届く。「怒っているのか」「…なにに謝ってるのかわからなくて」「いや、だから少し言いすぎたのではないか、と」「なにを?」何を言っているのだ、と怜侍は鼻白むように息を呑み「さっきのことだ」と苦しげに言う。私はふふふ、と声を出して笑いながら否定する。どうだっていいんだそんなことは。「そんなことどうでもいい」「…ならば」ならば君は何をそんなに心に留めている?なんだろう。なんだろうね。怜侍が、私を―ただ私を、


「許さないから」「…は?」もう、ぜったいに。覚悟しておくといい、私達は普通じゃない。私達は先に夫婦になってしまったから、迎えるべき一つの愛における目標が無いのだ。たった一度だけかけることが許されているブレーキを失ったまま坂を滑って行かなくてはならない。私達にそれは、ない。私はそっと怜侍に抱きつく。私はこの人をいつからこんなに失いたくないと思ったんだろう。いつからここまで、失った先の世界を想像できなくなったんだろう。初めての人なんて覚えてない。でも最後の人は、私からこうして世界を奪い去って、いま少しだけ驚いたまま抱きしめ返しもせずに立っている。「……そっちの件に関しては、許さない」私は呟いて、ただぎゅうと手に力を籠める。震える吐息に気づいてほしくないと願いを込めて。「わたし、も」溺れるほど囁かれた言葉が熱をもつ。永遠に消えない力をもって、私の存在を塗り替えてしまう。昨夜抱かれながら泣き出してしまったせいで一度も返せなかった言葉を必死に、搾り落とす。「私も好き」怜侍が力を抜いたのが、わかる。


そっと私の腰に腕が回り、頭に掌が降りてきた。「愛してる」ただの五音が私の五指を五感を、支配する。



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