(シリーズ初見の方は一緒に〜から読まれることを推奨します)





―――王子様だ、と。



それだけ、思ったのを覚えている。私にとってその儀式はあくまでも遠いもので、夢というよりはチョコレートの屋根とビスケットの壁、しましまキャンディの窓枠を持ったぴかぴかの家みたいな、そんなものでしかなかった。だから私が白いドレスを着て、指輪を通され、永遠を誓い、ヴェールを上げられて相手を見る――なんて、そのファンシーな家に住む鉤鼻にしわくちゃの顔、ぼろぼろの黒いローブを着た魔女にスープにされて食べられるかもしれない、といった想像に等しい。それらは一つの物語として一貫性を持つが、一般的に現実的な想像をすることは不可能に近いということ。お菓子の家には蟻が貪るようにたかるだろうし、日本に鉤鼻の老女が存在する確率は人種的に考えて低い。結婚は誰かしら、何かしらに向け提出する熱病の診断書にすぎないと――ひとつとして厳かに並んだ長椅子に人影が無い教会のヴァージン・ロードを歩みながら思う。この場が神と神の代行者と当事者しかいない神の家ということは、本当に誓いのように思える。誰に向けてでもない、ただ、私達だけに浸透する、神様との交信。私は恐れていた。私はこの相手を愛してない。おそらく彼も、同様に私を愛してない。おぞましいことだ―いつか罰が当たるだろう。永遠の愛も、夫婦として生まれ変わる喜びもなく、ただ、私が思ったことは、白いタキシードを着て佇み―私の手を取る彼はまるで王子様だ、ということだけだった。私がたぶん、きっと、小さい頃から夢見ていたデウス・エクス・マキナとしての王子様だ、と。




「綺麗だった」



そして戻ってきたホテルでそんなことを真面目くさって言うものだから、私はうんざりして、ベッドの上でおそらく手配した会社から届けられていたのであろう氷に埋められていたシャンパンをこじ開けてテーブルに置かれるこの世の終わりのように仰々しく盛られたフルーツ籠を拾い上げた。「そういうのは結構です」「世辞だと思うか?」先輩はグラスを二つ持って私の隣りに座り、私の手からボトルを掠め取った挙句丁寧にそれを注ぎ勝手に飲んでしまった。「…それはもう、全力で」「…………君が、そう思うなら、それで結構、だが。率直に言って、君は白が似合う。そして、化粧がおそろしく下手だ」かつてこんなに絶望的で初歩的な会話をこなしたカップルが、全新婚初夜のどこにも存在しないことを私は心から願っている。「私は黒が好きなので。あと、ああいう顔は、落ち着きません。嘗められます」「ならば裸になり、どこにも手を付けずにいるといい。十分だ」「…あの、それって」もしかして。褒めてるんですか、と私が鈍いスパークリングを含んだアルコールを流し入れた低い声で問うと、似たような湿った声で彼は至極当然といった体で答える。「当然だろう」


いくらなんでもまずかったかな、と私はなんだか目の前がくらくらしてばかばかしい艶麗さのマスカットを剥いて口に放り込む。「わたし御剣先輩って、もっと女に気の利いたこと言える人だと思ってました。数分前まで」「…君は不幸だな、本当に人を見る目がない。そして訂正しておこう、おなまえ。君ももう御剣だ」私が気恥ずかしくて唇を噛むと、先輩は表情一つ変えずに訝しげに目を細めて私を見た。「………あと、わたし、バスローブでホテルのベッドに二人で座りながら飲んでて、『裸の方が綺麗だ』と言われたのにこんなに帰りたい気持ちでいっぱいなのは初めてです」「私もだ。恐ろしいほど、何の義務感も、湧かない」ここまで女性的尊厳を完膚なきまでに踏み荒らしていく言葉を選べるのは才能だろう。私は黄金色に泡を吹く祝いの酒を酷く苦々しい気持ちで飲み下しながらもう一つの葡萄の房から粒をもぎ取り噛み砕く。「―私とする気、ないんですか」「ない」「……腹、たつなあ。なんとしてもやらせたくなります」「君が望むなら、こなそう。応じられる範囲で」私は鼻を鳴らした。「冗談でしょう。男にお願いしてセックスさせるなんて、尊厳に関わる」先輩も同じように鼻を鳴らす。「つくづく貧しいプライドだ」


そこで私が跳ねるようにして先輩に乗ると、先輩は大人しく押し倒されながらシャンパンが零れないよう綺麗に角度をキープした。ので、私はそこを掴んで先輩の濡れた髪がはりつく額と頭にグラスの中身を残らずぶち撒け、空になったそれを優しくシーツに向かって投げる。先輩は顔をしかめた。「飲みかけだ」「続きを飲めるとでも」「そうだな。子供を寝かせた後に、一人で飲むべきだった」―本当に、どうして、このひとはこんなに私を愚弄するんだろう。どこまでも、どこまでも。保護する手段にこんなものを用いて、私が纏う全ての鎧を嘲笑い、最後の存在意義さえ今、こうして踏みつけて。いったい何がしたいんだろう。「……バカにしてるんですか、先輩」「…おなまえ。順序が、逆だ。君こそ私を馬鹿にしているのか。君がそんな態度でいる限り、私は検事局にいるものだと思って過ごすしかない」先輩はいちいちこんなことを言わせるんじゃない、とでも言いたげにため息をつく。腕組みを許していれば人差し指が定期的に上下していたに違いない。「…なんて、呼んで、ほしいんです…、の」「夫の名も忘れたか?」「…れいじ、」さん。と呼んだら嫌になるほど子供じみた気持ちになったので、怜侍、と私が吐き棄てるように言えば怜侍はひとつ眉間の皺を減らして私の頭を撫でた。「いい子だ、おなまえ」私は憮然としたまま身体から力を抜く。座っている怜侍のおなかは、厚くかたい。


「いいか」そして彼の手には力が籠る。「君がこういった手段で私に何かを伝えようとする限り、私はそれに決して、応じない。言葉を使うことだ、君は動物でも幼児でもない」「動物にならなきゃ相手に伝えられないような気持ちを抱えたことはないんだ?」「…ない。だが、君がそこまでの想いを少々尊敬する先輩に抱いているとは思えない」怜侍はいっそ私が喉を震わせたくなるかのような冷たい色をその瞳に宿し、その息に乗せ、簡単に腹筋だけで身体を跳ね起こし鼻と鼻がぶつかりそうになるほど顔を寄せた。「君は私が好きなわけでも、なんでもない」頭にやさしく乗っていた手は顎を強引に掴み、私は息をわずかに呑む。「愛しているどころの話ではない。君はただ、自分の哲学に、自分の流儀に相手が従わないことに躍起になっているだけだ。たったそれだけの為に、こんなバカげた行為に出る」私は一度瞬き、至近距離から涙がちのその濃く暗い灰の瞳をまっすぐに貫き返す。「―それはあなたもだ、怜侍。あなたもただ、自分の信条にのっとって対話がしたいだけでしょう。世界の誰ともない誰かが決めて、世界の多くがなんとなく同意する正しいルールを、私たちの間に持ち出して」怜侍の濡れすぎた前髪からは、祝宴の美酒がまるで不思議な色として生まれ出で滴り落ちる。「――そうだ。だが、それは私が人生を賭けても守りたい概念だ。人に根付いた、人を護る、人を裁くことができるただ一つの発想だ。それを自分の行動原理にすることが、そんなに可笑しなことか?……人を馬鹿にしているのは、君だ。君の方だ。ずっと」


私は自分の瞳が震えるのがわかった。何故かはわからない。きっと何かを訴えたい、何かを伝えたいのに言葉をどうしても引きずり出せない時、まるで泣く寸前のように瞳と唇はただ痙攣するしかなくなる。「―じゃあ」、「どうして私と結婚なんて、したの」何故そんなことを、おそらく彼の最も大切なものを確実に共有できないだろう私と、なぜ。「君を守りたかったからだ」私は笑ってしまった。「なにそれ」「…そう、思ったんだ。ただ。それだけを考えていた」「順序、は?」「好きになってから、そう思うべきだろうと?」「そう」「…おなまえ、君は」私はばかみたいに泣きたかった。そしてそれは怜侍だっておそらく同じで、冷たい切れ長の瞳はただ私を見てすこしだけ歪んだ。「私に愛してほしいのか」喉が焼けそうに、怒りと苦しさと惨めさで熱くなり、私は二の句もつなげない。「…ならば」「やめて」泣くよりもか細く自分の声が震えていたから、私も怜侍も本当に驚いただろうと思う。「そんな風に愛されたくない」同情をもって、憐憫と共に。ほんのわずかの熱さえもなく、言葉だけを滑り落とされたくない。「…勘違いを、するな。誓ったことだが、君は私の妻で、私は君の夫だ。それだけのことだ。いいかね、だから―」そっと怜侍の両腕が私を背から腰からぐっと引き寄せ、胸に押し付ける。「傍に、いる。そこからだ。…そこからだ、おなまえ」



――――それは王子様だった。


おそらくそれは、かつての人が与えた発想、としての。救済としての。あるいは夢としての。そしてただ一つの、悲劇を腐った根ごと引き抜く力を持つ都合の良い神としての。私達はただ抱き合っていた。たぶんそのまま力尽きて眠った。森に捨てられ道に迷った兄妹のように、もしくは毒林檎に侵された姫の死体に寄り添う王子のように、して。それは確かに始まりだった。正しい眠り方を忘れてしまった私達に訪れる、長い長い抗いがたい快楽に満ちた午睡の。歪な二つの破片は結び、一つを構成する小さなピースに蘇る。


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