私がとった選択は、やはり、どうせどちらに転んでも嫌なことが起きるというならばせめて、原因を取り除ける方にしようというものだった。なんとも、ばかばかしい―好きなひとの悪夢の原因を殺してやりたいから開錠の力を貸してほしいなんてことを言ったら、にんまり笑われて、向こう10年はからかわれて、それをネタにこき使われること間違いない相手だけど、ほかに頼れそうな相手もいないし、仕方ない。私は適当な服を見繕い、仕事に行ってしまった怜侍のマンションからするすると出て、きちんと電車に乗り、目的の場所の最寄りで降りてひらひらと滑るようにルブタンの二通りの意味でバカ高いレッドソールで歩いていく(ほんのすこし浮いて歩けるというのは、実にまったく便利なことだ)が、こうしていても別に誰が振り向いたり、引っかかるわけでもない、まったく人間並の容姿だと思う――構うことはないのだが、せめて淫魔なんて場所に据えるくらいならうんと美形に作り直してくれたっていいのに、と残念になる。それでも老化とは縁のない身体にはなったわけだから、血まみれになってでもそれを保とうとした先人に言わせれば贅沢言うなってとこなのかもしれない。と、余計なことを考えていたら目指していたビルを通り過ぎるところだった。私は瞬きをして足を止め、階層案内を確認するとガラス張りのドアをくぐる。




「真宵ちゃん?それとも――」


がちゃん、とドアを開けて「こんにちは」と言ったら、ソファに怠そうに座って山積みの資料を拾って朝っぱらからうんざりしている上着を脱いだホワイトカラーの男が、顔も上げずにそう言うから、私は「わたし」とだけ言ってこてん、と顔を横に倒す。髪がひら、と顔にかかるのと男がこちらを見るのはちょうど同じ瞬間で、更に男はじゅうぶんうんざりしていたというのにげんなり、というレベルの嫌そうな表情へと変わる。「…しばらく見てないと思ったら」「そっちだって全然見なかった、好都合だったけど」「色々事情があるんだよ、これでも。…遊びに来たなら帰ってくれないかな」これである。私は腕を組んでむうっと膨れ、男は、成歩堂龍一―というのがこの男の名前なのだが、まあ、成歩堂は目も合わせずにそれでも窓際までブラインドを絞りにいく。「ずいぶん曇ってるから大丈夫だよ、じゃないと朝から出たりしないし」「―そうだっけ?もうしばらくあれを呼び戻してないから程度を忘れたんだ」「…呆れた、まさか見てなかった間ずっとこんなにまともぶって暮らしてたの?」「それはきみには関係ないことだろ。…で、なに?」



私はつかつか奥まで歩き、ごちゃごちゃのデスクの上にすとんと座る。「…その、仕事の、依頼」「………弁護?」であってほしい、という気持ちがたっぷりと込められた顔で、ブラインドから漏れる微々たる陽光に目を細めながら成歩堂は低い声で問い、私は静かに首を振る。「どうしても夢に入りたい人がいるの」「相手は」「それはあなたには関係ない。で、受けてくれる?」成歩堂は窓のさんに手をつき、俯いて考えながら「受けたくない」とだけ絞り出した。もともと無慈悲というか、静も動もなくて、淫魔としての自分を夢の中だけに切り離して生命力を貪っているこの男がこういったことに乗り気ではないのはいつものことだったが、今回はまるで、もはやそういった自分さえ葬ってしまいたいとでも言いたげな風貌に私はつくづく呆れながら足をぶらぶらさせて成歩堂を睨みつける。「…ねえ、どういうこと?嫌なら嫌でいいの、やりたくないってどういうこと」「そのままの意味だよ。もう、そういうことはしたくないんだ。きみのことだからまた、飼うために碌でもない夢をこじ開けて麻酔に切り替える気だろ」成歩堂はこともなげにそう言い、私を睨むどころかただ見つめた。言葉による事実だけを投げつけて。



彼がこじ開けることが得意なら、私は書き換えることが得意だった。そもそも自分の実体を相手に行為をさせない―ということはつまり、私は相手の欲望、願望を読み取ってそれを自分に投影しているということになるわけだが、それは無論夢を差し替えるときにも使うことができる。何らかのトラウマ、執着、恐怖、そういった負の感情によって硬く錠と鎖で閉じられた夢や記憶を彼がこじ開けてくれれば、私はその中で黒く気が狂いそうに歪んだ空間を、その人間が本来望んでいたものに弄ることができる。救いを、まさしく夢でしかない偽りの救済で、その人間をとらえ続ける悪夢や記憶を塗り替えることができるのだ。そうしてしまえば大概の人間は幸福すぎる理想の夢や記憶から、離れることができなくなる。泡沫の幸福に依存して、貪って、ジャンキーになる。そうしてしまえばあとは私達夢魔の家畜でしかない。彼と私で、快楽に溺れきるまでおいしく食べてあげるだけだ。そうやって数多の人間を広大な夢の桃靄かかる深海へと沈めてきたし、またそれに対して私は何の感慨や罪悪感もない。屠殺から精肉の過程がいかに筆舌に尽くしがたいものであったとしても、それを理由に肉食を控えることのできる人間が少ないのと同じことだ。


―しかし私は『彼』に、そういった行為をするつもりはまったくなかった。



「その後のこともまた、あなたには関係ない。ただ厄介に硬く閉じてあるから、開けてほしいだけなの。私がやると錠ごと記憶を壊しちゃう」「そうしてやったらいいだろ。壊した更地にだってきみの力は効く。食べるだけならそれで十分じゃないか」そんなことして、それがもし、その人を形成する大事な記憶だったりしたら―その人の人格を壊すも同然の行為だっていうのに、なんてことを言うんだろうと私は歯を食い縛り、また、自分が重ねてきた行為との矛盾に対して苛立ちが募る。「…ずいぶん絡むけど、それは腑抜けてたから?」「…ぼくは、単純に、人間でいたいんだ。いなくちゃいけない。きみとは違う」成歩堂は今度こそはっきりと上目で私を睨み、私は鼻だけで笑う。「ふざけたこと言ってるね。だから臭い自分の正体に蓋して生きていく、って?」「きみや他の魔族全部に言えることだけど、きみたちのように、ぼくはもう二度と自分の為にそういったことをして、生きることを、したくない」吐き捨てるように成歩堂が最後だけをはっきりと特筆して強く発音する。「あなたの自意識にそれがないだけで、あなたが無理矢理切り離した夢魔としての自分は生きているでしょう?そうじゃなきゃあなたまで死んじゃうもんね。可哀想に、あなたの片割れは発情期の犬みたいに誰彼かまわず夢を回って見境なく犯すことを繰り返して生命力を吸い取ってる。あなたがそこまで嫌がる行為をあなたの知らないところで延々と続け、そうして、あなたを、生かしてるの。知ってた?」


成歩堂はがん、と私が座っているデスクの上に掌を叩きつける。「わかってる、だから――」だからきみには絶対に会いたくなかったんだ、と私を見て吐き棄てるように成歩堂は言う。「ああもしかして」私は半ば、自棄だった。ゆえにさしたる根拠もなく、ただ言っていることのあまりの愚かさにある種の昏い親近感を覚えて、カマをかけただけにすぎない。「どうしても特定の人間を自分の物にしたくなったの?」「…………関係ないだろ」当たってしまった、と私は背筋を伝う冷や汗を感じながら動揺を隠すために唇を緩ませ、続ける。「女の子?だろうねえ、私と違って同性とやる趣味はなかったもんね。その子のために汚い本性を隠しておきたいとか、そういうやつ?」成歩堂は食い掛からんばかりの形相で私を見た。「―そういう自分をバカみたいだと思わない?ちょっと力を使えば尻尾振って喜んであなたのペニスを朝から晩までしゃぶってられる可愛いペットになるのに、寿命の差だって飼って私達が生命力を与えてやれば関係ないも同然だし―」「…やめろ」「ああ。今回の報酬、その子にしてもいいよ。私が捕まえたっていいし、それとも私があなたを読んで、あなたの理想の完璧なその子になって好きなだけセックスしてあげても「―ぼくは、本当に、そういうきみ達魔族が、大嫌いなんだ。自分自身も含めてね」



侮蔑だけを込めて、溜まりきった怒りを漏らすことさえやめて成歩堂は私の目を見て、その牙を剥き出し吼えた。その黒の中に朱く灯った眼の色と、尖った犬歯は明らかに人間の域を逸脱した――かつて人であったときにもはや型を保ってはいられないほどの負の感情に拘束されそのまま美しく歪んだ魔族のそれそのもので、私は、つまらない挑発をした喪失感だけを抱えてデスクから降りた。「わかった。帰る」愚かなことだ、不毛なことだと―自嘲する。どうあったって、私達はそんな風にしか愛することなんてできないのに。人間だったときの風習にいつまでも囚われていたって、もどかしさだけに苦しんで消耗し続けるだけなのに。そしてそれは、全て自分を取り巻く諸々を含めた所感でもあった。「二度と来るな、――来ないでくれ」頼むから、とでも言いたげな声音としては変わらなくても長らく聞き続け、慣れた彼の音の動かし方からすれば悲痛と読むことも容易な、その重い声を背に私は再びドアを開ける。



密やかな音と共に、湿った雨の匂いが、つめたいビルの無人の廊下まで染み込んでくるようだ。こん、とヒールで床を打ち、背からは静かに羽を伸ばす。




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