※DVの話です



べしゃり、と小さな音をたててビニール袋を落とした音で俺は我に返った。振り向くとおなまえさんが立ち尽くしていた。路上に、まるで幽霊のように。大所帯ならぬ大家族と化してしまった成歩堂なんでも事務所は、私生活まで共有しかかっている。まずいとは思っているが、ろくに仕事も給料も入ってくれないにつけ実質生活費が浮いてしまうから、希月さんはとても楽しそうに、俺はなんというか仕方なく入り浸っている。まあ、私生活の共有とはいっても――家事をするのは主に俺と、成歩堂さんの恋人のおなまえさんだけなんだけど。みぬきちゃんは学校と仕事があるし、希月さんは曰く「こ、これでもあたし、いろいろ勉強中なんで忙しいんです!やろうと思えばできるんですけどね!やろうと思えば!」らしい。だから―いつものように俺たちは夕飯の買い物に来ていた。重いものは全部俺が持つというより、荷物はすべて俺が運ぶつもりだったのにおなまえさんはさりげなく俺に全部持たせないように奪ってしまう。にこにこ笑いながら。だから袋を軽いものと重いものに分けるのは習慣で、それで―――


オレンジの夕日が照らす、黒灰のアスファルトにどろりと何かが広がるのが見えた。それはべっとりした割れた卵から染み出す液体で、呆然とするおなまえさんは何も見えていないように見えた。俺も動けなかった。逢魔ヶ時の怪物が忽然と現れたようにだって、思えた。俺は自分の足を動かしみょうじさんの注意をこちら側に戻すために、声帯を強く振動させて彼女の名を叫ぶ。「大丈夫ですか」「あ、…うん、だいじょぶ。ごめん。ぼーっとしてて…」やっとおなまえさんはいつも通りの、しかしいつもに比べひどく儚く見える表情でしゃがんで俺と一緒に袋の中身を集め始めた。「最近力が抜けちゃうの。ふと気が付くと」「それ、疲れてるんですよ…あんまり俺たちの面倒みようとしなくていいんですからね」「ふふ、ごめんね世話焼いちゃって。でも楽しくて」おなまえさんは幸せそうに微笑んだ。「龍一くんも幸せそうだから。やっと、そう見える」


そこで俺の目の奥が、ひどく脈打ったことが、始まりだった。




たとえばこういうことは、何も珍しいことでも、異常なことでもないのだ、と私は思う。幼い子供が何を言っても泣き止まない。延々と延々と延々と、延々と延々と、精神を逆撫でするあの特有の声で、疲れ切った夜中に泣き喚き続けている。延々と延々と。自分の耳元で。そういうとき、ふとその小さな首に手がかかってしまう。ふと口を塞ぎたくなってしまう。ふと胸を圧迫したくなってしまう。ふと叩いて、打ち付けて、その声を止めろと、叫びたくなってしまう。それは不可抗力だ。抗いがたい、単なる要求の発露に過ぎない。問題は気持ちのやりとりに、もはや言葉がつかえない場合、私たちは何か別の手段を講じなければいけないということ。そしてそこに苛立ち、加虐、疲労、憔悴、焦燥といった不純物ともいえる感情が多く混ざりすぎると、人は原始的な手段に走らざるを得なくなる。そういった、一見突発的なように見えても明確で理論立った根拠の下に起こる必然なのだと。


だから初めてそういうことになったときも、私は怖くなんてなかった。むしろ、ただただそうさせてしまったことが悲しかった。彼の瞳は本当に揺らいでいたし、苦しげに喘いでいるようにさえ思えたし、なにより私は彼が真に優しい人だということは何よりも強く知っていた。知っていた、ではない。理解していた。はっきりと理解までしていたのだ。だから、わかった。彼は私を殴りたくて殴ったわけではない。そうするしかなかったのだ。そうすることでしか、私の感情に傷をつけることができなかったのだ。私はあの8年、何もできなかった。落ちて落ちて沈み込んで独りぼっちになってしまった彼に何一つ与えることができなかった。その事実は消えたわけではなく淀んで、停留して、私たちの心のどこかに幸せの皮を被って息をひそめていただけだったのだ。私はそれに、気が付いた。愚かにも、そのとき、初めて。


龍一くんはずっとそれと闘ってきたのに。ずっとそれに抗ってきたのに。私が、私だけが気づくことができなかったのだ。それだけではない、再び訪れた幸せを当たり前のように享受して、膿んだ傷痕に蓋をしていたのだ。腐臭も膿も、癒さなければ納まらない。龍一くんに殴られた右胸だけが、呼吸を妨げて、痛かった。わたしは泣いた。彼の優しさと、孤独と、年月の長さと残酷さに慟哭した。龍一くんは、決して私に謝らなかった。彼は、謝ることは許しを乞うことに等しいと知っていた。謝罪の言葉が持つ意味を、人よりも深く知りすぎていた。


みぬきちゃんと住んでいるということに私は感謝した。それは別に、彼が愛娘を意識して行為を控えてくれるという意味ではない(寧ろそれはより彼を追い詰めることだった)。私が無様に泣いたり喚いたりしないで済むという意味だ。情けないことに私はちっとも我慢強くないし、痛いことは恐ろしいから、怯えて叫んだり喚いたりしそうになる。そういうときにみぬきちゃんを思い出すことによって、彼女だけは守りたいと、彼と一緒に心から感じることによって私は震えた息を吐き出すに留めることができた。彼は注意深く私を傷つけた。跡が残らない程度に首を絞め、胸を圧迫し、蹲った脇腹に蹴りを入れ、踏みつけ、髪がぶちりと音をたててちぎれるくらい掴んで引き倒した。長い長い静寂の中で。ぞっとするほどの、静まり返った暗闇の中で。そうして最後にいつも私に言うのだ。剥がれるような、掠れきったこえで。お母さんを探して泣き疲れた男の子みたいな声で。


「どうして拒まないんだ」




俺はあの日のおなまえさんの表情と、慣れ親しんだ例の脈動が気になって仕方がなかった。そもそもあの時、彼女の袋にはろくに物が入っちゃいなかった。それをいくらぼーっとしたからって落として呆然と立ち尽くすなんてただ事ではないだろう。よっぽど疲れている――にしたって、俺なんかより成歩堂さんの方がずっとあの人をよく見ているんだから気づかないわけがない。だいいちあの二人は本当に仲が良く、希月さんはあの人を初めて見たとき当然のように奥さんだと思ったらしいし、みぬきちゃんはもう言葉に出さなくともママとしての認識を固めつつあると聞いたことがある。それに、気になるのはなんといっても―俺の目の反応だった。希月さんは気づかない。俺の感覚だけが彼女を捉えている。胸騒ぎがした。――その時の俺は、時期的にも、おそらく大切な人の異変に気付けないということに怯えすぎていた。だから見てしまったのだ。


どう考えても軽食程度しか作れないだろう規模の備え付けのキッチンで、おなまえさんが丁寧に皿を洗っている。俺はその後ろに、立っている。みんなは向こうでいつも通り楽しく過ごしているだろう。おなまえさんはまだ気づいていない。俺はそれをいいことに、息を吸った。眼を開く。集中を持って、全身全霊で眼を開く。時間が急激に速度を落としたような感覚の中、彼女の背中が、動きが、ハッキリと見える。この間の記憶を刺激しながら――俺は見た。おなまえさんが乾燥機に皿を移すときに上げる肩が、不自然に位置として低くそして痙攣するように跳ねるのを。無意識に片手首を庇うように動かすのを。そしてなにより彼女の首に染みのようにうっすらと、本当に薄く広がる――悪魔の痣のような――二つの四指の痕を。


集中から引き剥がされる感触と同時に俺は冷や汗の中で息を荒げていた。暴力だ。紛れもない、慢性的に広がる暴力。ココロのノイズがないということは、彼女の心に疑惑はない。ほんの僅かにも。しかし―俺の能力にはかかった。つまり彼女は俺たちにそれを隠している。はっきりと。そうしてもう一人、この事務所にはその隠している秘密の鍵をこじ開けることができる人間がいる、筈で、そしてあの人の力は―紛れもなく彼女に効いているはずなのだ。おそらく希月さんはもちろんこの俺よりも強く引きずり出せるはずの、あの人が。そして――あの人は笑っている。みぬきちゃんを撫でて笑っている。今、背後の部屋で。おなまえさんは優しく鼻唄を歌いながら洗い物の手を止めない。


つまりあの人は知っているのだ。この音もない暴虐の主を。


「オドロキくん?」今度は言葉もなく立ち尽くす俺をおなまえさんが心配そうに覗き込んでいる番だった。「…、ぁ、」喉がかさかさにはりついて声が出ない。「平気?オドロキくんもだいぶ疲れてるみたいよ」おなまえさんは朗らかに笑って、俺の肩をぽんぽんと叩く。「もしかして張り切って仕事しすぎなんじゃないかな―「あの、ッ」俺は何を言えばいいかわからない。本当に、わからない。俺が不用意にも覗き見てしまった人の秘密に対して何か言うなんて、そもそも許されない。わからない。おなまえさんは驚いたように俺を見る。「く、び」俺に何かを言うことなんて、最初から何かを知らない俺にできたことなんて、アオイのときからずっと何も、何もなかったのに。


おなまえさんは、あのときと同じ表情で薄く微笑み、そっと唇に人差し指を当てた。「いいの」「、でもッ」「やっぱりオドロキくんの眼はすごいね。龍一くんが怖がるわけだ」去年からずっと、と彼女は唇を動かさないように静かに繋ぐ。「ん、なこと、どうでもいい―どうして、どうしてですか、こんなのおかしいでしょう、成歩堂さんが、なんで」ゆっくりと首を振りながら、おなまえさんの手が俺の肩に触れる。「こうしないとわからないの、私も彼も」俺は言葉を失った。文字通り、失った。「私たちはわからないの」幽霊のようだった。恨みの中で皿を数えることしかできない幽霊のように、おなまえさんはただ滑るように言葉を繰り返し落としていく。「私は愛してもらってるから」俺の腕輪が、目が、奥が、痛いほど啼いて、泣いて、哭いている――


「龍一くんに、愛してもらってるから」



泣く青鬼
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