アストレアの星の下に生まれたせいかはわからないが、私の中には秤があった。それは理科の資料集なんかでしか見られないような、つるす天秤のかたちをしていて、傾かない。それは私そのものだとも、同時に思う。将来何がしたいわけでもなく、強いて言うなら本でも読みながら人を眺めて生きていける、寺の猫にでもなりたいと思っていたが、むろんわたしは人間だったのでせめて生まれた時から共にあるその秤を信じる道に進むことにした。とくべつ秀でたものは持っていないが、大抵のことはつっかからずにこなしていける程度の能力はあるので、障害はない。この学園は正負どちらにも活力がある学生が多くて、私はどちらでもないので、なんだかぼんやり漂っている。浮くとか、いじめられるとか、好かれるでもなく漂っている。決して自分を賛美するわけでもないが、こういった特性は私の目指す裁判官には向いているんじゃないかと思う。適度な正義。適度な情け。適度な自己投影、適度な責任感。私の秤は傾かない。文章だけを読んで判断できる。


うちの学園では定期的に外から講師を呼んで大教室を使った公開授業が行われる。それは現職の検事であり弁護士であり裁判官でありつまり適度にローテーションされ、教室は広く毎日のカリキュラムが終わった放課後に開かれるため生徒は自分の属するクラスの授業ではなくとも出席してかまわない。とはいえ――よほどのことがなければ、教室を覆う制服の色は一色だ。私のように、「裁判官より現役の検事や弁護士のほうが面白そうだから」面白半分で出入りするような不埒な生徒はほぼいない。のだが、今日だけは別だった。前から二列目まではがっちりと朱のセーラー服を纏った女の子たちがひしめくようにきゃあきゃあと座り、10分前にはほとんどの席が埋まる。それも青だったり私と同じ黒だったり、めちゃくちゃに。ついには後ろの壁の前に立ってメモを持っている人たちまでいる。ぞっとする。私はいつもどおり大教室の真ん中あたり、いちばん右端の席に座って頬杖をつく。ざわめいていた教室は、きっかり特別講義用に鳴るチャイムと同時に入室した人間と一緒に水を打ったように静まってしまう。


そう、今日は御剣検事局長の講義だった。法の暗黒時代と言われている今、彼ほど忙しい法曹の人間は存在しないだろうが、どういう調整をしているのか彼はきっちりと月に一度は講義を入れた。甲斐甲斐しく私達に法を説いた。多くの人間は、彼が現役の検事だった時に築いた功績―そこにはもちろん黒いものも含まれている―の拝聴か、もしくはあの怜悧な気を纏う美しく整った顔面を、低くよく響き渡る威圧的な声を聞いて悦に浸りたいかのどれかが目当てで、とにかく決して彼が願うような、結果至上主義に汚染されたこの学園の改善に向かうことはなかった。と思われる。中には私のように、どれでもなくただ現役の人間が投げかける問題提起であったり扇動演説であったり、そういうものが好ましくて居座る人間もいたといえば、いたけれど。


私はあのひとを、うつくしいとおもう。それは別に鼻筋がすこし綺麗に通りすぎているからとか瞳は切れ長に鋭さを秘めているからとか、そういう表面的なことでなく。机に伏せて重ねた腕のクッションの上で私は彼の声を聴く。惑わない。凛とした、己の生に何の迷いもない声だ。彼が――私の――年のころには―もう、将来のために動いていた、とか。世の中には何も考えてない私みたいな人間と、頭でっかちに生きすぎる人のふたつしかないんじゃないかって、時々不安になる。彼の話は私の脳まで至らないが、その声はうつくしく私を割く。剥がすように。私は目を閉じる。漂う私がはじめて降りられるのは、この、法の女神像みたいにはっきりと、たとえ目隠しされても高々と秤を掲げられるこのひとの声の下だけだと、沈み込む。



緩やかな記憶の氾濫の中で、瞼が開くとみつるぎ局長が私の頭をファイルでごつんとやさしく叩いたところで、あれだけ人のいた大教室にはもう誰もいなかった。「あれ」「あれではない」とんでもないものを見るような顔で局長は腕を組み、私を見下ろす。「本当に迷惑な生徒だな、君は」「…すいません」「帰ってベッドで眠り、この席は後ろに立っていた多くの熱心な生徒の内の一人に譲るべきだったとは思わないか」私はことん、と音を立てて立ち上がる。決して自分は、背が低すぎるわけではないけど、おとなのおとこのひとの前だとなんてちっぽけなんだろうと思う。眠ってしまったよくわからない安堵の渦の感触も、発端も覚えてはいない。「いいえ」私は目をこする。ぐりぐり、と。局長が鼻で息をつき、私を静かに睨むのが分かった。「私にとって有意義な時間を過ごせたと、おもうので」


頭の中身がくらり、とした。血も体温も足りなくて。「さして寝心地が良くもない机で仮眠をとることが、か」「…そうじゃなくて、局長、綺麗な声をなさってるので。安定します」局長はまばたきをし、眼鏡を上げた。「安定」こくん、と私は頷き、ぺこんと頭を下げた。「せっかくのお話の最中に眠ってしまってすみませんでした」わたしにとってそれがどのような価値を持つものであれ、それが失礼なことには変わらないし、ここに座ってきちんとメモを取りたかった人たちにも私は多かれ少なかれ、心から申し訳ないと思ってはいる。「君はほとんどの特別講義に出席しているらしいな」「はい」「裁判官の道に迷っているのか?」局長は私の非礼を咎めるよりも、自分の疑問を優先したらしい。私は首を振る。「いいえ。裁判官は私にとっての天職だとおもいます。疑問の余地もなく。…ただ、いろんな話を聞くのが好きなので、わたし」とくにあなたの清廉な言葉で均衡をはかるのが、という続きは飲み込んだままにしておく。


局長は、ふ、と笑った。「確かに天職かもしれない」大事なことだ、と局長は呟きそして「君からは覇気がまるで感じられないからな」と続ける。「ニュートラルにして鏡のようだ」とも。そのとおり。私の秤は、傾かない。でもそれを怠惰と呼んだ人は私は本当にたくさん知っているし、むしろそんな私が今抱いている将来像を必死で壊そうとしなかった人間を数える方がむずかしいくらい止められてきたのに、いま初めて私は私とおなじ意見のひとを見つけてしまった。あろうことかこの国の法の神が座っているだろう場所で。「事実のみを加味し、他人の誘導に乱されない判決が下せるだろう」「…ホントにそう思ってます?」「6割がたは。できればもう少し勤勉に、そして厳格になってほしいものだが、それは君とて自覚しているだろう?」まったく私をおちょくるように局長は顔を傾けてにやりと笑い、私は唇を尖らせる。


「局長は、私とおないどしのときには、もう検事になることを決めてらっしゃったんでしょう」「―ああ。今年度の一回目から来ていたのか。その通りだ」「そのあと彼女はいましたか、と」「……よく覚えているな。そんなことまで」私がにやにやと笑うと局長はむっと顔をしかめて腕を組む。「…今まで、ずっとひとりで来たんですか?」「一人ではない。多くの友が私を支えてくれた。今でもなお」「そうですか」あんまり友情に厚そうなタイプには見えないけど、案外、人のことを相棒なんて思ってるパターンなのかな。私はちょっと面白くなって、にやにやをひっこめて、唇だけで笑う。ゆめみる大人は、すてきだと思う。きちんとした大人になっても夢をみられる人は、きっとそれなりの根拠と土台の上で星を見る。それはほんとうに、すてきだ。「わたし、てんびん座なんです」局長は訝しげに目を細める。「個人情報を明かすなら、まずは名乗りたまえ。情報が混乱する」そうじゃないんだけどな。私は息を吸う。「みょうじです。みょうじおなまえ」「それでいい。みょうじくん、君には期待しておくことにしよう。未来を担う優秀な正義の天秤として」


肩をすくめて皮肉交じりに局長は首を振る。私はありがとうございます、と言って下がる。局長もまた、綺麗に足音を鳴らしてすり抜ける。私は噛み締めるように、確認する。歪んでしまった世界に届かない言葉を発し続ける、彼の正体は私を吊るすアストレアなのだろうと。ならば私はいずれ彼の、法の道具の末端に加わるべきなのかもしれない。そうして私は初めて、この先の生の天啓を、掴む。


女神の愛した天秤
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