今日は自分の担当する裁判が無いうえに、仕事も溜まっていないので午後から出れば充分だと判断したはずなのに自分と言う人間はどうにも遅寝や二度寝といいった類のものができないらしく、いつも通りの時間にきっかりと目が覚めた。それなりに昨日は―あのワイン一本を―ほぼ自分が飲んだ覚えがあるので―アルコールが入っていたはずなのだが、あまり問題はなさそうだ、と思った次の瞬間に少しだけ頭が重くなった。…さすがに見境をなくしすぎたように思える。いつものくせで起き上がったところで隣りを無意識に手でまさぐるが、何もない。広く、ほどよいスプリングのそれなりに良いベッド(私達の睡眠はそれなりに良いものにしなければいけないという彼女の提案に私が乗って、買った)には自分一人だけだった。時計は7時を指している。私は静かに床に降り、何も着ていないのはまずい、とそこで思い立ち室内着を身に付けて部屋の外に出る。

リビングは薄暗く、僅かに雨の音がした。ちょうど壁一面が四枚ほどの頑丈なガラスで構成されているようなたっぷりと光を取り入れる大きな窓は、カーテンがめいっぱい開けられ眼下に煙った街を映し出していた。いつもなら眠たげではあるものの自分を送り出そうと健気に起きている犬も、この天気と主人一人の続く欠勤に気を抜いているのか、ケージの中でタオルケットにくるまって眠っている。窓は高層階のため角度にして上に向かって約30度ほどしか構造上開かないようになっているが、めいっぱい開かれて湿った空気を存分に吸い込んでいた。高いところを異様に―私にとっての地面の振動と同じくらい、半ば病的に怖れる彼女は「ぞっとする」と言ってほとんど間近に近づかないのに―昨晩きっちりと鍵を閉めていたそこは開いている。なんとなく嫌な違和感があって、すこしだけ足早に廊下まで横切り彼女の部屋を覗く。(私達はお互いに、プライヴェートの尊重の一環として、互いの部屋には許可なく入らないことを取り決めとして置いていたが、残念なことに私はよく守れず彼女の部屋に踏み入ってしまうことが多いように感じる、今回のように)しかしそこは少々いつもより書類やうず高く積まれた趣味の本、ゲーム類が整理されただけの相変わらずの混沌とした空間が沈黙しているだけだった。主の姿はどこにもない。玄関はチェーンまでしっかりと閉じてあるうえに、彼女のパンプスもミュールも消えていない。外ではないだろう。私の部屋にも、当たり前のように変化は無い。少しだけ―背筋が―ぞっとした。私は怖れすぎている、心配しすぎる節がある―そう自分に言い聞かせながら暗いキッチンを覗き、最後に電気の点いていないドアの開け放たれたバスルームに飛び込むと―「あれ?早いねえ、午後からじゃなかったの」 のんきな顔でバスダブに沈み込んで本を読む彼女とがっちり鉢合わせた。



「…で、窓を開けていたのは、換気扇は音が嫌で、かつここの戸を閉め切るのも閉塞感があるから嫌で、更にあの大窓に結露を作りたくなかったため、と」



「そーゆーこと。ああもう寿命縮んだわ。私があそこにくっついたらバリバリ割れるんじゃないかなって、それでそのまんま落っこっちゃうんじゃないかなってがくがく震えながらあけた」彼女は至って真面目に、憤慨した様子でそう言った。私は思い切り、肩を使ってため息をついた。こちらも寿命がだいぶ縮まった。軽い二日酔いも早く起きすぎてしまった後悔も平等にどこかへ消え去ってしまった。「あ…怒ってる?やっぱり閉めなきゃいけないよね、ごめん…非常識で」「そうではない。君の家でもあるのだ、自由にするといい…私が疲れているのは、勝手な早とちりの所為だ」「早とちり?」怪訝な表情で、ざぷんと音をたてて彼女が私を見る。そこでやっと私は今までどれほど自分が狼狽し冷静さを欠いていたかを思い出し、急に恥ずかしくなる。「…だから…その、君がどこかに行ってしまったのではないか、と、何の根拠もない推測を…」おかしな気を起こしてしまったのではないかと、とは言わなかった。私はそういう時の彼女の傷ついたようなしかしそれは事実として理解しているようなあの人を拒絶する冷たく尖った表情が苦手だ。彼女は緩やかに笑った。「そんなことしないよ」本を閉じて、バスダブの側にしゃがみこんでいる私にきちんと視線を合わせる。「だいじょうぶ」


ほっとする。気分だけでなく、空気まで緩んだように。私は表情を和らげ、「ありがとう」と言う―が―そこで―とんでもないことに、やっと、気づいた。彼女は入浴中では―ないのか―いや、いくら本を持ち込んでいるとはいえ。急に身体を強張らせた私を不思議そうな表情で見つめているが、長い黒髪は適度に濡れて、きっちりとクリップで高い位置に纏められている。アメリカで不便に馴らされた名残だと言って―彼女は本を読む目的でバスダブに浸かるとき、湯は半分程度しか入れない。沈み込むように身体を倒して読む。そのまま眠ったら溺死しかねないから危険だと何度か言ったが落ち着かないと言って聞き入れてはもらえず、挙句の果てに、本が濡れないし半身浴にもなるのでとても合理的だと勝手に納得してしまった。(高温での長時間の入浴が苦手な彼女に半身浴は不可能ではないかと思うが)まあ、つまり、湯は彼女の身体を完全に覆っていないのだ。かつどこで見つけてくるのか皆目見当がつかないとても良い清潔な香りの―バブルバス用の入浴剤を使っている所為で、もこもことした白い泡が適度に透明な湯の上にいくつか漂っている、だけだ。大きめの綿を散らした程度に。だから―私が先程から何故こうまで言葉を選び苦労して細部まで描写しているかというと―つまり―いつもは長い髪で隠されている白い鎖骨や首筋、たっぷりとした胸や太股、から爪先にかけては―くっきりと、薄暗いとはいえ朝の光の中、白いバスダブを背景に浮かび上がっているわけだ。随所に泡を乗せながら。眉間に皺が追加される。立ち去るのだ御剣怜侍!何事もなかったかのように―何にも気づかなかったように―いやしかし、ここで唐突に席を外してはまるで私が夫婦なのに思春期の中学生のようにそんなことを過剰に気にしているように思われやしないか、『ああ怜侍ってホントこういう経験ないんだなあ』などと思われて―それは沽券に関わる―かといってこのまま何事もなかったかのように会話を続けるには些か目にしてしまった光景が強烈すぎた、思えば私はこんなに明るい中で彼女の裸をはっきりと見たことは未だない!私が知っているのは寝室の常夜灯さえ消したあの暗がりの中で、夢中で手探った限りの―ああ今余計な記憶に触れてしまった所為でますます如何ともし難い気分になってきた。彼女はけろっとして―はいないが、ひどく不審そうに、表情を固めて逡巡する私の姿を見ている―


見よう。


それくらいは許されるはずだ。私は法的に、とりあえず、彼女と性的関係を持つことが許されている。というより、持たないことは離縁の明確な理由の一つになり得る関係にある。つまり、私がここで、その、彼女の裸体をもう少し、しっかり見てしまったとしても、非難されることはないだろう。ム、なんだこの―この―まるで犯罪者の言い訳は!いや、しかしここは大事な局面だ、殺意の有無は罪状及び刑期、裁判官の心証に大きく関わってくる―「……その、大丈夫?のぼせた?」「…問題ない、殺人か傷害致死の分かれ目なのだ、ここが…」「あっ、はい…」これ以上ないほど不審な人間を見るような目で彼女は私を見たが、すこし首を傾げて、もう一度本を開く。フム、これでより容易に―いや。待て、ここで発想を逆転させるとしよう、『こそこそと窺うということは自分が不適切な行為に及んでいると自覚している場合の行動』―つまり!『適切な行動をとる場合、つまり正当な関係なのだから、事前に許可を取ればよい』―これだッ!そうだこれしかない、そして私は酷く低俗で矮小なことを真剣に考えすぎていた気がする、今までの数分間。「―、っ」声が出ない。息を吐いてしまう。彼女の意識をこちらに向けようと、そっと手首に触れるつもりが、ついぐっと―余計なことばかり考えていたせいだ―押し込んでしまい、驚いて息を呑む音、彼女が手にしていた文庫本の浸水は免れたものの―私は彼女の身体を割り開くように、壁際の縁に抑えつけてしまった。


「―、え、っ」―驚いている。無理もない。私だってここまでする気はなかった、もう少し平和的に理性的にそして人道的に―対話によって解決をする予定―胸が。その、胸が、だ。はっきりと湯から放れ、こちらを向いていて―その上をとろりと泡と、それを溶かすように含まれた湯が滑り落ちていく。大袈裟なくらい、この光景を象徴的に表すように自分の喉が鳴った。見て―見てしまった、こんなにはっきりと、許可を取る前に―「ちょ、手、いた」気がつけば捻り上げるといってもいいほどの力で彼女の手首を掴んでいた。すまない、と慌てて言って手を離すが、彼女はびっくりした顔で本を濡れていない場所に置き、私から身体を隠そうともせず、「おどろいた」と言った。「どうしたの、いきなり」…弁解の余地も無い。さすがだと認めざるを得ない。「ぁ―す、まない。その。こんなことを、して」「いや、別に、見られるの初めてじゃないから、いいけど…び、びっくりした」「う…まったく、申し訳ない。この通りだ」「ううん、平気だけどさ、その…驚いただけだから、こんなことするタイプだと思わなくて、うん」―こんなことするタイプとは。成歩堂のような、時間や場所の要望に有無を言わさぬあのなんともいえない気迫の持ち主か矢張のような俗っぽい性的なものにだらしがないニュアンスが抜け切れない奴のようでなければこんなことはされないと―?「…、私は、君が思っているほど、潔白な男では、ないっ」居た堪れなくなって私は立ち上がり勢いだけでそのまま嵐のようにバスルームを出た。出てリビングまで荒々しく戻ってきたところで気づいた。なんという…なんという好機を逃したのだッ!彼女は驚いているだけで、少なくとも嫌がってはいなかった。恥ずかしそうに顔を赤らめてはいたものの。嫌がっては。マッタク…マッタク、私は、まるで、童貞のような器の小さい―犬が顔だけ起こして私を見ていた。……………もうすこし眠ろう。キサマのご飯は主人が出るまで無しだ。



私は深く息をつく。顔があつい。おどろいた。まさか彼にあんなことされるなんて、そしてまさかあれだけで終わってしまうなんて…うう、肩が寒い。



「…………怜侍ってホントこういう経験ないんだなぁ」



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