過不足のない行き止まりという終わりを、かつて私は望んでいた。おそらく飢えていたのだろう。注がれて注がれていっぱいになって終わりたいと、深く願っていた。今となってはそんなものは知らずにいたほうがよかったのだと納得せざるを得ないが―少なくとも、私は幸せなのだ。それは紛れもない事実としてここにある。もう私は愛し合うがあまり傷つけあったりしなくていいし、恋人は私の素性や過去に何の興味も持たない。私も、持たない。それは愛情の不足ではなく、相互補完の結果だった。私は彼を愛しているし、おそらく彼も愛している。結局のところ、共に過ごすためにそれ以外のいったいなにが必要なのだろう?恋人はこう応える、「何も必要ないと思うが」そのとおり。彼の言うことはいつも、大まかに見れば正しい。だから私は彼が好きだ。


ジンジャーエールが切れてるから買わなければ、と私は碌に物を溜めない冷蔵庫を見て首を捻る。ミネラルウォーターを取り出して、冷たいタイル張りのキッチンの床でそれを喉奥に流し込んでいるとベッドルームから彼が起きだしてきた気配があって、私は飼い主の帰りを待つ猫のように速やかに床を蹴るようにして立ち上がり、ペットボトルをしまう。ひどく眠そうに、そして怠そうにしかし背筋を伸ばして彼がケトルを取りに傍まで近づく。「おはよう」「おはよう、朝ご飯は?」「いや…いい。紅茶は」「いる」私はにっこり笑ってワインレッドのガウンだけの彼の二の腕に鼻を擦り付ける。彼は黙って立ち尽くしているが、手だけは優しく私の髪を梳いてくれる。


彼の紅茶は完璧だ。謙遜なくそんなことはない―と顔をしかめられてしまうから私はあまり言わないが、しかし私にとって彼の淹れるものより美味しいそれはないと断言できる。喉を胃を満たす芳醇な湯気が、あたたかい。彼はたまに私の家にやってくる。普段は日本で忙しく仕事をしていて、こちらに来ると連絡をよこす。包まないお金をそのまま置いていくなんて下品なことはせずに―上等なものを惜しみなく私に与え、大切に扱ってくれる。私は彼が日本で何を持っているか知らない。彼が望めばきちんと客観的にそれなりの年齢に見えるよう顔を描きドレスやスーツを選んでパーティーにも出るし、女のひとへの贈り物に対して意見を言う。英語は私より彼のほうがずっと上手なのであまり役に立てている気がしないが、それでも彼は満足らしく、私に勉学を勧めたりはしない。私たちは与え合う。そうやって、何にもならない物々を。


私が望んだものを、彼が与えなかった試しがない。


一見それはひどく難しい事象のように思えるかもしれないが、簡単で、互いに何も求め合っていないだけなのだ。怜侍さん―というのは―彼の名称なのだが、彼はおそらくたくさんの物を抱えていて、それに窒息しかねないほど沈み込んでいて、その中でそういったものとは無縁の、遠い場所の私が必要なだけであって、別に私でなくても構わない。構わないのだろうが、それでも出会ったのが私でいまこの瞬間彼に尊重されているのは私なのだから、そこは悲しむところではない。悲しむべき箇所は彼の無欲であり、淡泊であり、疲弊であり、いちいちあげつらっていては本当に悲しくなってしまう。そしてそこに干渉することは、私が私である限り不可能だ。それを実行した瞬間、私は彼を失うだろう。彼もまた、私を。


抱える怜侍さんの手は大きくて、指は太い。私の顔は覆われてしまう。所有されるように。捕縛されるように。「疲れてるね」「…そう見えるか」「ほんの、すこし。眠る?」「君が来るなら」と言って私の肩にそっと彼が顔を埋める。「帰りたくないんだ」それは希望でも感情でも愛の言葉でもなくただ事実として、ぽんと私の部屋の床を跳ねる。ベッドで薄れた彼の香りは、緩やかに体臭が包んで柔らかい。贔屓目抜きで、美しく整った彫刻のような顔は表情を解いて目を閉じる。「それは、ここにいたいってこと?」「いや」簡潔で、冷ややか。私はまったくその冷静さに感動すら覚える。「ここではなく、おなまえの傍に」私は微笑む。やはりそれは希望でも感情でも愛の言葉でもなく、私の床をゴムボールのように跳ねて、跳ねて、跳ねまわって子供が遊ぶモノクロのボールプールのようにいずれ私を飲み込むだろう。「嬉しい」至って私は心からそう言ったつもりなのに、驚くほど空虚に聞こえる。


彼は自分が甘えてるにも関わらずまるで私を甘やかすように何度かキスして、「もう少し眠ったら外でランチにしよう」と言い、私は頷き、悟る。彼は今日の午後に帰るのだ。またたっぷり数ヶ月このひとは私の人生から外れてしまう。それを考えるとちぎれるくらい虚しさが押し寄せてきて、うっかりすると涙まで溢れそうになる。もちろん、それは私の喉あたりでわだかまって戻っていく代物にすぎないのだけど。彼が私の腰を抱え髪を弄んだまま、首筋に唇をやさしく押し付けていく。そして独り言のようにはっきりと私に言葉を漏らす。「好きだ」、―「おなまえ」私の名前は永遠にこの人だけのものになってしまえばいいのに、と唇を結ぶ。この先なにがあってもその音を口にするのはあなただけであればいいのに、と私は願っている。幸福な過不足ない終わりの、結果として。「怜侍さんは本当に私が好きだね」彼の湿った吐息が私の鎖骨を、なぞる。「私は君がいなければ生きることさえままならない」


そうしてあなたは一人で遠くに、歩いていく。



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