霙混じりの雨が降る日だったと思う。信さんが寒そうにしていて、あたたかいロイヤルミルクティーを作ったの。うん、盾之くんも覚えてる?美味しかったね、あのあまぁい味。私はそこで切って、ふふふと笑う。今降っている雨は、別に霙でもなんでもなくて、温く煙る程度に私の差す透明のビニール傘の上を流れて落ちていく。盾之くんは、懐かしそうに瞳を細めて信さんの墓石を眺めている。あのときあった冷たい外気と暖かい事務所の太陽と、そこにいた私達の小さな王子様はもういない。王と王子が去った城は、びっくりするほど空っぽだった。この先もずっとそうなのかと思うと、鬱蒼と茂る悲しみが押し寄せてくる。


匂いは記憶を孕んでいる。あの時つけていた香水はもう、今の私には若すぎるし、安っぽくすぐにどこかに行ってしまうから好きではないけどそれでも信さんが覚えている私はいつまでもこの香りなのだろうと思うと、動けなくなる。盾之くんは「今でもそれが落ち着くなあ」って笑う。信さんの紅茶の匂いが降りてきたら完璧だ、とも。私達の間には思い出の共有だけがある。楽しさや優しさで希望を紡ぐには互いに時間を消費しすぎたし、慰めあうには失ったものが重すぎた。「結婚しよっかなあって」と私が呟いたら、盾之くんは驚いたように目を開いて、首を傾げた。「いつ頃?」「次の信さんの命日が来る前に」


黒いスーツの内側には、汗が燻っているような感触がいつまでもある。いずれ私たちはここから動き出さなきゃならない。たとえば私には生きなければいけない場所があって、繋げなければならない未来があって、過去ばかりを大きく置いておくわけにはいかなくて、盾之くんがかなしそうに笑う。「そっか」、「信さんもやっと安心するだろうな」昔からおなまえのことはすごく、心配してたから。「盾之くんは」「僕は―どうかな。まだいいや。一人に絞りきれなくてね」にやにやと彼は笑みを浮かべる。悲しい、くせ。このひとが去った時から始まったくせ。


「じゃあ、君の香りともしばらくお別れか」目を閉じて、盾之くんの黒い傘から水滴が垂れる。「置いていってもいいと思う?」盾之くんは、こくんと頷いた。私は黒く軽い瓶をそっと墓前に置く。私の思い出は、あなたの思い出はこの中に詰まっている。過去にも現在にも雨が降っている。私は舞台から降りるだろう。盾之くんはきっと、この先も踊り続けるだろう。あなたと共に。あなたの裏が、見えるまで。たったひとりで。「怜侍くんに会いに行こうと思うんだ」「―いいの?大丈夫?」「大丈夫、だよ。きっと。君だけを前に進ませるわけにはいかない」盾之くんの、壊れてしまいそうな横顔を包める手は私にはない。そうすべき時間も、タイミングも全部流れ出してしまった。私の匂いはあっというまに散って消える。18年のあいだ言えなかった言葉を、私は溶かしてしまう。そのまま、ここに。きっと彼が望まない、そして彼が欲しかった言葉ではないそれを。「Have a good life、盾之くん」彼は安らかに、笑う。「You,too」


遠くの樹で、セミが鳴いている。


Slow Dance
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