※『5』最終章ネタバレ




足を失った馬を殺すのは優しさだと聞いたことがある。尊厳を失った人間をただ生かすことは非人道的だという主張がある。どちらの声もたとえば硬い翼が舞う天高くにも、重い手枷で動けない地の底にも届かないのだろうことを私は知っている。それはおそらく彼の人生からは最もかけ離れた何かだということしか掴めない。夜の帳に血痕を落とすように、もしくは羽が散らされるように雨が降る音がする。無音と無臭と物の無い部屋では生きている感覚さえ忘れてしまうだろう――と私が余計な気を持ち上げたせいで、暗い独房の奥で音もなく柔らかい物が起き上がった気配がした。鷹が羽を広げるような、静かで奔る雨さえ弾くように。


「今日こそ死神か」と彼は言う。低く凍てついた声で。しゃり、とろくに音を立てない彼の身体においてそれは大袈裟なほどの音量をもって手枷の擦れる音が私の耳を貫く。外の雨の音と、金属の音と、滑空するようにぶれのない声だけがここを支配している。「死神なんて来ない」「…そうかい。一体いつ起きたら首がなくなってるかわからねェ、おちおち寝られやしねえ」「―この日本で一番安全な場所でしょうに」乾いたような音で、枷を鳴らしながらさも可笑しそうに彼は笑う。「面白ェ冗談だ」「ジンは本当に可愛い笑い方、するね」人をバカにする意図しか感じられない嘲笑はあっという間に葬られ、表情が見えるほど近づいた彼は冷たく目だけを光らせる。「…………次にんな口利いてみろ、お前さんの舌は俺が喰う」


私はにやにや笑う。「どうやって食べるの」「食い千切るに決まってんだろうがァ、」こんな風に、と唇が動いた時には既に格子の合間ギリギリに彼の犬歯が迫り、口の端は歪んで笑う。私は唇を結んで顎を引く。――そ、んなこと。できるわけがない。「死神にそんなことしていいんだ」「知らねェのか、世界には死体を喰らうタカだっているんだぜ」「そのタカは死体だけでは生きられない」「―だから舌だけ、頂くのさ。丁寧に」つまみとしてな、と彼は笑い―そして私を見る。「なあ、俺はあとどれだけ生きられる」「私は死神じゃないって何度言えばわかってくれる?」「―お前さんからは死の匂いがする。濃い、吐き気がするような」


「…ヒドいな。死を運ぶのは何も死体を喰うタカや死神だけじゃない」「じゃあ一体なんだってんだ。いちいち俺にはっついてきやがって―」「私はあなたの良心と本音の妖精さんだよ」「…………前言撤回だ。この場でおめェの喉を裂く」「わあ怖い。それなら死神だったとして―何か私とそこまで話したいことがあるの?」「別に。言いたいことは一つだけだ、『てめえの姿は、吐き気がする』」私はくすくす笑う。伸ばした手は質量を持つものをただどこまでも貫通し、透過して青いほど白く保つ彼の顔を映す。冷ややかな目には何の温度も無い。「…川が渡れねェってんなら、俺が船賃払ってやるから、待ってなァ」


彼の手が重たくゆるりと持ち上がり、生前そうされたように髪に指が滑らされる。「一人で逝かせて悪かった」「恨んでるわけじゃない、妬んでるわけでもない、ただあなたが心配なの、ジン」「――おなまえ。俺は全てのものを守り、成すには様々なものが及ばなすぎた。お前さんの存在が決定的な証拠だ。だが―それでも、何か一つに絞ればそれは可能に成り得る。…頼む、俺をあと少しでいい、生かしてくれ」「……私は、死神じゃない。ただのおなまえ。それにたとえ死神だったとしても、ジンの死を定めるのは生きてる人間の仕事だよ」「…ハッ。悪くねえ反証だ。妄想にも筋は通しとくもんだ」ジンは静かに息を吐き、絶望的な目で私を見る。私の瞳を。羽を折られた、地に落ちる空飛ぶ生き物そのものとして。「おめェの傍には、いずれ行く」彼はちっとも面白そうじゃなく、自分ごと世界をバカにするような顔で嘲笑い、「一人で死なせるくらいなら、俺がホントに、舌、喰ってやるべきだったなァ、おなまえ?」


俺の死はいつだって、愛した女のカタチをしている。



空即是色の檻の底
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