薬の量が増えたのがばれて、強制的に有給をとったことにされた。もちろん、罰として。黙っていた罰として。すっかり頭だけいい気持ちになってる私の、いつもよりわけのわからない―たぶん私はそのとき視覚を失って触覚と聴覚をもっと敏感なものにしたいとかそういう、まるでわけのわからないばかみたいな―言動のせいで、いい加減私の常日頃から繰り返される頭のおかしい突発的極まりない発言とラリ気味のときの前後不覚の妄言の区別がつくようになったらしく、確認された。ひどく怒っていたけど、私には怒らずに、代わりに口もきかずに朝「今週は仕事に行っても無駄だ」と言われた。なんてことだろう。わけもわからず彼が出て行ったあとに、いつも私がばらばらに放っておくピルケースがきっちりと並べて積まれていたのをみて事態をようやく察する。


やっちまった。


優しい人だな、と思う。よく人のためにそんなに怒れるなあ、とも。そうでなきゃ検事なんてできなかったとすっかり自分を棚に上げて思うけど、やはりそれでも彼は優しいひとだと思う。私だけにではないのが癪だけど、それを見越すように私を囲ってしまった。法的にも物理的にも、おそらく心理的にも。大きなお世話だ、と思う反面―やはり私は彼を拒めないのだ。優しさが欲しかったのかもしれない。少なくとも彼は私のおっぱいを思うさま揉みたいわけでも、私に自尊心を満たしてほしいわけでも、唯一の理解者を得たいわけでもない。そう思うと心がすこし安らかだった。見返りは求めなくても与え合うものだという共通認識は、とても優しい。かたく乾いた道路を濡らす雨みたいに。道路も雨も到底綺麗とはいえないが、雨で濡れた路面は少しだけつやつやと輝く。黒く、白い文字をはっきりさせる。私はそれが好きだ。黒く水を弾く姿だけは、美しいと思う。そのときだけ、その場所だけ。「つまんないねえ」私がもふもふと飼い犬を触ったらおとなしくはしていたもののえらく迷惑そうに、欠勤を咎めるような顔をされて何を言えばいいわからなくなった。結婚したときから飼っているうちの犬はビーグルで、ビーグルのくせにあまり走り回らない代わりにすごくかしこい。おいしそう(に見える)な食べ物を前にしたとき以外は。私がどうするのか、どうすべきか全部見透かしてる顔をしている。居心地がわるくなってすべすべした身体をぎゅっぎゅと揉んでやる。


一日なにをすることもなく洗濯機を回してお風呂で本を読んで乾燥機に移してベッドで本を読んで洗濯物をしまってリビングも寝室もあまりに整然としていたので仕方なく自分の部屋を片付けてすこしだけゲームしてフローリングで本を読んでついに暇を持て余して犬を連れて買い物に行き、普段なら10円の差に悩む肉と野菜を気にすることなく買い揃え、夕方からこんこんとビーフシチューを作ってやった。パイ生地から自分で作って、オーブンでパイシチューにしようと思った。アホみたいに煮て、アホみたいに工程が必要なものをクックパッドから吟味して作った。ちょっと味見したら心底おいしくて驚く。手間と時間と根気さえあれば料理が失敗することはまずない。失敗したと思うときは、大抵どれかが欠けている。すくなくとも私の場合は。えらくおいしい手間のかかったものを呆然と見ながら、私は、もしかしたらこうやって生きるべきなのかもしれない、とほんの少し思った。こうやって毎日おいしいものを作って、家を綺麗にして、あまった時間で本を読んだりゲームをしたり文章を書ける。えらく魅力的な生活だった。かつて一人で、まだ仕事をしてないときはそんな風に生きていた。自由に、孤独に。いつから私はこういう生活をやめたのかもう覚えていない。私はたぶんもう一度そういう人生を選ぶことによって、カンペキにピルケースやら納まらない神経痛なんかとはおさらばできるに違いない。甘美な囁きだ。案の定パイ生地は余りそうなので、明日ミルフィーユかカスタードパイでも作ろう。どうせ今週はまだ長いのだから。私は溜息をついて、めざとく鼻を鳴らしながら私のふくらはぎに顔をおしつける犬のあごをむきだしの足でつつきながら携帯をゆるゆると弄り、『おいしい赤ワインとバゲット買ってきて』とだけ彼に打ち、ああ帰ってくるまでまたゲームでもしてようかな、とかしょうもないことを思う。


私のくだらない復讐を見て彼は一瞬ぎょっとしたが、ややあって、素直にとてもおいしいと言ってくれた。こういう快感もなかなか悪くない。一般的な専業主婦はいったい毎日何を張り合いに生きているのだろうと思っていたが、おそらく答えはこれだろう。私を捕えた復讐である。「何故こんなに手が込んだ料理を作ったのだ、いや、無論悪いわけではないが」彼の選ぶワインはえらく渋い。辛いと言ってもいいくらい。私はもっと甘やかでしゅっとした味の―おもに白のほうが好きだけど、味の濃い食べ物とはこういう物のほうが合ってしまうのもまた致し方なく、そういった意味ではまったく良い趣味だと言わざるを得ないだろう。余計な以心伝心だった。「つまんなかったから」綺麗な顔。これ以上ないほどワインが自然に景色に溶け込む。「身体を休めろという意味だったのに、君は…」好きなことはいっぱいしたから、もうじゅうぶんなのに。「薬も飲まずにじっとしてたら、いっぱい考えなきゃいけないから、やだ」ああほらそうやってすぐに顔をしかめる。まずいことを言ってしまった、みたいな顔をする。私の気持ちをわかっていなかった、みたいな顔。やってらんない。これ以上優しくされたら、煮込みすぎたじゃがいもみたいにどろどろになって、何も残らなくなってしまう。「すまなかった」


最悪だ。


残ってたワインを全部飲んで、私はおそらくかなり良い値段であろうその瓶をまったく躊躇なく傾けて注ぐ。少しでも気を抜くとレストランさながらに綺麗に注がれてしまうから、その前に。「嘘ついてたわたしが悪いのに」「そうかもしれない」「かもしれないって御剣検事の口から聞くとびっくりしちゃうね」「今は君も御剣、なわけだが。何度も言うように」「……………そういう、言葉は、怜侍らしくないと、思います」フフ、と彼は静かに笑い、自分のグラスから私と同じくらい残っていた量をするりと飲み干し、無駄のない洗練された動きでそれを足した。…ぐぬぬ。「…私は私生活が大変危なっかしい君をどうにかして守ろうと思って、君と結婚したんだ」私は押し黙る。二重の意味で。「だから、それが無駄だった―というか、そうしたとしても君の心のバランスが傾いだ時点で気づけなかったのか、と、君の嘘ではなく、自分の力不足に、酷く失望した」「それ、はね?」「わかっている。なんにせよ嘘はついてはいけない。君から仕事だけでなく罪悪感まで奪うほど私は無慈悲ではない。…しかし情けないオトコだ。この期に及んで、庇われかけるなど」なんでこの人はしょうもないくらい頭がいいんだろう。しょうもない。

ごめんなさい、と私は言って、そっとグラスを置く。「その、心配してくれて、嬉しい」どうしてもっと―もっとこう―上手いこと言えないんだろう。言葉がぜんぜん、出てこない。人を責めたてるときや庇うときには澱みなく流れ落ちる私の言葉は―自分の気持ちを語るときにびっくりするほどその能力を失う。ひどく情けないことに。「優しくしてくれるのも、すごく…でも、どうしたらいいか、わかんなくなって」彼は私を見ている。静かに。アルコールのせいで少しだけ潤んだ瞳で。「甘やかされたり暖かくされたとき、どうすればいいかわからなくて、」私はいつも、途方に暮れる。彼はさっきより優しく笑い、言う。「どうもしなくていい」丁寧に言葉を吐く。「君は世界の全てに反応を返そうと、しすぎだ」


そうかもしれない。


犬がテーブルの下でぱたぱたと尾をふった。私は、そうかもしれない、とだけもう一度、思った。この人の言葉は本当に慈悲深く、そして本当に無慈悲に私の奥底まで響いてしまう。どう生きればいいのか私はやっぱりよくわからない。彼は、怜侍は、しずかにワインを飲んでいる。酔って世界がぼけているのが、あまりに純度の高い優しさのせいか私にはわからない。ただ私は知っている。私はここにいる限り、少なくとももう、独りきりで泣かなくてもいいのだ。


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