うたたねの中で目が覚めた。広い―広い、部屋だった。私がまったく知らない、しかし既知あるいは既視の要素を持ってそこに存在している。たとえば自分が横たわっていたワインレッドのふかふかのソファはまぎれもなく怜侍の執務室のものだし、部屋の内装はやたらと広くはあるものの、大体は共有されていた。トノサマンのフィギュア、仰々しい花、高いティーセット、オーダーメイドのチェスセット―状況がうまく把握できない。新しい怜侍の、部屋?でも上級検事の執務室は一律の広さと間取りで―と私は体を起こして指の付け根でぐりぐりとこめかみを刺激しながら考えていると部屋のドアが開く音がし、無駄な時間を消費することなく閉まる。ノックも遠慮もないところからしてこの部屋の主だろう、つまりそれは怜侍だと思って私は顔を傾け声をかけようとす―


る。怜侍がいた。


あの特徴的な色のスーツにひらひらのクラバット、張った胸と腹立たしいほど綺麗にくびれそして高い位置にある腰――だが、華奢で柳腰といっても良かったはずなのに全体的に少し肉が増えている気がする。そのままの端正な顔は顎がしっかりして、色気のない眼鏡と眉間の皺はもはや顔をしかめずとも薄く見えるほどに深い。「…君は?」しかし、低い澄んだ声のトーンは何も変わらない。多少喉が痛んでいるのか、音に傷混じりではあるものの。「え―あ――え?」怜侍、と私が言って首を傾げると怜侍は眼鏡の位置を正し抱えた書類をソファの前のテーブルに置き、私をまじまじと覗き込む。「……おなまえか?いや、しかし―君は今、公判中のはずでは―」


近づいた顔はやはり怜侍だが怜侍ではない。なんていうか、一言でいえば、老けている―でもふわりと届いた匂いは紛れもなく怜侍の使う香水と体臭がきれいに混じった、怜侍の匂いだった。間違いない。「…状況を確認するか。君は何故、ここに?何をしていたんだ?」「わ、わかんない…お昼休みに怜侍の執務室で紅茶、貰って―それで」怜侍は組んだ腕の上で指をとんとん、と動かし、眉を寄せる。「執務室?ここのことか?」「や、違う。というよりいつからこんなに大きな部屋に?」私の言葉を聞くと、怜侍はそこで唇を結びむう、と唸る。「…その問いには後で答えよう。君の香りが随分幼いが―昔のものでも使っているのか」


怜侍が私の隣に座り、まじまじと私の顔面を見てくる。目を細めて。い、居心地が悪い…「何も変えてない、けど―」顔が近い近い、なんだか怜侍なのに怜侍じゃないみたいに狼狽もしない、呆れたように顔を赤らめたまま目を閉じることもしない、冷静沈着な表情のまままじまじと顔を眺められるのはやりづらい。「……うム、幼い。やはり」そしてこの感想である。「なにが」「君の顔が、だ。正直に答えたまえ―私は老けているだろう」私がうぇっと変な声を出すと怜侍は唇を持ち上げ笑い、「やはりな」と納得する。「信じ難いことだが、君はどうやら過去のおなまえらしい。私の記憶から推測するに、8年前程度、といったところか」


「…は?え?じゃあ怜侍は、その、8年後の怜侍ってことになるの?」「君から見れば、そうなるだろうな。ほう…そう思うととても興味深い、懐かしいものだ」私はまったく状況を噛み砕ききれてはいないが、怜侍はまったく楽しむように私を見ている。腰に手まで回して。「ちょ、え、ひえ!なにしてんの?!」「君こそ何をそんなに怯えている?冷たいものだな」フッと小馬鹿にしたように顎を上げ、怜侍が笑う。な、なにこれすごくくやしい―「私の怜侍はそんなに慎みのないひとじゃないもの」「心外だな、それは。君が私にそう望んできたのだろう―満更でもない癖に」


「うっ、うううう…でも」でも、と私は繋げる。ちくりと刺さる棘のような、嫌悪感にも似たなにかだった。ここにいるのは怜侍だ。それは間違いない。声も匂いも言葉さえ、私の記憶に触れる全てはそれを怜侍と認識する。が、それでも私の中には残っている。私に触れるのもおぼつかなかったり、その殻を破ることができなかったり、でも一度それが壊れてしまったら涙だって流してしまうような濃厚に煮詰められそのまま凍らせた感情を持て余す綺麗で、優しい、不器用な怜侍を私は知っている。だから誤認が、棘になって刺さる。触れられることへの嫌悪にさえ匹敵するように。


「私の怜侍じゃない、から。やだ」笑われる。「臆病だな」「…ハラたつなあ。会ったときみたい」「ならば巡り巡って元の性格に戻ったほうが近いということだろう」「そうならないように気を付けることにするね」怜侍は笑いを納め眼鏡を外し、私をそっと見据える。「…そう望んだのは、君だ。――触れても?」器用でない表情の作り方も、だからこそ視線からせつなく漏れ出してしまう情愛も、うっかりしたら呑まれそうになる。私が黙って俯くように頷いたところで、そっと怜侍が私の肩を包んで胸に引き寄せる。「どうしてこんなことするんですか」「単純に、懐かしいからだ。拾いたての子猫のように毛を逆立てる君が」「……かわいくないうそ。ばかみたい」「今ならもう少し余裕をもって愛せそうだが、どうやらお気に召さないらしい」「別にわたし、あなたに飼われたくて結婚したんじゃないもの」怜侍はとても懐かしそうに頬を緩ませる。「――そうだったな」過去としての目で私を見る。違う。私は怜侍に、弱いものであってほしかったのかな。自分が隣りに存在するために?なんておぞましい仮説だろう。ただ傷を―誰かに―できれば自分より―弱いものに―舐めてほしかっただけ、だろうか。私は押し黙る。怜侍は私を解放する。そうして覗き込むように、子供に語りかけるように私の頭に手を乗せる。


「怜侍はまだ誰かといたい?」


あなたはとても人を欲しているように見えない、と私が小さな声で繋げると、怜侍は静かに息を吐く。「君こそ、出会ったときのようなことを言うのだな」「―お互い人見知りってことなんじゃないかな」「それは、否定できないが。―しかし私がそういう存在ではないと一番知っているし、知っていた、のはおなまえ、君だろう」「今でも?」「人がそう簡単に変わることができるなら私達の仕事はもう少し楽になるはずなのだが、な」私は顔を上げ、怜侍を見る。冷たく優しい、穏やかな顔。晩秋の夜みたいに甘い。もう一度寄せられた胸はやはり記憶を繋げる匂いで満ちている。私は目を細め、怜侍は背中に触れる。「見知らぬ男に触れられるのは抵抗があるか。悪くない可愛げだ」「見知った人だから抵抗があるの、浮気者」「な…!それは、違う!君はおなまえなのだからこれはつまり―」少しだけ滲んだ涙を何度か瞬きしてやり過ごし、怜侍の頑丈になった腰に抱きつく。何が恐ろしいのだろう、きっと支配ができなくなることだ。支配の外に抜けられてしまうことだ。そうなったら―何一つ自分の手の中に残るものなどないと、私は知っている。


怜侍の胸は暖かく、ひどく私を睡眠に落とすことに長けていた。「君は本当に臆病だな」私を殺す優しい毒は、甘く耳から浸透して蕩かしにかかる。「私を支配する怜侍なんてやだ」きっと一緒にいられなくなってしまうから。怜侍がそうっと、息を飲み込んだ音がした。「―いずれ怖くなくなる」「そんなことない」「ある。信じたまえ。かつて私がそうだった」私の目はもう開かない。ただそのまま滑り落ちるような手足の感覚、怜侍が肩を抱える感触。「また会おう、8年後に。おなまえ」




すとんと落ちて目が覚めたのは、あの広い部屋と比べてしまうと十分な大きさのはずなのにえらくせせこましく見える怜侍の執務室だった。私の肩からはジャケットがずり落ち、怜侍はデスクで黙々と仕事を片付けていてこちらにはまったく気づかない。「怜侍」私の声が僅かに震えていたのは、ただ事実として部屋に響いた。「ム、おはよう。もう5分もしたら起こそうと―どうした?」怜侍の冷たすぎる、優しくない顔は驚いたように私を見る。私は鼻を啜る。「なんでもない」悪い夢みたいなひと。今までもこれからも、このひとは私を愛で肥やすナイトメアとして、少なくとも8年先まで在り続ける――死にも等しい安寧と共に、私の傍に。


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