※明治期パロ





愛とは賭身の奉仕のことだ――と、私は理解していた。それは嗜みであった。まつこと浮世は、女の価値観に対して厳格極まりなく。自由と云う言葉はにべもなく前提として殿方のために存在している。が―それを声高に不平等と吟ずるつもりもなく、私はただ、この世はそういうものである、という心持ちでいると、生きていくのが楽になる、と知っていたのである。なぜかというと、たとえば私は伯爵家の生まれで、戦で財を成した由緒正しき軍人の名家で、父も祖父も曾祖父も叔父も叔父の息子達もすべからく惚れ惚れするほど白く美しい軍服に袖を通すことを自らの誇りとしていて、そうして、私は、なかなか出来なかった待望の子にして決して護国の徒となることはできない一人娘だった―という皮肉な現実の元に誕生した所為かもしれない。愚かしいことに、家人は皆私にそれを隠していた。私が女では軍人になることができない、とはっきり母から涙ながらに告げられるのは女学校を卒業する間際、御剣様との縁談が舞い込むほんのすこし前の話で――私といえば、海の兵法だけでは飽き足らず陸戦における兵の動かし方まで学んでいた頃であった。


疎まれる視線に耐え切れず、苦手な裁縫には真摯に取り組まず多くの時間を独学の軍学に費やし逃げていたのは確かに私であった、が―それはある種死と呼んでも差し支えないほどの衝撃となって私を襲った。自らの立ち位置を失い蒼白の面で唾を飲む私に―祖母がきっぱりと、自らの身体を恥じて泣く母とは対照的に、冷徹かつ有無を言わさぬ声で告げる。「素晴らしいお話がちょうど、来ているのよ。叶わぬ愚かな夢より、女は明日の我が身を護らねばなりません」―と。気高き軍人の妻として幾十年も生きた女の、それは一つの結論だったのかもしれない。私にとっては、知る由もなかったが。「何よりおなまえ、貴女が家としても人としても位の高い方と結ばれるということは、わたくしや貴女の家―という一つの国を護るということに他ならないのですから」それは祖母にとっては私に向けての精一杯の祝詞であり、私にとっては、逃れられぬ呪いの再確認でしかなかった。




話と時間軸を、そっと戻そうと思う。ただ、私がこのようなことを考え心ここに在らず、といった風貌でいるのは至って不躾極まりない場であったということだけが、気恥ずかしい。つまらぬ互いの身の上話が流れていく。己のものは勿論だが、相手方のものも、同じく―男であり、軍職を選び、将校。これだけで生きる価値としては十分、真面目に聞いていれば嫉妬に喘がざるを得ない。一つ気になることがあるとすれば、彼の方も私とさしてたがわぬだろう表情で唇を結び、相槌を打つことに全身全霊を賭けている―ということだけ、だろう。そうしてあれよあれよという間に私達はぽっかり、残されてしまう。私は名しかしらない。御剣という侯爵家の、うら若き当主であり―そこに至るまでの苦労だとかそういった話はまるで私は聞き流していたので、「随分お若くて、いらっしゃるのですね。お父様は―」「父は私が幼少の折、他界しました。その頃より私が御剣の当主です」などと致命的な失態を犯したりもした。が。「…し、つれいいたしました。それは、その…たいへん優秀にして、私のような者には想像を絶する苦労をなさってきたのです、ね」「いえ…どうということはありません。父は優れた身内を私に遺して下さったので。おなまえ殿こそ女学校では大層優秀であらせられた、とか―例えばどういったものがお得意だったのですか」「………その。ど、どれも…あっ、いいえ、お裁縫は苦手でした。は、針が…恐ろしくて」自分でも何を言っているんだと顔が熱くなったが、まさか兵学校に少しでも秀でて入学するため必死だったとは口が裂けても言えまい。しかし、これはえらく相手としては意外かつ淑やかな女性的魅力を秘めた回答だったようで、えらく柔らかく微笑まれてしまった。「それは…それは」そして、その怜悧と呼んでもよい端整な面に浮かべられた表情は少々屈強な軍人と呼ぶには儚く、美しすぎたと表現するほかない。


豪壮な松の木の下の大きな池で、見事な錦鯉が幾匹も舞っている。美しく色とりどりに回遊し―私はそれを無心に眺めている。このひとも、私も、おそらく夫婦を作る気はないのだろうと気がついたら、本当に茶番に思えて仕方なかった。互いの親族のしたり顔がこの世で最も愚かなもののような気もした。御剣様はどうにか断る口実を探しあぐねているようにしか見えなかったし、私もまた、体よくできれば穏便に縁が無かったという声を待ち望んでいた。これからずっとこの人の家で、物理的に奉仕し、子を為し、精神的にも全てを預けて祖母のような鬼にならなければいけないのかと思うと私の心に鬱屈としたものばかりが泥のようにわだかまった。もしくは母の血を引き、子ができにくい身体であれば、最悪持て余されて離縁された挙句貰い手を失い尼になる覚悟まで決めなければならないだろう―それも、また、既に一つ死が与えられた私にとっては恐ろしいことでもなかった。そして、御剣にとってもまた、望まぬ縁談を無理に上官から預けられた挙句、元来己を跡継ぎの官僚にしようと教育を自らの手で施してきた狩魔―父のつての、勝るとも劣らぬ優秀で完璧な男である―に背を向け軍人となる道を選んでしまったがために、侯爵家の坊と嘲笑われることのないよう多くの同期らのように女遊びに精を出す間もなく努力してきた男としては耐え難き空間であった。彼は最初から破談にする予定だったのである。相手方には、大層申し訳なかったが――しかし、この期に及んで気の利いた話題の一つも提供することができない。自分に出来ることといえば、女にとっては何一つ面白みのない艦の上の話だけだと、大いに恥じていた。



「…さ、三十六計という言葉を、ご存知だろうか」



空気を変えるために庭の見事さを語る段だと私は理解して彼の言葉を待っていたのだけれど――私の耳に落ちてきたのは清国の兵法書の文句であり、私は肝が冷えた。この御方は一体どこで私の卑しい軍人遊びの癖を見抜いたのか、と―「清の…兵法に通ずる故事が纏められた、書物なのだが…これはかの有名な"三十六策、走るが是れ上計なり”の故事とは、まるで関係がなく―私はこのように優れた兵法書が軽んじられることが遺憾で、ならず」瞬きを繰り返すほかなかった。あれ以来ずっと互いにだんまりだったつまらぬ縁談という名の茶番は、ふと愉快なものに見えて。ここは紛れもなく相手方の博識と気高き御心を褒めそやす場面だとわかっていても―「…まったく、遺憾なことです。弱国清の黴臭い兵法と馬鹿になさる方も多いですが、流行りの独逸のそれらとは違う―重い雪を受け流す柳の枝のような柔軟さをもった書と、思いますわ」そのときの御剣様のお顔といったら、まるで寝ぼけ眼で鰯を頼んだのに大ぶりの鯛が出てきたとでもいうような呆気に取られたものであった。そして、僅かに間があったあと―目を閉じ、唇だけで笑われ、「これは…これは。大変なご無礼をしたようだ。”ご存知だろうか”などと、一人の軍略家に向けて。女学校ではそのようなことまで?」「…ふふ、まさか。この程度、独学でございます。江田島の予習を、と思いまして―――こちらこそ不躾な真似を、してしまいました。いくらこれきりで断たれる縁とはいえ」


もはや鯉の色も鯛の味も、つまらないものでしかなかった。そうしてこの縁の行く末も。女にそのようなつまらぬ水を向けてしまう、呆れるほど誠実で不器用な御剣様とこればかりになってしまうことはやや残念ではあったが、先ほどとは違う驚愕の表情で私を見つめる御剣様のお考えになっていることは明らかであった。「…気づいておられたのですか」「これほど素敵な方と互いに望まぬ茶番を演じなければならなかったというのは、まことに残念なことです」「そ、れは…こちらこそ。いや…しかし、どうやら誤解があるようだ。白状すると、私は最初はそういった算段でした、無礼極まりないことに―」そこで御剣様は白く一点の曇りも無いその軍服の胸に手を当てられ、続ける。「―ですが、正直な私の気持ちとしては。女学校において兵を尊び江田島を望むような方とは、この先も永く有意義な話ができるのではないか、と――この数刻でよくご存知かと思いますが、私は世の女性が興味をそそられるような洒落た話は何も、出来そうにない」御剣様は童のようにむっと口を結ばれ、そして、こつんと少しだけ頭を下げるように傾ける。「どうか再び、この不作法者と、会っては頂けないだろうか」私は驚いて目を見開き、面はえらく熱くそして赤くなるのを感じ、「は、はあ」などと間の抜けた声を上げてしまうよりなかった。「あ―あ、こちらこそ。その、光栄、に、ございます―――口も慎めず針もうまく使えないような未熟者ですが、よ、ろしければ」御剣様は顔を上げ、息だけで笑われる。「―私も指揮刀遣いには未だに慣れません。似たようなものでしょうな」




金紗の鯉


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