※明治期パロ





たとえばその知らせを受けた時、龍一さんの庭を霙が濡らしているだとか、屋敷を鈍色の雲が呑んでしまっていたりすれば私は幾許か、覚悟を決めることができたのだと思います。しかし小春日和の柔らかな朝に、その言葉はあまりに不似合いでした。虚構との境目を浚うことさえ、できません。「戦に出るよ」と静かに、お庭の空気を吸いながら呟いた龍一さんはいつものようにのほほんとした、優しいお顔をなさっていました。あの美しい、蜜を湛えた紅の花(椿のことだ―龍一さんは花の名を記憶しようとなさらない、おそらくそういった呼称に重要性を見出せないのだろう)がもうすぐ咲くのが楽しみだね、とでも囁くように。私は、朝餉の支度の手を止めて、息を呑みます。自分の吐息がおどろくほど震えているのがわかりました。わかっていたこと、いずれ、いずれ―始まることだと識っていました。私は、ただ、事実として。今日び我々の国は、翼を受けた猛虎のように境目を失くして走り出していました。亜細亜の末席の小国―という位置を払拭するために、それは不可欠なことでした。それは事実だったのです。私の意図、龍一さんの意図、国の意図に関わらず。誰かの血を流さなければ、いつの世も、はっきりとした結末を得ることは出来ません。皇國がこの先も生き永らえるために、その血は必要なものでした。皆、それをもちろん知っていたし、望んでさえいたかもしれません。長い間目を閉じて研ぎ続けてきた自らの牙が、生命を脅かす列強の肌を傷つけることができると気づいたとき―果たしてその牙を試さずにいられるでしょうか。この国は幾百年、転寝をしてつい先刻目覚めたばかりの虎でした。放たれた火は、消されるまで広がり続けることでしょう。そして翼虎の戦に駆り出されるのは、地上を覆う黒雲の裏地の銀のビロウドの上で静かに息を潜めていた龍―――でした。心優しい、大地に恵みの雨をもたらす龍。


「率直に言えば、ぼくは戦は嫌いだ。あんなもので人や国の在り方が決まってしまうなんて、人間は髷を結い刀を振り回していた頃から何一つ進歩できちゃいない。けれど―」龍一さんは、人を諭すのとてもお上手で、よく近所の子供の諍いをうまく宥めていらっしゃる―それはおそらく、彼に邪気が無いから、だと思います。龍一さんの言葉には邪気がない。ただ一つ、どうか物事は何事も善くあってほしいと願う真摯さだけが、たっぷりと蜜のように湛えられているからでしょう。「それでも決まっていることがある。ここで日本が敗れたら美しい言葉は二度と紡がれないだろう、ぼくの庭は焼けてしまうだろう、君の物語は血と煤で穢れてしまうだろうということだよ」そこで龍一さんは朗らかに微笑まれ、「まあ、庭なんていくらでも造れば良いのだけど」他の二つはそうはいかないだろう、と仰い私の表情を見据える。静かなお顔で。私は、物語とていくらでも書けます、あなたの、龍一さんのためでしたら。と唇を震わせようとしましたが、碌に動くことはありませんでした。うううう、という泣くような呼気が溢れ出ただけで。



「御剣のことは覚えているかな」



屋敷の内縁に腕を組んで座り、龍一さんはゆるゆると世間話のように絶望を紡いでいく―私は、「はい」と聞こえるように努めて唸ることしかできませんでした。「そうか。御剣は、ぼくと違って―自ら刀を振り回す道に入ったんだよ。奴の家からすれば、そりゃあ、大騒ぎだったらしいけどね。無理もない。何だってこの先の溢れるような財をもってする健やかな安寧を自ら投げ出して、危険なことをしたがるのかと―気を違えたかとまで言われたらしい。ぼくとてそう思う。だが、御剣は何一つ迷ってなんていなかった。護国に生涯を捧げたいと誓い―そうして死にたいと願っていたんだろう、そうして打ち立てる豪華な墓標のような名誉こそが人生の意味だとも、また」すとん、と間に龍一さんの吐息が落とされて、私はぎゅうと唇を結ぶ。「ぼくにそれはどうしても理解することはできない。この先もおそらくずっと、そうだろう。そんな豪奢な墓こそが男の人生の本質だというならば、男に言葉など、必要ないだろう?」「…故に殿方は、文学を軟弱と忌避なさるのではないのですか」「おそらくね。だからぼくは文学を尊んでゆきたいと思っている。そうして、いずれそれこそがぼくの墓標になればいいと、願っている。もしこの世から軟弱が一掃されてしまうようなことがあれば、屈強は双子の半身を失ってしまう」冗談めかした音で龍一さんは笑った。


「そういった意図で、ぼくはこの国を護りたいと、初めて思ったんだよ、おなまえ。冷えた麦飯を食らい泥水を啜ることになったとしても――その結果ぼくが美しいと感じたものが、裾を濡らすことにならないのだとしたら取るに足りないことなんだ」私の臓腑の底から湧き上がるような負の感情は、その、あまりに無邪気で純然たる言葉によって濾過されてしまいました。「おなまえ」板張りの床に、龍一さんが手を這わす。「此方へ、おいで。朝餉は遅れても構わないから」私はふらふらと、崩れ落ちそうになりながら、縋り付いてしまいそうになりながら移動する。呼吸する。それでも、ああそれでも私は、どうして貴方までがそのような熱病に急かされなければならないのか理解することができないのです。とても。女の護るべき国など、この家の囲いの内にしかありません。龍一さんは丁寧に私の肩を抱き、すっとした硬くて太い、もう片手の指で庭の隅を指差します。「椿があんなに大きな蕾をつけている。楽しみだね」私はたまらず涙を零す。


ああうつくしいものになど、あなたは永遠に気づいてしまわなくて、よかったのに。



銀糸の褥

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