気がつくと駅に立っていた。そこは自宅の最寄り駅で、私は恐らくごくごく普遍的に出勤しようとしていたのだと思う――しかし、どうにも記憶はアイマイだった。何故愛車に乗っていないのかもわからなかったし、助手席からあの弾んだ果実のような香りが流れてこないのかもわからない。ただ私は習慣として仕事用のアタッシュケースを持ち、黒のコートを着て、駅に電車が入ってくるのを大人しく列の後方で待っている―それだけが真実だった。駅には何の違和感も無かった。たとえば人がいないとか、人が全て影のようにあやふやだとか、動物の顔をしているなどということもなかった。皆家畜のような目で時を消費している。私はそこで、眠気のあまり空間把握ができなくなったのだと自分を納得させることにした。車検の最中なのかもしれないし、彼女がいないのはままあることだ。決して常に一緒に出勤していたわけではない。そう思うとふっと心は和らいだ。朝らしい朝の風景を飲み込むことができた。誰かが缶コーヒーを飲んでいる。ガムを噛みながら手に持った単語帳に赤いシートを重ねている学生がいる。新聞を手狭に畳んで読む会社員がいる―至ってそれは現実であった。



満員電車というものに私は縁が無かった。高校を出て直ぐに狩魔検事に連れられアメリカに渡り、ライセンスを取って以来―そもそも公共の交通機関を利用する機会も少なく。日本で学生をやっていた頃もさしてキオクがない。一区間の所要時間が短かったせいか、朝が早く俗に言う通勤ラッシュの時間帯からは外れていたせいか、車両にすし詰めにされるという経験はほとんどないように思える。控えめに言っても良い気分ではないが、しかしどちらかといえば自分に違和感をもたらすのは他人が責任を持つ物によってただ運ばれているということで、自分がハンドルを握るものとはまるで意味合いが違って落ち着かない。好んでこれを使って出勤する気はとても起きない――そこで、がたんと床が跳ねて自分に向かって制服姿の少女がバランスを崩してつんのめった。私が反射的に下を向くと、私のちょうど胸辺りにぶつかった少女は太縁の眼鏡を重たくかけたおとなしそうな顔で、申し訳無さそうに会釈する。髪型は二つ結びで、やわらかく巻かれたマフラーは品の良い薄桃色にバーバリー・チェックが控えめに乗っていて、いかにも清楚で穏やかそうに見える―おそらく都内に数多く存在するそれなりに高級な私立に通っているのだろう、化粧気のないあどけない顔をした育ちの良さそうな少女だった。私はそこでさして少女から興味の対象を外し、軽く顎を引いて気にしなくていいという意で会釈に応えると目を閉じた。どうかこの非日常的な何かからはやくこの身を外したい、と願う―自分のテリトリーにいつまでもこれだけの不特定多数の人間を入れているのは落ち着かない。


息を呑む音がした。


す、と。それは揺らぎだった。人が何か感情を呑むときの。たとえば人間が嘘をつく―人間が無意識に何かから逃れようとする―人間が隠そうとする隠れようとする時の何か。超能力と呼ばれるほど卓越したものではないが(そもそもそんなオカルティックな力はこの世に存在しない)、優秀と呼ばれる検事は皆それに近い勘で、その揺らぎを逃さない。おそらく無意識もしくは意識的に我流のコールドリーディングを行っているのだろう。とにかくそういった一種の不自然を私は捕え、一旦閉じた目を開けた。その違和感は探るまでも無く、目の前の少女から発せられていた。唇から漏れた一瞬の吐息には度し難い熱のようなものが乗っているような気がして――私は注意深く視線を動かす。少女の後ろで俯き加減の男が見える。不自然に身を寄せて――私は至って自然を装い、えらく立っているのが億劫で狭苦しいという顔をしながら男を押し退けるようにその間に身体を僅かに差し入れた。生暖かい手が自分の身体の脇を通って抜けていった。少女よりは高いが、私よりも遥かに低い位置にある脂ぎった頭に冷え切った視線を向けると男は小さな目からぎらついた欲望を迸らせた。…汚いオトコだ。捻り上げてやりたいところだが、証拠もなしにそんなことをしては私への果敢な敵対心を見る限り逃げられるのがオチだろうし、場合によってはこの大人しそうな少女に向けて捨て台詞を吐くかもしれない。杞憂かもしれないが、罠は出来る限り少なく確実に張りたい―と思いながら私はそしらぬ顔で目を細める。この位置からでは少女の顔は見えない。私は唇を結んだまま二人から注意を逸らさないようにしておく――と。私は目を疑った。少なくとも自分の常識では考えられない事態が起きている。


まず、息を振るわせたのは男だった。先ほどよりもずっと大きな揺らぎだった。言うなれば先の揺らぎは、意図的な―誘導と言っても差し支えない匙加減だったと認識を変えてもいい。私がはっきりと証人や被告と相対するような集中を持ってしなければそれと見破れない程度の―つまり欲に駆られて盲目になっている一般人を呑むには充分すぎる簡素で確実な罠がもう一つ張られていたことに気づく。少女のブレザーの袖口から伸びる、指半ばあたりまで覆う紺のセーターから見え隠れする白く細い指は、少女の背後の男の股間を服の上から慈しむような動きで撫でている―目眩がした。吐き気も共に。少女の表情は一貫して見えない。髪を結んでいるゴムは黒く細いビニールのものだった。シンプルかつ、目立たない。男は汚く息を荒げていく。噎せ返るようほどに欲望が醗酵し、腐臭にまで至ろうとしていた。少女は嫌がることもなく、事も無げにただただそこを擦る。男が背を震わし、都合よく回っていた次の停車駅の案内に―酷く耳障りで機械的な到着音が混ざる。限界だった。私は無言で少女の腕を掴み、そのまま誰に何を言われるでもなく開かれたドアに向かって大股で猛進した。残された男の欲望の残り香が、自分の上着にも染み付いているような気がする―



「君は」



冷たいホームの空気は肌を煽るように刺すが、その辛辣さはむしろ心地よかった。粘るような熱気の中で蒸された身としては。「―何をして、いたんだ」聞くのは怖ろしかった。何か知ってはいけない世界に無防備に片足を放り込んだような気がした。少女は俯いていた顔を上げ、耳にしっかりと差し込まれていた音楽プレイヤーのイヤホンを外した。そこには頑なさがあった。ただひとつの、信念でも目的でもなく頑なさのみが。「痴漢をされていたので、それを仕返していました」「憎しみを人に反射させていたのか」「…違います。別に憎くなんて、ないです。痴漢されるのだって嫌じゃないです。だからああしていたんです」今度こそ後ろに倒れるかと思うほどの衝撃だった。何を―言っているんだ、この小娘は?よく上から下まで観察してみれば制服はさして知識の無い私でも知っている程度の、それなりにレベルも高く厳格な有名女子校の制服―スカート丈は膝上程度がいいところだ。至って普通の、お嬢様ではないか――私の手は払われる。「お兄さんだって。どうしてあんなことしたんですか」「…あんなこと?それは、」「途中で、入ってきたでしょう。最初から組んでらっしゃったんですか?それとも良さそうだから自分も混ぜてもらおうと?」初めてそこで少女に表情が浮かぶ。せせら笑うように、卑屈と傲岸を同居させた―私がもうすこし直情的で、そしてフェミニストでなければ胸倉を掴み上げていても可笑しくないほど扇情的な歪んだ顔をしてみせた。「君を助けようとしていたに決まっているだろう!何を言っているのだ―」少女はばかばかしい、といった体でため息をつく。人間の良心に唾を吐くように。


「…。わかりました。じゃあ、早く行きましょう」「…は?」苛々と少女は眉を寄せる。「……だから。あそこでするのは、嫌だったんでしょう?他の人がいるのも。降ろしたんだし、ホテルじゃないんですか。私今日は二限には学校にいたいので、早く」宇宙人と会話をしているとか彼女は実はまったく日本語を理解していなかったとかそうであればどんなに良かったであろう言葉が次々と自分の耳に流れ込んでくる。頭が痛くなってきた。仕方が、ない―こうなったら―「そういった目的では、ない。純粋に君を助けようと思っただけだ」倫理の講義を個人的にしてやるしかない。「…どうしてそんなことしたんですか」「どうもこうも。目の前で人が刺されて倒れたら、君は救急車を呼ばないのかね」「……そりゃあ、呼びますけど。でもそれとこれとは話が―」「どう違うというのだ。人の命が賭かっているからか?ただ傍観した自分にも罪が発生するような気がするからか?」「そうじゃなくて。私なんかを助けて何になるっていうんですか。大人しそうで押し切れそうな女子高生とああいうことしてみたいって以外に、何の理由が」「生憎私は君の女性的箇所には興味が無い。わざわざこんな説教じみた真似をしているのもただの老婆心からだ。あんなことを繰り返していては、いつか君まで捕まるぞ、という旨の忠告だ」


少女は視線を流すように私から斜め下に逸らす。「……むかつく」「どういたしまして。感謝したまえ、君の名前と学年を控えて学校に連絡しないだけ、な」生意気で反抗的な瞳はやっと私と―私と初めて、目をあわせたような気がした。「…これでも私、調整してるので。遅刻が度を越さないように、家に連絡が行かないように、成績が落ちないように」「そのストレス発散とでもいうつもりか。月並みだな」「そりゃ私は至って普通の人間ですから。でもそういう調整をしておけば誰も私のこういう節度を守った遊びを咎めないんです。物を盗んで店に迷惑かけたり薬やって頭を馬鹿にさせたりはしてないので」「歪んだ理論に捻くれた筋ばかり通すんだな、君は。………えらく馴染み深い。初対面とはとても思えない」少女は初めてそこで、悪意を込めずに笑う。「…なんですか、それ。ナンパ?」「…そういうつもりならもう少しムード作りに専念している。ただの感想だ」「……へんなの。そんなにかっこいいのに、変わってますね」



君こそ、と言おうとしたときには彼女は既に再び耳にイヤホンを差し込んでいた。おそらく私の存在は、やんわりとそしてやさしく受け入れるというやり方で拒絶されたのだ。無理もない、と思いながら―すっかり人のいないホームの、次の列車の到着アナウンスに従って白線の内側に立つ彼女の横に並ぶ。意識的にでなければ表情をはっきり浮かべることができない感情の抜け落ちた横顔、世界そのものに背を向けるようなイヤフォン、アンバランスで偽悪的な全ては―見知った朝の助手席の彼女を思い出させた。「―――おなまえ」と、自分にしか聞こえない程度の音量で、音の波にすっかり溺れて聴こえないだろうと思っていた―彼女に向かって呟くとぼんやり細められていた瞳がゆっくり光をもった。そして、不思議そうに私の顔を見た。誰の名前ですか、と揺らぎの無い声が私に問う。私の妻だ――君によく似ている、と私は応える。見知った電車がホームに飛び込んでくる。へえ、と彼女は面白そうに声だけで笑った。「偶然」


冷静な親しみを噛み締めながら私は再びドアの開かれた鉄の箱に戻る。正しい位置まで運ばれるために。



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