私達はたぶん、お互いのことをよく知らない。…夫婦においてあるまじきことなのかもしれないが、とにかく、そうなのだ。私達は出会って、少しの間一緒に仕事をして、結婚した。交際することなく。奇妙なことだと人は思うだろうし、何より私もそうおもうけど―とにかく夫は、そういう人間だった。私を愛しているとか、好きになったとかそういう理由でなく、私の能力とそれに見合わぬ生活態度を天秤にかけ、最良の選択をしたつもりらしい。少なくとも私のことは憎からず思っていたし、自分と同じような将来像や家庭への希望を抱いていると知っていたから、と言って―それはたとえば子供を作るつもりはまるでなかったり、結婚したとしても個と仕事をはっきり保ちたかったり、そもそも結婚という制度はこれまで育ててもらった親からこれから生きていかなければならない社会に移行する一大セレヴレイションとしか認識することができなかったり、そういった様々な偏見の一致の結果だろう。そんな、見合い婚のような計画の上で私達は結婚した。私は同級生よりはだいぶ早めに、彼はさして目立つ早さでもなく。たとえば彼は私の両親に挨拶に行った時に私の父が存在していなかったことにひどく驚いていたし、彼の両親への挨拶はそもそも天涯孤独のせいで不要だったというところで私はもっと驚いた。しかし彼の親族のようなものだから、と言われて代わりに報告した娘のほうの狩魔検事が―一番、本当に一番驚いていたことだけを覚えている。「私のことは、義姉と呼んでくださって構いませんわ」などと嬉しそうに、それはそれは嬉しそうにはしていたものの。


御剣は基本的に欲望全般に対して淡白で、ひどく厳格だがよくわからないところで抜けていて、作業のように日常生活をこなす人だということも、結婚してから知った。仕事しているときは本当にてきぱきときびきびとできる男そのものなのに―家に帰ってきて、次の日出勤するまで、彼はまったく途方に暮れているようにさえ見えるときがある。何をすべきなのか、何をしたらいいのかわからずに、ただ死なないように職務に支障が出ないように栄養バランスを考えて食べて睡眠時間を考慮して寝て身体や部屋を清潔に保ち、仕事に関する情報をメディアから抜き取り、本当にそんなことばかり繰り返して暮らしているのだ。人事ながらぞっとした。プライヴェートに関わることだけはやめておこう、と固く誓って嫁いだのだが、それは僅か数日で崩れ去った。私は休日に手持ち無沙汰を極めている彼に適度に、顔色を窺いながら、あくまで私がそれを共有したいのだという名目で自分の娯楽に巻き込んだ。なるべくとっつきやすいものを選んで。たぶん怖かったのだ。そういう風に生きていたら、ある日自分の生きがいがふっと消えたときに、その人は着陸する場所を失ってしまう。あっという間に消えてしまうんじゃないかと思ったから。



それくらい私達はお互いの背景を知らなかった。





私は裁判所で、自分の法廷に向かうためにエレベーターを待っている。…ここの裁判所のエレベーターは、なんだかひどく人を不安にさせる音をたてて動く。そりゃあ一般人にとってはそもそもこの建物の中でエレベーターを待つなんて状況が既に不安以外の何物でもないだろうが、そういうことではなく、重々しく薄暗く、私はあまり好きじゃない。数年前に大きな事故があったときに少なくとも改装されたらしいが、それならもっと真新しく明るいものにすればよかったのだ。…そう思うと、裁判所の雰囲気作りのためにこんなものにしているのか、とも思え、否定しきれずうんざりする。そうしてじっと待っていると、私の名を呼ぶ声がして、振り向く。御剣がいた。たぶん彼は公判が終わったところだろう、資料のファイルとバインダーと、証拠品のカバンだけを持っている。「おつかれさまですー」「君も。これからか?」「はい。いいなあ先輩、戻ったらご飯でしょう?私おなかすいちゃって」「…食べていないのか。マッタク君は―」私達が夫婦になるのはお互いしかいない空間でだけだ。少なくともこういった場において、彼はあくまで私の憧れの優秀な先輩であり、私は手のかかる後輩にすぎない。そこでりーん、と奇妙に明るい音が響いて下矢印の書いてあるパネルのランプが消え、銀色の扉がゆっくり開いた。彼は私に促し、私は乗り、B1と2のパネルを押して、二人格納されたところで戸を閉める。「なんでもいいから休憩中に適当に食べたまえ。飲むゼリー等の…頭が働かない」「むーーでも、わたしウィダーとかあんまり好きじゃないんですよ。なんかあれってちょっとロックのジンとライムジュースを混ぜた時の味に似てる―」がくん、と不思議な振動をもって重力の移動が止まった。…なんだろ?と思ったところで、電気も消えた。


どん、と鈍い音がした。後ろで。


とりあえず暗いので、自分のカバンからスマートフォンを引っ張り出して、バックライトで階数表示のパネルを照らしながら―下のほうの、B1より先に、緊急用のボタンがあったので押してみる。が、反応はない。たぶんだけど、物理的に止まったというよりは、電源が落ちたんだろう。停電も軽い地震も最近あまりに頻発するのでいい加減慣れてきたし、すぐに回復するだろう―と楽観して、本当に電源が落ちたように何も言わないせいで今の今まですっかり意識から外れていた御剣―がいたあたりに振り向く。そこで思い切り腕を掴まれ、引き寄せられた。それはもう―ある種背後から襲われた、といったほうが適しているくらいの異様な力で。ヒールでしゃがんでいたせいで簡単に私はバランスを崩して御剣に向かって転がり落ちる―といってもいいくらいの勢いで突っ込んでしまう。人為的に彼を下敷きにしてしまったわけだが、私はいちおう、「すいませ、大丈夫ですか―」と言おうとして息を呑んだ。荒い息と、歯が合わさって震えているような音がする。溺れかけた人間ががむしゃらに近くにあるものを引っ張るみたいな程度を知らない強さでぎりぎり身体が締め付けられる。そっとさっきの携帯のライトを再びつけて、御剣の顔を照らすと、そもそも色白の顔はもはや真っ青といってもいいほど色が透け、見開かれたままの目は焦点を失い黒目が静止できていない。唇は開かれ、めいっぱい呼吸をしているのにそれでも苦しいらしく肩まで使って息をしている。「先輩?」返事は無い。正直私は閉じ込められたことより―どんな凶悪な事件だったとしても常に冷静に対処し何事に対しても決して取り乱さないこの人が、この程度のことでこんなにも病的に怯えていることに驚いて、うろたえていた。さっきの謎の鈍い音は、たぶん彼が崩れ落ちた音だ―「怜侍」体を捻って、顔に触れる。そのまま頬を掴んで、私が顔を寄せる。「怜侍っ」声を大きくして、睨むように黒目を見ていたら―うろうろとふらふらと定まらなかったそれは、所在無くゆっくりと、私の視線とかみ合いはじめた。「どうしたの」唇が戦慄いて、息が何度も吐かれて、その合間で何か言っているのはわかったが、内容までははっきりとわからなくて、私は仕方ないからそのまま上半身だけ彼の拘束から抜けて、顔を胸に抱えるようにして抱きしめた。そうして背中を撫でた。できるだけそっと。


どれくらいそうしていただろう、暗い閉鎖空間だったし、時間経過も確認していなかったので永遠のように思えた。それでもだんだんと、拘束の腕は緩まり始めたので、私はゆっくり体を捻って、彼の隣りに座るようにして寄り添い、頭は抱えたままにしておく。御剣は私に縋るように抱きついたまま、体を震わせている。―こんなでかい図体して、あんなにでかい態度のくせに、こんなに弱くなるのかと、私は驚いて―とてもとても、感慨深いといってもいいほどに。私は深く溜息をつく。そして足で、彼がぶちまけたファイルらとカバンを引き寄せた。カバンはすこし重たくて、完全にファスナーが閉まっていなかったその口からは証拠品の入っている大小プラスティックの透明のパッケージが覗いていた。しまおうと思いさっきのバックライトを向けると、一番下のパッケージに入っていたのは重いハンドガン―たぶんちょっと古めの54式拳銃、つまるところチャイニーズコピーの銀メッキトカレフ―だった。なおさら危険なのでそれを取ろうとしたら、また、手首をすさまじい力で掴まれて、「だ―めだ」御剣が言葉を発した。はっきりと。「で、も」「それには、触るな――触るなッ、決して」「…はい」紛れも無い気迫である。縮こまっているにも関わらず、有無を言わさず私から意思を奪い去った。でも、やっと御剣が話せた。なんにせよ、それで彼に少しは理性が戻ってきたのは確かだと私は判断し、おとなしく証拠品からは意識を外して彼の頭を抱いて、撫でる。苦しげではあるものの呼吸もさっきよりは落ち着いてきている。「怜侍」「すま…ない、こんな―」「ううん。無理しなくていいよ、怖いなら」「いや、頼む…何か喋ってくれないか。静かだと、息が―息が苦しくなるんだ」手首を絞めていた彼の手は、解かれて指ごと私の指にしっかりと絡みついた。「そっか…うーん…じゃあ青のウィダーが胃の中のジンライムの味に似てるっていうのは知ってる?」御剣は呆れたように、切れ切れの息の合間で僅かに笑う。「…やめたまえ、私の間食をおかしな表現で語るのは」



ぽつぽつと私は適当に話す。我ながら何の脈絡もなく。犬のことや、仕事のことや、家が広すぎて戸惑うことや、今夏発売の好きなゲームのシリーズの新作のことや、なくなったら昔の話をした。私は本当に小さい頃、寝る前に歯磨きすることをやたらと得意げにしていた子供だったこととか。御剣は少しずつ穏やかになっていった、と思う。静かに。「あ、」彼のつむじに顎をこつんと乗せる。「私が怜侍と結婚したことをどう思ってるか知ってる?」間。「…いや」「怜侍ってさあ、危なっかしいじゃん、いろいろと」もぞもぞと怜侍が動き、おそらく抗議の意をこめて私を上目で睨む。「正直ね、最初は世話焼いてもらうために結婚したと思ってた。怜侍はどうせ、私なんていなくてもなんでもできると思ってたし―実際そうだし」私はくすくす笑う。「でも怜侍、あぶなっかしいから。よーく見てるとね。仕事してるときはわかんないけど、家にいるときとか、こういうときとか」もし一人だったら彼はどうしたんだろう。このあまりに恐ろしい、彼にとっては過去の何らかのトラウマの再現のような空間で、たった一人だったら。そう思っただけで私のほうが怖くなってすこしだけ強く頭を抱きしめる。「…よかった、よ。わたし。あなたと結婚できて」少なくとも単なる同僚だったら私は隙の無い彼に、何も、永遠に何も与えることはできなかったのだ。よかった、と思う。怜侍が壊れてしまわないように、何かができるということは。

彼はそっと、わたしの髪の中に手を入れ、首裏に触れる。「―私も、よかった」顔を上げて、そおっと空気が揺れて、彼の顔が近づけられただろうことがわかった。暗闇に慣れはじめた目は、彼の長い睫毛と、しっかりとした黒目が私の瞳を覗き込んでいるのを見る。「…君と結婚できて。そして此処に、いてくれて」―キス、された。とても優しく。あの結婚式の大袈裟な儀式めいたあれでもなく、義務のようにこなされる週一となんてことなく定められている情事の始まる前のあれでもなく、寝室以外での肉体的接触など狂気の沙汰だと思っていそうな彼によって―こんなところで、あまりに自然に。彼がもう一度私の唇を、もっと大きめに、吸う。「止まったとき、気が遠くなった。私は、子供の頃のある事件がキッカケで、地面の揺れの恐怖症なのだが―エレベーターが止まることは、特に、裁判所の、このエレベーターは、本当に恐ろし、い、というより、わからなくなるんだ―何もかも、こうしていることさえ―君を守らなければ、ということしか、考えていなかった。これでも」…じゃあ最初のあれは、縋ったというより、私を助けようとしたのか。自分が前後不覚になるほど怖れているものの中でも、そんなことを考えつくなんて、こういう人を危なっかしいと呼ばずに誰がその称号を得るというのか―「ばか」私は繰り返されるキスから逃れて、こちらから彼の薄い唇を食べてしまう。「怖いときは、素直に守られてればいいの」誰もそんなことで、あなたに失望したりしないのだから。



止め時が正直わからなくなって、このままだと色々といけないことになってしまう―のではないか―と思った瞬間に、邪な願いを打ち消すように照明が戻った。なぜこういうときの復旧は、えらく空気を読むのだろう―、明るい中だとなんだか無性に気恥ずかしく、それは彼も同じようだったようで、いそいそとお互い顔を赤くして距離をとる。たぶん、電源が回復としたということはすぐにこれも動き出すだろう。彼はすっかり落ち着いた様子でバッグのファスナーを閉め、ファイルを拾い集める。私もなんとなくそれを手伝っていたら―がこんという鈍い音の後にエレベーターは動きだし、りーんとやはり場違いなほどのどかな音で鳴り、固く閉じていた銀色の扉は簡単に開いた。ら、やはり急な停電で外もだいぶ混乱していたらしくざわざわと人が行き来している中遠くから絶叫が聞こえる、「ぅぉおおおおおおおおおおおおおおおお………」だんだんそれは近づいてくる。たぶんおそらく、こちらに向かって。絶叫している何かがこちらに。「おぉおおおおおおおおぉおおおおおお………ッス!御剣検事殿ぉぉぉぉ!こちらに!!!!!」こちらに突進してきたのは部下の刑事だった。彼をえらく、それはもうブッソウなほど慕っている、大型犬のような刑事が、えらく息を切らせて、たぶん上から下まで走り回っていたのだろう、しかしほっとしたように。「停電して、その…外はすぐに電源が回復したんッスが、エレベーターはまだしばらく動かなくって、自分はまさかと思って…あの後、薄暗い中、検事を探し回っていたッス!」「ム…それは、申し訳なかった。この通り、無事だ」「よかった…よかったッス!奥様も一緒で、ホント、よかったッス!安心したッス!このイトノコ一世一代の大爆走で、検事を―」「それより。刑事、キサマ、今日の証言は―なんだ、あれは!貴様の目は節穴かッ!」早速の怒声に刑事は身を竦ませる。「返す言葉も無いッス…」としょんぼり、答えて、ああ私は刑事かわいそうにと不謹慎ながらすこしだけ微笑む、御剣はえらく顔を赤くしていつもより数倍は余裕なく怒っている―奥様、という響きで。たぶんさっきのあれの上に、相当狼狽したに違いない。私は笑ったまま御剣の横を抜けて、目標だった二階に降りる。えらく動揺したうえ浮き足立っている自分に気づかれてしまう前に。


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