※未婚の頃



失敗した、と思った。なんにせよ、自分の予期せぬ行動で相手に迷惑と言っても差し支えない何かをかけることは、失敗である。元来私はそういったものを忌避する性質で、それは実家の教育の賜物でもあった。そしてそれに誇りを持っていた。私の前髪はつめたく額に張り付き、涙のように泥臭く顔に幾筋も雨水は道を作る。埃臭い、汚い水。外は真っ暗で、この事務所の中だけが煌々と明るい。男はずぶ濡れの私を見て一瞬目を丸くしたが、法廷で尋問するときさながらの冷ややかで過不足の無い声で、「どうぞ」と言った。私は俯いていた。汚い床。白いはずの床は私の水で濃い灰色に照らし出されている。



最初の感覚は、『違和感』だった。よく聞く、「見られている」だの「人の気配がする」というのは―大抵の場合ストーカー側の注意力が鈍い、もしくは獲物にプレッシャーを与える為にあえてそうされている場合に限る。といっても私はそういった事例にさほど詳しくはなかった。私の仕事はといえば、その結果獲物が殺され死体になってから発生するものだったからだ。とにかく私の生活にはいつからかわからないが、じとりと、ねとりと、いつの間に入り込んだかわからない小バエが生ゴミの中にいることや、お風呂場のドアの下の僅かな角にはりついたカビや、そういった不快で目障りで、そして根拠を断ち切れない―違和感として、根を張っていた。2回鍵を変えた。1回実家に電話した。しかし私は自分の感情の状況説明がとてもへたくそで、かつ母親はそういった感情の機微を読むにはすこし感受性が足りず、すれ違って終わるだけだった。1回先輩に相談した。先輩はひどく私に―優しく、(これは本当に私がその時求めていたものだったような気がする)してくれた。しかし残念なことに先輩は私と同じ職なので、私が死体にならなければ力を存分に発揮できないに決まっていた。そういう趣味の悪い冗談で場を和ませようとしたら、先輩は本当に傷ついたような顔をして声を荒げ私を叱ったので、私は謝るしかなかった。優しい人だと思った。何もかもが、外の冷たさを煽るだけの一時的な暖かさでしかなかった。「この手のことは、弁護士に相談するのが一番いい」「…やっぱり、そうですよね」「構わなければ私が手配しよう。女性が良いか、年をとっているほうがいいか、何か希望があれば―」「いいえ。さすがにそこまでは、先輩の手を煩わせられませんから」私は親切を静かにしかしはっきりと、遠ざけた。本当にしょうもないことだが、私がこの世で最も苦手なのは根拠の無い優しさだった。何の下心もない慈悲だった。ある作品はそれを正義と名づけているらしいが、そういったものを心から怖れ避けつづけている私にとって、それはまったく皮肉なことだ。



傘の位置が変わっているような気がする。



鍵がいつものガラスの鍵置きからずり落ちているような。透明なオレンジ色のプラスチック製のケースに入った錠剤が、ほんの少し減っているような。メクリジンとヴァイコディンだけが乱雑に倒れている。ぬいぐるみがベッドに、うつ伏せに転がっている。自分でもよおく、よおく見なければ違いがわからないシックでビロウドのような、真紅といってもいいダークレッドのマニキュアと、ポップでマットな、光を良く受け入れて輝くほんのすこしだけ明度が高いチェリーレッドのマニキュアの位置が、変わっているような。片割れが欠けているから分けておいてあるはずのシンプルなピンクシルバーとピンクゴールドのピアスがいっしょくたになって転がっているような。舌の置き場所や、呼吸の頻度を意識し始めた瞬間居心地が悪くなるような、「それと意識しなければ」わからない、違和感ばかりが部屋に満ちている。私は自分の部屋に帰ってきたはずなのにまるで路上に立ち尽くしているかのような気持ちになった。こんな感覚になるなら検事局の、自分の執務室で寝たほうがずっとずっとましだったに違いない。しまいに私は自分の部屋に帰ってきたことを後悔していた。もとより治療が必要な程度の神経過敏の気があったことは否めないが、それにしても最近の自分の違和感はひどい。がんがんと耳鳴っているようにも思えた。私は近くの24時間やっているファーストフード店の二階で、人口甘味料の苺味しかしないシェイクを飲みながら急いでもいない仕事を夜が明けるまで片付け続けた。一睡も出来ない。



「…検事、顔色悪いっスね」という声で私は遠のきかけた意識を取り戻すことが出来た。刑事はでかい図体をしょもんと小さくして私を覗き込み、その様子はさながら大きな犬のようで、私は少し張り詰めていた気を解く。「あんまり無理しちゃ駄目ッスよ。いくら御剣検事に憧れてても、そんなとこまで真似するのはやめておいた方がいいッス」私は苦笑いして、冷めかけたコーヒーにミルクを何個も入れて抱える。糸鋸刑事の長所の一つに、優しく相手の口を割ることが出来るというものを挙げたい。さすがに責めたてるだけが仕事の私達と違って、彼の言葉にはさながら犬ぞりを引く犬の群れのような連帯感がある。嗅ぎ回って一人で敵を追い詰める私達とは違う、弱さゆえに群れる者達の甘さとも違う、疲れて歩みを遅くする仲間を後ろから励まし追い立ててやるようなものがある。それは、様々な箇所においてバランスを崩しかけていた私にピンポイントに作用し、ゆっくりと言葉を吐かせた。ぽつりぽつりと、しかし、確かに。私は刑事を信頼していたのだ。気のいい男で、少なくとも職務において性質としてはっきり持っている甘さを持ち込むことはない。「…………ストーカー?」刑事の顔つきが変わる。訝しげではあるものの、その表情はまさしく仕事の琴線にかかったそれだった。私は丁寧に、なるべく抽象的な言葉を避けて、状況説明をするように吐いた。それは少し検事の神経が疲れているだけだ、と言われたら納得して次の休みで病院に行ってもいい。それくらい心穏やかだったと思う。しかし刑事の答えは残念なことに、と言うべきだろう―違った。「自分でよければ、しばらく申し訳ないッスが検事局に泊まってもらうとして―連絡をくださればこことの往復は勿論、外出時はできる限りボディーガードにつきますが。どうするッスか」「い、いや、そんな大袈裟な…ただ、これはやっぱりそういうことなのかな、って」「うーん…」刑事はぽりぽりと後頭部を掻く。「確信は無いッス。ただ、この手のことは総じて、何かが起きなければ自分らは動けない。検事自身もよおくご存知のはずッス。できることといえば、何かが起きないように最善を尽くすことしか」「…そうだよね」私は静かに溜息をついた。やはりそれしかないのだ。あるかないかもわからない不明瞭な敵の為に、ただでさえ給与査定がグラウンド・ゼロの記録を更新し続けている刑事の労働時間だけを増やさなければならない。無論私は時間外手当をきっちり計算して渡すつもりだが、受け取ってもらえないのは聞くまでもなく明らかだった。ただただ、心苦しい。「一番いいのは、弁護士ッスけどね」「…それしかないね。糸鋸刑事は誰か良さそうな知り合いはいる?」「まあ……そッスね。いるっちゃあいます。有能と呼んでしまうのはいささか不本意ッスが」ようやく刑事はへらりとだらしなく表情を崩した。そこで再び私の緊張の糸は切れ、「紹介してほしいのだけど」と繋げた。刑事は、了解ッス、とにこやかに答え、その上で念押しするように、何かあったらすぐに連絡してくださいね、と言う。



恐怖。


というものは、往々にして私達の主観によって流動する、不定形な概念のようなものだと思っていたが、そうではないことを知る。紹介された成歩堂龍一という弁護士―無論私は知っていた。が、彼を無意識下で避け続けていたのは私の生存本能に基づく直感に違いないと思った。得体の知れない違和感は彼の事務所の、その他の安い調度とあまりに不釣り合いな高価な感触の来客用ソファに座った瞬間にはっきりと自分の中で花開く。いつも法廷で彼の隣りにいる不思議な形の髷を結った和服の女の子が甲斐甲斐しく私に渋い日本茶を淹れ、その間成歩堂龍一は私をはっきりと見据えて、幾つか質問をし、幾つかの現在講じられる手段を提示した。彼は刑事専門の弁護士だったため大して私達と背景は変わらなかったが、さすがに適正は大きく上だった。しかし何故だろう、私は違和感に呑まれてしまわないよう必死だった。和服の女の子の常軌を逸した、浮世ではないどこかに生きていると表現してもいい無邪気さのせいかもしれない。もしくはこの場所に停滞している、まるで故人が支配しているような匂いのせいかもしれない。そしてもう一つ、なにより私を絡め取ったまま違和感をどんどん色濃くしていくような、成歩堂龍一という男の言かもしれない。なんにせよ私は怯えていた。得体の知れない何かに、心臓をぎゅっと掴まれているような気持ちのまま、あまり言葉を吐けず、さして大きな解決もないまま、いつ開放されたかもわからないまま、気がついたら検事局の自分の執務室で、がっちりと後ろ手に鍵を閉めてがくがく足を震わせていた。



「ストーカーかあ。しょうもない人もいるもんだねえ」かたかたと静かな音をたてて、真宵ちゃんが湯飲みを流しに運ぶ。「お姉ちゃんが言ってたけど、そういう奴って自分は相手のことを守ってあげてるとか思っちゃってるらしいよ!まともに恋したことあるのかな」「それは真宵ちゃんが言っていいのか…まあ、うん、千尋さんはともかく真宵ちゃんには関係ないことだね」「なにそれ!このウルトラ可愛いカリスマ霊媒師の真宵ちゃんはこう見えてもいつも色々なものに狙われてるんだからね!もうすこしなるほどくんも私に気を配るように」「それはシャレにならないからやめてくれえ…どこで恨みを買うかわかんないもんな、ぼくも気をつけよう」「なるほどくんは…どっちかっていうと………さぁ…」「な、なんだよその目は」「ううん、やっぱりやめとく。ところでなるほどくん、縁結びの祈祷でもしにいく?」「大きなお世話だよ!……あ。今日はぼくが洗うから、置いといて」「?めずらしいね。…あっ、もしかしてそういうこと?ふふ、やっとなるほどくんも"れでぃーふぁーすと"精神を取り入れてモテモテになろうという算段だね!」「ちゃんとした意味わかって言ってるのか、それ…」真宵ちゃんの長所を一つ挙げるとすると、純粋で美徳と言われるまでのその愚直さだと、ぼくは思う。



もともと抱えていた酷い神経痛に加え突発的な目眩も頻繁に起きるようになって、一度家に帰って薬を回収したいと思いつつもあんな感覚に囚われるくらいならここで一人耐えているほうがいくらかましだとも同時に思う。しかし最近は衆人環視の下でしか休息もとれなくなってきた(昼休みに使われない刑事課のソファの隅でほんのすこし居眠りをさせてもらうのが日課になりつつある)ので、そろそろ根源を絶つしかない。そうでなければ私はいつまでもこのままただただ消耗し、気がついたときにはしばらく休養するようにという事実上の失職通告に愕然とする病院のベッドの上だろう。ここまでようやく、辿り着き昇り詰めたのだ。放棄なんてできない。ぱたん、と軽い音を立てて暗い部屋の中で強すぎる光を放つディスプレイを伏せるようにラップトップを閉じる。大きな窓の下には多くの人間の苦労で美しく彩られた夜景が広がっている。その中の一つの求める明かりがまだ消えていないことを願って、私は黒い薄手のトレンチコートを着て戸を閉める。起きてはいけない"何か”だが、いざ起きれば私の同僚と先輩はどのような手段を用いても決して卑劣なその捕食者を逃がさないだろう―ということだけが、今の自分の心の支えだった。



夜遅く、雨が降り始めたのは真宵ちゃんが帰って2時間ほど経った頃だろうか。ぼくには一つの予感があった。過敏なほどに人の言葉に意識を集める彼女のこと―単純にその頻度と感度だけを見るならぼくや御剣、狩魔以上だろう―しかしそれの全てが良い方向に働くとは限らず、何事もほどほどでなければ毒になるのだけど―とにかく彼女の、年若く優秀な検事としてでなく一般的な女性として生きるにはだいぶ細かすぎる網がぼくが無遠慮に散りばめて来たピースをキャッチしないわけがないのだ。とくに今日の接触はだめ押しだった。あの動揺っぷり、あの怯えきった瞳!精神も肉体も限界なのはまったく家に帰れていないことを見る限りよくわかっていたが、それにしてもまったく彼女は嗜虐心を煽る天才だ。ぼくは俗に言う『尽くすタイプ』だと思うし、裁判中の扱いを見てもらえばマゾヒスティックな気があると思われても仕方ないだろう。つまり、ぼくは『そういう』嗜好をもつ、悪趣味な男ではない。全ては彼女の、そういった特性のせいだ。



強すぎるだろう力が込められ、扉が開く。ぽたりぽたりと小さな音だけが響き、「どうぞ」と無感情に言ったあと、成歩堂は鷹揚に息を吐く。そうして、「大丈夫ですか」などと不釣合いに浮かぶような声で言う。「…どうして気づかなかったんだろう。あなたは私を、ずっとずっと前から見ていたのに」私がそれだけをようやっと搾り出すのと、成歩堂が戸を閉めるのは同じ瞬間だった。「…気のせいじゃないですか?ぼくはあなたのことなんて―」「嘘だ!見てた、あなたは私のことをずっと見ていた―御剣先輩の法廷で、いつも、私を―私の目を見ながら、先輩を―」検事局きっての天才にしてエースオブエースと言われた御剣と、生ける伝説と化していた無敗の狩魔を破った、底の見えない無銘の敏腕弁護士―という言葉が検事局においての成歩堂龍一の評価だった。私は何度も、それは何度も―御剣先輩の仕事を見るために可能な限り彼の法廷に足を運んだが、一体あの知性も品も欠片もない、ちまちまと見え透いたハッタリを張り巡らせ筋の通った主張を煙に巻くあの戦法のどこにそこまでの力があるのだろう、と不思議で仕方なかった。先輩でさえ成歩堂に一目置き―刑事など尻尾を振って機密を漏らし―本人はへらへらと笑って無罪を勝ち取る。最初はあった興味も、何度も見るにつれて底の浅さが露呈し薄れていった。愚直で凡庸な男。人を盲目に信じることだけが、まるでただ一つ自分の武器だとでも言うように―「検事。あなたには少し、神経過敏の気があるらしいですね。被害妄想も強いとか。きちんと服薬は定期的にされていますか?」「だ、からッ―」しかしそれでも覚えている。検事席の後ろの傍聴席に座る私に向かい合う、遥か下の弁護士―この男だ―の、絡みつくような執着の視線。気のせいだと納得させた瞬間を見計らって投げかけられる、心臓の裏を摘まれるような、吐き気を伴う視線。「…もちろんしていないでしょうね。なにせストーカーの一件がある以上家にはまったく帰れていない。服薬をしているということさえ伏せてあるんじゃないですか?検察庁の組織の一員である以上、精神疾患に関してはえらく厳しい監査が敷かれてるはずですし。番犬のような優しい部下だってそこまではご存知ないでしょう。大した綱渡りをなさってますね」にこりと成歩堂は人の良さそうな笑みを浮かべる。絶対的優位を主張するように。



私は自分が検事だということさえ、漏らしてはいない。



「…まあ、ぼくは、知ってるんですけどね。どうしようかな。スキャンダルになっちゃいそうですね。あなただけでなく、あなたに責任を持ってる先輩検事まで巻き込んだ」「それを、それを…狙っていた、の?御剣先輩を負かすんじゃ飽き足らない、検事バッジまで奪ってやろうって?」「嫌だなあ。御剣はぼくの親友ですよ。そんなこと全然思ってませんし、したくない。あくまで、あなたにいつまでもそうやって立場を理解していただけない場合の話ですよ―」私が何か言おうと口を開いたところで、成歩堂はぴしゃりと、法廷でそうするように、まるで私は彼に引きずり出された真の被告人だとでも言うように、吐き棄てる。「欺いているのはあなたの方でしょう?」流れるような仕草で机の上に投げ出されたピンク色のクリアファイルを拾い上げ、「何かわかりますか」ぽんぽんとそれを叩く。私は自分の身体をかき抱いたまま、歯を食いしばるしか、ない。「―あなたの全ての処方箋のコピーです。あなたの部屋からはこの中に記されていないモルヒネ成分含有の―純粋に成分と依存性だけに着目するなら紛れも無い麻薬だ―明らかに通常量を大きく逸脱した、日本では未認可の大量の鎮痛剤が見つかりました。この二つの証拠が指し示す罪状はなんですか、検事」「…………………」「おわかり頂けたようで何よりです。この様子なら、『何か起きる』前に事が片付きそうですね」…私が、疾患を理由に検事としてあってはならない失態を犯す前か、それとも私がそもそも怖れていた事件が、起きる前か?理解する前に、私の足は震えていた。何度も唾を飲み込んだ。私は自分の身の心配しかしていなかった。愚かなことだ。私を叩けばどこまでも埃が出続けることは火を見るより明らかだったというのに。そしてその埃は私だけでなく、先輩の肩をも汚す代物なのだ。


成歩堂龍一は親しげに私の肩を抱き、朗らかに場違いな声を出す。



「これからよろしくお願いします。ぼくもプライヴェートでまで、仕事したくないんですよ」



―天網恢恢疎にして漏らさず
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -