恐らく。全ての駒は揃ったし、賽は既に投げられていた。泣く被告を落ち着かせるために別室に一時隔離し、私は糸鋸刑事に電話をかける―「私だ。そちらはどうなっている」「目下追跡中ッス!次の―18時の電話の探知で、決めたいッス…よろしくお願いするッス、検事殿」「無論だ。こちらも二度遅れを取る気はない―頼んだぞ、刑事」時間は17時と半分を過ぎ、再びメインオフィスは慌しくなっていく―話している途中で連絡が来た。あの時と同じように再び受話器に飛びついた刑事が叫ぶ。「犯人です!」「了解した。それでは」「ラジャッス!検事もご武運を!」―武運か。まあ、その通りだ―再び人がどっかりと私の周りに集まり、私がついた席の電話に回線は繋がる。懐かしのボイスチェンジャー。「会いたかったぜ、検事殿」「―私もだ。なかなか律儀なようで何よりだな」「律儀じゃねえと誘拐なんてできねえさ。…さて、当然釈放は済んだな?」「無論だ。別室に隔離されている」「よし。なら引き渡してもらおう―護衛はなし、パトカー1台で湾岸の倉庫群、地図は引き続き検事さんのパソコンに送っとくよ」「…提案があるのだが。私が同行することは可能かね」「……ほぉ?積極的だねェ。怖くないのかい、次はアンタの尻にナイフが刺さる番かもしれないぜ」「この状況で私まで脅迫するとは―マッタク、よほどの馬鹿か死にたがりらしい。私が死んだところで司法が死ぬわけではない。恐ろしさなど微塵も無い」「ケッコウなことだ。それじゃ、通話を終えてから40分以内ってとこだな―待ってるぜ」簡単に回線は切れた。だが―心は穏やかだ。可及的速やかに、やることのみを遂行すればいい。既に真実は私の手の中だ。




運転手が一名、護衛という名の―恐らく倉庫内には入れないだろうが、刑事が二名。私を促し助手席を開け、被告を挟むように乗り込もうとした一名を止め―被告の隣りに私が滑り込む。刑事は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに頷き移動した。…被告はアワレなほどに震えていた。泣き跡は痛々しいほど残っている。「…約束は、守るつもりだ。その後のことも、また」「…その後、とは」車両が走り始め、検事局前には刑事と検事が皆並び、我々に向かって一様に敬礼している―――「無論、貴方の証言が確かならば貴方は裁かれるべき人間ではない。審理のやり直しを要求する」「でも、それは…私は、もう、いいんです。こんなめに、あうなら」「―冷たいようだが。貴方の身を案じているわけではない。これは貴方の公判を担当した検事としてのプライドに関わる問題だ」被告は、ふふ、と絶望的なしかし優しく聞こえる音で息を吐く。「あの時と違って、お優しいんですね」「………どうか昔の話は、それ以上しないで頂きたい」私は目を逸らす。胸ポケットからイヤフォンを取り出し―エナメルのような光沢の、ピンクと黒の―耳に差し込んで、中を覗き見ることなくただ濃い紫の色合いを保つプレイヤーの再生ボタンを押す。you'll never walk alone,と重い重いギターサウンドの上で不似合いなほど甘すぎる声の女性ヴォーカルが歌っている。悲痛なほどの決意をもって。どんな罪も背負ってあげる――――と。




空の目に場所を知らせる赤いランプが―随所に点滅している。既に日が落ちた倉庫群に人影は無く、外の空気は肌寒い。どのあたりまで警察が網を張れているかはわからない、彼女は犯人グループを二人まで把握していたものの、それ以上の人数がいるとも限らない―となるとまずこの指定倉庫内に受け取り役が一人として、必ずもう一人警戒役がいるはずだ。そして、もし万が一犯人が二人組だった場合―人質は確実にどちらかが連れている。そうなるとここで形勢逆転も充分に可能だ。間違いなく追跡班はここに辿り着く――私は息を整え、被告の拘束の縄を握る。刑事は三人とも武装し私達の周りを囲い、非常に大きすぎる船舶用の貨物倉庫の入り口は人ひとりぶんの横幅だけ開かれていた。「護衛は外にいな」―ボイスチェンジャーではない、生の声。間違いない、あの男だ―彼女を蹴り回し、かつて我らの犬として忠実に任務を全うし、そして裏切られたアワレな男。私は頷く。刑事らはすっと身を屈めて待機した。被告は息を震わせながらも、しかしその瞳はその声を聞いた瞬間に少しだけ煌いた。私は歩を進める。内部の照明は高すぎてまったく充分ではなく、薄暗く中に立つ人影の様子まではっきり見えない。「まさか本当に来るとはなあ、検事殿。光栄だ」「…こちらこそ。ここまで我らを弄ぶ手腕、まったくミゴトと認めざるを得ない」「なに、年の功と勘だ。誘拐は素人だが、誘拐を追う側には多少の経験があるんでな」私は息を吸う。煙草の臭いだ。喫煙しているらしい、ということ―そしてもう数メートルほどしか離れていないということしか、わからない。



「さて、では単刀直入に始めさせてもらおうか―とりあえず、先刻の捜査協力に惜しみなく感謝させていただく」「…どういうことだね。アンタの下で捜査をした思い出は無いが」「過去の強盗事件について私はやっと真実に辿り着けた。貴方の証言のおかげで」「…ほお。そこのお嬢ちゃんと仲良くお話できたってことか」「貴方は私の推理は未熟でそして情報が足りないと指摘はしたが―真実でない、とは一言も言っていない。少なくとも私が集めたあの情報と推測が全て間違っているわけではない、ということに気がついたのだ」「詭弁だな。ならば今度はホンモノに辿り着けたってことでいいかね」「…事実は時として小説より奇にしてそして、残酷だ。私の想像を少なくとも遥かに逸脱していた」「だろうな。アンタら検事は皆、結果のみを紙上で眺めてわかりきってることをエラい椅子に座って考えるだけだ。よくチビんなかったもんだぜ、検事さん」「…。やはり貴方の部下は、あそこで、その、…被告をかばって、殉職を」男は笑った。低く低く、皮肉なほど静かに。「その通りさ。若くて、ガムシャラな―まったく眩しい奴だった。あの時も、経験も足りない奴が同行すべきでないと言った俺に食って掛かってきやがった。『なら一体どこで経験をつめばいいんだ』ってな」



「俺はあいつの弔い合戦を始める気はない。あいつの殉職にはタマシイがあった。それを弔うなんざ、組織に唾吐いて逃げ出した俺がやったら侮辱だ。組織の改革も―俺には荷が重すぎた。大学出てない俺にとっちゃ刑事として死ぬまでに昇りきるべき階段が多すぎた。俺ができるのは――単なる挑戦だ。司法への、組織への、そして、最後に俺が一択の望みを託していた検事へのな」私は―言葉を出すことは出来なかった。「…俺はこれでも、アンタらを信じていた。群れを作る狼の狩りの手法は知ってんだろ?俺達にできるのはただただ獲物を追い立てて走ることだけだ。逃げ道を塞ぎ、逃走ルートを支配し、疲れさせるために―ただただ獲物を追い続ける。質ではなく量をもって。そうして何時間も追い回され続けた獲物は完全に群れの上位の優秀な―足も速く狡猾な狼の元へと誘導される。そしたら後は仕上げだ。優秀な狼が獲物を仕留める、だけさ。アンタら検事はその優秀な上位の狼のはずだったんだよ」「………そこでミスをされては、自分たちの苦労が報われない、と?」「…無論誰にでも、俺達にだってミスはある。たとえばあの時だって俺達は機動隊とハッキリ連絡を取っておくべきだったし、まだ若い抑えのきかねえ奴を連れて行くべきでもなかった。人質を庇って死ぬくらいならその前に見張りを襲って銃を奪うべきだった。そもそもあんなサイコ野郎としか話せねえんなら交渉なんて無駄でしかなかった―――あげつらったらキリが無えな。まあ、そんなもんだ。過去を振り返る時と他人の庭を覗き込む時、個人の注意力は能力以上の力を発揮する」



「だが、それを補うのは組織の力だ。俺達はミスをした。補うべきアンタらはやっちゃいけねえミスをしやがった。美味い獲物に早くありつきたい一心で、決して犯しちゃならねえミスをな」「………返す言葉も無い。それで、この場で彼女を解放し私を殺して溜飲を下げる気か」銃口が影の中から、はっきりと私の方に向けられている。「そこのお嬢ちゃんがグループの一員だって連行されてった時は目を疑ったよ。その事実には勿論だが―何よりあんな怯えて震えきった強盗がいてたまるか。それに誰一人として示し合わせたように気づかないアンタら頭の良い狼さん達にな」「それで。どうする気だね。ここでその奢った狼を一頭殺してどうするというのだ―もはや群れには帰れまい」「そんなことにはまったく興味が無え。俺はあいつを弔うことはできないが、あいつの尊い殉職が名ばかりの犬死ににされた理由を問うことはできる。こうして、お前に――」「――そんなことは」無意味だ、と言おうとしたところで被告が私の袖を引っ張った。強く。何事だ――と思った瞬間、私達が入ってきた方とは逆側の扉で轟音がたつ。





時刻は少し、戻る―――――狭い車両の中で私はもがいていた。ずっと圧迫されていたし、苦しくて―いつの間にか後部座席には私以外に人はいないし、振動もエンジン音も当の昔に止まっている。車内に物音はない。相変わらず視界は黒だし声は出せないうえに、拘束されっぱなしの手首と親指はもう皮が擦り剥けてひりひりする。蹴られたところも口の中はじんじんするし、おかしなものをつっこまれたところも―違和感がある。これ以上おとなしく縮こまっていろなどというのは無理だ。目隠しだけでも外れないかと背もたれに後頭部を擦り付けるようにしていると、僅かに視界が開けてきた。ベージュの、ぼけたような色の車内―まったく物がない。視力はゆっくり戻ってくる。もともと涙が少ない体質なのにこんなに連続で酷使されてはコンタクトが貼り付いたまま瞳孔になってしまうんじゃないかと怖くなるが、それならそれで義眼にでもしてやろう、労災使って。やけだ。大事なところは全て現代技術でもってる私のメンテを遅らせた罰だ、と―さすがに口枷はかなり固く、そう簡単に外れてくれそうにはない。が、既に視界は完全に開けた。身体は起こせないが、座席の下に自分の携帯が落ちているのが見える。糸鋸刑事あたりに繋げておくか、GPSをオンにすればおそらく―電池が切れているという穴にさえ落ちなければ。だが、移動したということはやはり先輩と会話したあの回の発信で移動範囲をある程度絞り込まれたということ―そして、おそらく奴らの狙いは何らかの先輩が担当した過去の事件の被告だ。おそらくどこかの瞬間で受け渡しが行われるはず、そうなると今この状況が何なのかだんだんわかってくる。私は車内に監禁されている。フロントガラスからは夜空が見え、屋外――受け渡しに出た奴らは一定時間帰ってはこないだろう。逃走のチャンスがあるとしたらここだけだ、被告の受け渡しの護衛のパトカーは制限されていたとしても、確実に最高4人はこの近くに刑事が張っているはずだ――それならば。



足を伸ばす。ヒールでストラップの紐を引っ掛けられないか、と―なにせうつ伏せのまま背後の視界の端にだけ見えるそれを足だけで追うのは至難の業だ、しかし―ほんの2、3年前まだ私が高校に通っていたころ学校帰りに友達と原宿で買ったクマのメタルチャームがかわいそうに一つぽつんとつけっぱなしになっているはず――なのだ。それまで外されていたら、私はもう腹を括ろう。敵が周到すぎて、神に見放されたと思うほかない。こつん、とプラスチックを踏む感触。側面の電源ボタンがここからでは目視できない―せめてどちらが表面か裏面か、あのクマにさえ辿り着ければ把握できるはずなのに。慎重に足を下げるとちゃりっとクマが首から下げている小さなガラスの粒みたいなペンダント―を、踏んだ、ような気配。わからない、わからないけど―そのあたりを探る。ぐるりとヒールを、紐を巻くように回す。お願いだから釣れてくれ、という願いを―神は聞き入れた。教会なんてアメリカにいた頃でさえろくに立ち入ったこと、なかったのに――これからはもう少し存在を意識してやろうと思う。私のヒールには過去の友情と腑抜けた信仰の賜物が絡み付き、存在を重さで主張している。よし、と息をつき―側面を撫でていく。足がつりそうになる中でどうにか探し出して―電源を踏みしめたところで、自分が身体を押し付けていた後部座席のドアが思い切り開かれてしたたかに身体は外に落ちてしまった。「小賢しいことしてんねえ」



「まあ、いいや。なんだか色々うまくいきすぎちゃって俺も楽しくなくなってきたし―検事さん頑張ったみたいだし、電源はそのままにしといてあげるよ」くすくすと耳障りな笑い。頬に触れる路面の感触と、水溜り、貨物―?倉庫、かな――サイレンの音が近づいてくる。すごい勢いで。山のように。若い男が私を軽々と引き上げ、ボンネットの上に乗せる。私の首筋にあの憎きサバイバルナイフを押し当てて―サイレンが幾つも迫ってくる。赤い光さえもう見える。停車しているのは大きな貨物で細く作られた路地の中で、後ろには固く閉じた倉庫が一つ、前にのみ道があるのに―口枷が切られるのとその目前の通路にサイレンの音と赤の回転灯が乗せられた覆面車両が道を塞ぐように何台も滑り込んできたのは同刻だった。ドアは開かれ、転がり出るように何人もの刑事が銃をこちらに―正確には男に向けられる。「動くな!警察だ!」とかいう―まったくなんというか、説明不要な事柄を叫んで―しかし男は笑う。私は唇を噛み締める。こんなに私に有利な状況になってしまったというのに、なんだろう、この違和感と不安は。「わかってると思うけど」首に刃が食い込み、ぴりっとした痛みと共に一線の赤が引かれる―「それ以上近づいたりおかしなことしたらこうだよ」刑事達が押し黙る、見知った顔の糸鋸刑事が―先行グループの二列目、あたりに―見える。アイコンタクトが取れる位置。私は屈辱と恐怖で視線を揺らめかせているように動かし―ほんとうに人一人通るのがやっとなんじゃないか、という程度の、路地を形作る両脇の貨物の僅かな隙間を見る。糸鋸刑事は私としつこく合う視線と、動きを見て―ゆっくり、逆光の中に消えるように後退する。無論他の刑事らは気づいていない。睨みあっている。「受け渡しの追跡っていうより、検事さんの捜索隊かな?ふうん」私は足を動かす、携帯が―さっき男は私と一緒に、ボンネットの私の背後に携帯を置いたはずだ―「検事さんも動いちゃ駄目だよ」くそやろう。



「なんか俺、はめられちゃったぽいなあ。ボスもとんだ鬼畜だよ」くすくすくすくす、せせら笑いは止まらない。煩わしい朝の目覚ましアラームみたいに。場は膠着しており、私は親指以外の指だけで携帯の奇跡をもう一度探す―糸鋸刑事は光の中に消えた。たぶん、ルートを探りにいってくれたはずだ―あとは、あとはただ一つ。悟られないように隙を作るしかない。場を不気味なプレッシャーだけで抑え付けているこの男の裏をかくには、たとえ全てが相手の想定の内だったとしても動き続けるほかにないのだ。恐怖と威圧に負けてしまわないように。足を止めたら最後、相手のペースに呑まれてしまう―私はこっそり耳打ちする。「…こんなときにあれなんだけど。トイレいきたい」男はにやにや笑っている。「ホントこすいなあ。俺で遊んでんの?」「そんな肝なんてないこと、知ってるくせに―」へらへら喋ってるくせにまったく隙を見せない、刑事らは皆ぎらぎらと目を光らせているというのに―「ほんとだよ。緊張と怖いのとでもう漏れそう」「見え透いてんね。勝手にここでしなよ、今更そんな恥―――」男は二本目のナイフを刹那に取り出して私が示していた貨物の隙間に投げ入れる、のと同時に―私は会話の間で掴んでいた携帯を足の動きを最小限にするよう意識しながらその逆方向に蹴り落とした。鋭い何かが割れるような音と、彼は逆だったか、と一瞬だけ、ほんの一瞬そちらに注意と視線を移す―――だがその瞬間だけで充分だった。投げ込まれたナイフを避けるために咄嗟に仰け反り膝を折って身を落とした糸鋸刑事が発砲した銃弾は彼のナイフを握っていた手を撃ち――ナイフがボンネットの上を跳ねたところで刑事達が吼えた。「確保ぉぉぉぉぉッ!!!!!!!」


しかしそれ以上はなかった。「やるじゃん」と呟き―私をそこに残したまま男は運転席に滑り込み、そのまま―そのままアクセルを逆噴射する。つまり通路を塞いでいた背後の倉庫に向かってバックで爆進し―「撃つな!検事に当たるッ!!」、―背後の倉庫の戸を破壊して突っ込んだ。


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